杉森神社の物語(令和編)東広島市河内町~癒しの風景

田舎で0から宮司をやってみたかったんです。好んで信じて楽しみながら奉仕をしています。

3月の日記12 日本の疫病の歴史と信仰その3

2020-03-12 17:23:24 | 神職・宮司なるためのコーナー

3月12日

ご朱印参拝1名。来客多数

「日本の疫病の歴史と信仰」その3

夏の風物詩の神社境内でみる茅の輪の本当の意味は?

実は、夏越の大祓のあの大きな茅の輪は「腰にまくもの」だった

 『風土記逸文』 備後風土記に曰く、「疫隅国社(えのくまくのくにのやしろ)、昔北の海に坐しし武塔神、南の海の女子(むすめ)をよばひに出で坐ししに、日暮れたり、彼所(かしこ)に蘇民将来・巨旦将来という二人すみき。兄の蘇民将来はいと貧しく、弟の巨旦将来は、にぎはひて、屋倉一百ありき。ここに武塔神、宿りを借り給ふに、おしみて借しまつらず、兄の蘇民将来は借し奉る。即ち粟柄を以て座とし、粟飯等を以て饗(みあへ)奉る。既に畢へて出で坐しき。後年経て、八柱の子を率いて還り来て、詔りたまはく、我、将来の為に報いせむ。汝が子孫、其の家に在りやと問はし給ひければ、蘇民将来答へ申さく、己女子とこの婦(め)と侍ふと申す。即ち詔り給はく、茅の輪を以て腰の上に著けしめよと詔り給ふ随に、著けしめき。その夜に、蘇民と女人二人とを置きて、ことごとに許呂志保呂保志てき。その時に詔りたまはく、吾は速須佐能雄能神なり。後世に疫気(えやみ)あらば、汝蘇民将来の子孫(うみのこ)と云ひて、茅の輪を以て腰の上に著けよ。詔の随に著けしめば、即ち家なる人は免れなむと詔り給ひき。

 茅の輪を腰にまいたことにより災厄を免れたという故事

 夏越=夏を越し、残り半分を無事過ごせることを願った言葉。または疫病神を和ませ災厄を鎮める意味もある

 茅=根は漢方薬、利尿、止血作用

 「水無月の夏越の祓する人は千年の命のぶといふなり」は茅の輪くぐりのときの唱え歌として室町時代の『公事根源』にでてくる。大祓は天武天皇期からはじまり(1300年前)戦国時代の中断をはさみ行われている

 世の中、いろんなウイルスが蔓延っている。「大祓行事」によって救われるかもしれない。

 因みに、この茅が秋にはススキとなり、稲の実りに見立てられる。

 京都の祇園祭では、神社と山鉾のお会所で「ちまき・蘇民将来子孫の家」というお守りがだされる。現在は笹の葉で作られた厄病、災難除け守り。玄関の上に飾られる。

 神宮のおひざ元伊勢市は各家に「蘇民将来子孫の家」の注連飾りが一年中玄関にかけられている。伊勢には疫病が入っていかないだろう。

 因みに当社では夏越の大祓の際、お祓いした茅を各家用の茅の輪として持ち帰ってもらっているのでひと安心。

織姫も彦星も関係なかった日本の七夕!

実は、七夕は「先祖祭り」であった

 七夕の季節は、七夕盆・盆はじめ・ナヌカボン・盆道作り・墓掃除という盆行事の一つでもある

 祖先を迎える前に川で禊。盆を清らかな日にしようとした。

 笹流し・虫除け・七夕送り(悪い物を流す)=祓い=疫病退散=祇園祭天王祭=青森のねぶた(現8/1-7)もねぶた(り)流し(ねむけ・農業の妨げを追い払う)、秋田の竿灯も、もとは願い事を書いた短冊を笹竹につるして、町を練り歩き、それを川に流していた。松本の七夕人形は、着物を着せた人形を七夕の日に軒先につるし、厄除を祈った。

師走の大掃除!やらないと正月は迎えられない?

実は、大晦日の大掃除は、「祓い」のひとつである

 煤払い=昔は薪を使って煮炊きをしていたので、家中煤だらけ。単に家をきれいにするだけではなく、歳神を迎えるための祓い清めでもある。煤を払った箒は河に流す風習もあった。まさに罪穢れを流すこと。

 掃除や祓いは、お祭りの前に必ず行うことでもある。お盆、例祭なども一緒

水の神の働きとは?

実は、水神は、「農耕」の神

 水田農耕にとって水は最も重要故、田の神と結びつく。また、水源地で祀られる場合、水分(みくまり)神は山の神とも結びつく。日常生活にも井戸、泉、水汲み場で水神が祀られる。水神の象徴として河童、蛇、竜があげられる。

 水神の祭祀は、6月と12月が多く、夏の水神祭は、流行り病や水害の災厄を防ぐ祇園や津島の天王信仰(牛頭天王)と結びつく。

命もちを称えることは?

実は、大祓詞は「言霊」の力をおもいっきりだしている

 御祖神の言葉を称え大切にし、さらに皇孫である天皇さまを称え大切にしている。その中で罪穢れが生じるが、お祭りをしてとても尊い祝詞を申しあげることにより、すべての神さまが聞いて下さり、さまざまな水の流れの現象のように祓われ、その罪という罪は、きっと祓戸の神さまの力によって祓いやってくださると願い、言霊の力を発揮している。

天から降ってくる水の力とは

実は、神道では、水は禊祓いとともに「本来の姿をあらわせる」力があると信じられている。

 伊邪那岐命の穢れを取り除くために河の水で禊をしていること。

 天照大御神と須佐之男命のウケヒでは、まず、どちらも天の「真名井」の水で剣も飾も濯いでいること。

 真名とは、真実を明らかにする働きをもつという意味。

 水は不正をも含む穢れを流し去り、「本来の姿」をあらわす力をもっていると信じられているということ。

 嫌なことはみな水に流すのである。潔さ=生まれながらの感覚。それは愛、調和、寛容につながる。

遊びが大切

実は、遊びは、「神事」である

 古代社会において葬儀に携わる人々を遊部といった。天皇が崩御すると殯宮に供奉し、戈、刀、酒食をもって奉仕した。この世とあの世との境を隔てて悪いことや流行病などの原因となる霊を鎮めたり死者の遊離魂をよび返す職掌である。柿本人麻呂は、遊部に属する人だったので万葉集では葬送歌が多くみられる。

 遊ばすとは、神として行動すること、のちに狩猟や歌舞や宴楽のことを言うようになった。天若日子(天孫降臨前に遣わされたが使命を全うせず逆らったことから亡くなった)の葬儀では喪屋を作り八日八夜にわたり「遊び」をしたとあり、歌舞飲食をして死者の魂を鎮めている。遊びの原義が霊魂とも密接に関連している。

 神楽は神に奉納する神事であるが、神座(かみくら・神を迎える場所)遊び(歌舞)の略語で神楽はかみあそびとも言われている。神楽は、神を迎え、神を讃え、人々に祝福を与えてくれる神の姿でもある。

 遊びは、哀しみを乗り越えさせたり、日々に活力を与えてくれるものであることからすれば、神事と結びつくことも理解できる。

つづく・・・

 

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