昨日フェイスブックやツイッターで、若き女性写真家でコメンテーターの安田菜津紀さんが
『在日コリアンの父に差別的投稿をした二人に対し提訴・・・』という記事を目にした。
Youtubeなどで時折、政治的コメンテーターとしての彼女を見かけて、的確で慈愛に満ちた話しぶりに好感を持っていた。
父親は彼女が中学2年生のときに亡くなり、その時彼女は、父が『在日コリアン』であったことを知ったという。
それで差別することしか知らないアンポンタンどもが彼女の父親や彼女の出自について、間抜けな事を書いては
ツイッターなどに投稿していた、いわゆるヘイトスピーチだ。
こんなアンポンタンな連中のやり取りをみていると、『悟り』っていうのは本当に『差取り』だなぁ…とついオヤジギャグが出る。
ときに人間は『自分のルーツ』に悩むが、『悟り=郷里(サトリ)』と知るべきで、いちいちチマチマした地理的場所のルーツ
社会的階級のルーツやら人種的ルーツなどなど、どうでもいいことにこだわることを止める時期ではないだろうか。
仏語でそういったのを『平等性智』というらしいが、
昨日の12月8日は、釈迦が『天上天下唯我独尊』と叫んだ赤ん坊のときの予言を実現した瞬間で、
『一人ひとりが尊厳独っで、生まれ出でた〜!』であって、その他はどうでも良い・・・ということなのだ。
そういったことを、芯から解するための『悟り』というものを、私たちは真剣にとりくむ時なのだと思う。
今朝、一足早く起きてネット新聞を読んでいた相方が、まだベッドで横になっている私のところに
憤懣やるかたなしの状でやって来て言うには、あたかも新型最高級棺・・・と呼べそうな『安楽死マシン』↑(写真)
が開発され、来年にも使用できる見通し・・・である旨の記事についてであった。
『安楽死』というか『自殺ほう助』が合法であるスイスでは昨年2020年に1300人が安楽死したという。
友人との世間話の中に時折、身近な人々が『安楽死』をした…という話を耳にすることがあって、スイスではそれが合法で
あることを、思い出して驚くことがある。私はこの『安楽死マシン』の写真を見た時、何故か映画『2001年宇宙の旅』を
想起して、この点については、スイスは案外2051年ぐらいに進化しているのではないか?と訝(いぶか)しく思った。
優柔不断の私は、『まぁ、悪くないんじゃないの…』ぐらいの感想であるが、あくまで人間性を主張する相方の考えでは
(本人閉鎖恐怖症でもあるせいか)『あんな狭い箱に詰められて、誰の手も握らないで死ねるわけないでしょ〜っ』と、言うのが
相方の言い分であった。 箱の中に入り、ボタンを押すと窒素が充満し、酸素が減って安らかに逝けるそうだ・・・
自分の生死を自由にする権利などあるはずがない。
仏の教えは冷酷非情。