江戸時代後期に来日し、アメリカ初代駐日公使として、日米修好通商条約を締結したタウンゼント・ハリス(Townsend Harris、1804年10月3日 - 1878年2月25日)の日記から
人々はいずれもさっぱりしたよい身なりをし、栄養もよさそうだった。実際、私は日本に来てから汚い貧乏人をまだ一度も見ていない。
彼らは幸福そうで、一見したところ富者も貧者もない。将軍の衣服は想像されうるような王者らしい豪華さからはほど遠いものであり、私の服装の方が彼のものよりはるかに高価だったと言っても過言ではない。これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものだろう。
私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進するゆえんであるかどうか、疑わしくなる。
衣食住に関する限り完璧に見える一つの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに変わるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が続くだろうことに愛情に満ちた当然の懸念を表明せずにはいられない。
遠くアンデス山脈の高地や,ユカタン半島の密林に分け入らなくとも150年前には、ここ日本の地にも、今では滅びて跡形さえないが(美しく優しげな)高度に発達した文明が(西洋人に知られること無く)繁栄していた時代があった。
uxemburgさんは、その世界的にも特異な文明を跡形なく破壊し尽くした薩長軍事政権を強く批判していますが、私は破壊の元凶、最大の戦犯はアメリカやイギリス、フランス等の列強である事実を指摘したい。
これ等の本(逝きし世の面影やそのネタ本の西洋人の旅行記や日記)でも徳川政権中枢のことは其れほど良くは書いてありませんが彼等がアヘン戦争(終結1842年)の教訓を決して忘れずペリー来航時(1853年)に賢く振る舞い、最大限自重して決して彼ら(英米仏等)に対日戦争の口実を与えなかった。
反対に薩摩も長州も攘夷に凝り固まりマトモな外交感覚はまったく無く、外国船に砲撃するなどの挑発行為の数々。その後始末は徳川政権が肩代わりして丸く穏便に治める。(失われた儚い文明の最大の特徴は、「戦争に勝つこと」ではなく、いかに戦争を避けるか、いかに争わないで事を収めるか、だった)
鳥羽伏見の勝利後も土佐藩兵がフランス軍艦水兵に対して堺事件を起こすなど攘夷で凝り固まっていた。江戸(東京)や大阪が焼き払われなかったのは奇跡に近い、植民地を免れたのは、徳川政権の傍から見れば腰抜けにも見えるほどの穏便路線の賜物。
この新たに成立した薩長軍事独裁政権には攘夷以外のマトモな外交戦略も人材も、元々無かった。
攘夷を棚上げした後は『強いものにつく』という卑屈な、対米英従属外交を行う知性しかない。(攘夷か従属かの二者択一)
対外従属ではない、日本独自の自主外交を行ったのは敗戦までの15年間だけ。しかし自主外交は大失敗に終わり日本は焼け野原となってしまった。
自主外交に懲りて以後は、その時代の世界帝国に骨の髄まで従属するという、現在の『日米同盟』と相成ったわけです。(先祖がえりですね)
戦国時代に来日したフロイスやヴァリニャーノなどの宣教師が本国に送った報告書での、日本人日本文化に対する肯定的評価は,多くの日本人文化人によって紹介されている。
対して、その文化の継承発展したはずの江戸文化にも外国人旅行者や外交官の旅行記や日記に同様な記述が有るのは当然ですが、其れをうけた明治の文化人達が歪んだオリエンタリズムとして極度に反感を懐き反発する。
憎むべき偏見、誤解としてこれ等の記録を歴史から抹殺してしまう。そして歴史は偽造されていく。
何故世界の後進国の中で唯一の例外として、日本一国だけが先進国になったのか?
誰も答えられなこの疑問質問に対して、唯一マトモな答えがここにあるのかもしれない。
この本は愚樵さんが紹介されていて興味を持ちましたが,まだ読んでいません.
英国で「自然」が多少とも残っている場所は,貴族の屋敷です.自然保護と民主主義は両立するだろうか,などと考えることもあります.ゆれ動く時代の流れの中で,旧いものと一緒に大切なものも捨てられてしまうことがあるんでしょうね.
しかし英国の元々の自然植生は鬱蒼とした針葉樹林の森で入植したアングロサクソン人が皆伐した結果があの景観になった。
ハイジで有名な美しいヨーロッパアルプスの景観も欧州人の自然破壊(皆伐)の結果今のようになってしまった。
歴史的にヨーロッパは徹底的に自然を破壊し尽した後で、やっと今頃になって「自然保護」の重要性に気がついたんですよ。
しかし日本人は大昔から、そんな事は知っていた。
欧州で一番自然が残っていると言われる森と湖の国フィンランドの森林率が日本と同じ70%。
逆説的には、日本は最も自然が残っている(自然保護が成功している)唯一の先進国ともいえるわけです。