自分の人生を振り返って、一字で表現せよ・・・と言われた時(普通誰もそんな事は言わないが)
私の場合、あんがい『観』の一字であろうか?
生まれてすぐ目の不自由な育ての母に育てられ、二十歳の頃『写真家』を志し、29歳に東洋医学を学び観風先生を師とし、禅門を叩き『観音』に出会う・・・。
こうして一行で我が人生を振り返ると、『観』のバリエーションや深浅、意味をめぐる探究の旅路であったような気もする。
禅の初心者の時、数年間行っていた『数息観』は、後に公案に没頭するようになって数息も無くなりただ『観』ばかり・・・
そのうち『観』は『妙音』を伴っていることに気付き、『観音』となって、私のいかなる雑念妄想をも断じ始めた。
それは、芭蕉の『水の音』を聞く耳を持つことでもあり、なにより『大円鏡智』の鏡となって、本来の自己を映す『自観』を観せる。
そのゆえに、『悟り=郷里サトリ』であり、何も特別な事ではなく、誰もが持って生まれた『郷』つまり
・・・本来の自己に向き合う場が『悟り』で、そこに誘う『響き』が『観音』で、皆さんを待っている。
私自身は、科学の事は全く知らないが、量子力学の方面では人間の『観察』の有無が決定的重要さを持っている事が証明されつつあるようだ。
それが、科学的に私達人間とどう関わっているのか大変興味深く、私も我が愚脳を叱咤激励して注視してゆきたいと思う。
*時間=自観についてはこちらを参考に… 2023年2月21日のブログ記事〜時間の問題は『自観』の問題なのだ
我が街のマグノリア(木蓮)〜一番咲き。
『花見』というものも、『花』と『人間』どちらともなく互いに映す『響観』(共感)という命の働きであろう。
『 悟りは『観』 科学も『観』に いたり来て もつれもつれて 不可思議解脱 』 馬骨
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