まぁ、2500年も前の話なので、『釈迦物語』のどこまでが真偽であるかは定かではないが
私にとって問題なのは『釈迦はなぜ「悟り」をあきらめなかったのか・・・』なのだ。
『小さな国の王子であったが、無常を感じ29歳で出家。
三人の師につき、同レベルの境地につきそれぞれ後継者として請われるもいずれも悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った。
その後6年間、様々な苦行を行なったが、極端な苦行も不適切であると苦行をやめ、沐浴したあと
村娘の乳粥の布施を受け、体力を回復して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となった。』・・・というのだ。
仏陀とは『目覚めた人』という意味で、すぐれた修行者とか聖者に対する呼称であったのが、仏教で用いられるようになり、釈迦の尊称となった。
であるから、釈迦以前にも『仏陀』と呼ばれる人がいたのであろうが、釈迦以降、彼に匹敵する境涯の者がいなかったので彼の尊称になったのであろう。
思うに、釈迦は出家当初から『悟り』への予感があったのだと思う。
6年間の苦行を含めた修行の中で小悟(悟りの予感)が何度も何度もあって、それが少しずつ確信へと変わっていったのではないか。
前人未到の『悟りの境涯』への確信があったからこそ、三人の師の要請も断り、苦行を止めることで非難されると解っていても
自分の信じる道へと突き進むことができたのだと思う。
悟る前に悪魔がでてきて誘惑したり、悟り後、梵天様がでてきて『悟り』を衆生に説くように要請したとあるが、
それこそ『自他不二』の境涯を味わった結果なのだと思うが・・・。
いずれにせよ、じつに有難いことで・・・『一休』さん、『良寛』さん、『大拙』さん等、こんなチッポケな国に輩出してくれたのだから。
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