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(放射能の危険性を知らされずネバダ州の核実験場での原子爆弾の威容を眺める、防護服も防護マスクもなしでキノコ雲見物をする米軍兵士。
到底正気とは思えないが賭博と売春が合法の歓楽の街ラスベガスでは核実験が繰り返された1950年代には観光客相手の気楽な娯楽として、能天気にも原爆実験の『キノコ雲見学ツアー』まで企画されていた)
『日本降伏(第二次世界大戦終結)の原因とは何か』誰も触れてはならないタブー(禁忌)
今尖閣諸島、竹島、北方領土と日本周辺が騒がしいが日本政府も大多数の日本人も、これ等を『純粋な領土問題』と考えている。
ところが中国韓国ロシア(旧ソ連)にとっては領土問題ではなくて、歴史問題(戦後処理)がメインなので話がまったく噛み合っていない。
これでは解決するどころか揉めるばかりであるが、日本が今までまともに歴史問題と向き合って来なかった(総括せず先送りしてきた)長年のつけが、ここに来て一挙に噴き出したのです。
実は日本でもアメリカでも、あの大戦争が何故唐突に終わったのかが明らかではない。
日本が降伏して第二次世界大戦が最終的に終結した客観的的原因とは①原爆②ソ連軍参戦③天皇聖断の三つの内の何れか一つしかない。(三つが複合している場合でも何れか一つが主たる原因)
三つの内の何れかが戦争の終結原因なのです。ところが全てが高度なタブーに抵触する。
『原爆投下とソ連軍参戦と天皇聖断と』
『第二次世界大戦を終わらせた』原因に対する米国政府の『公式見解』は①の原爆投下であるが、これは日本人なら絶対に認められないし、それが正しいとすれば原爆投下は『悪』ではなくなる。
核爆弾は人類への犯罪行為どころか、原爆投下で『戦争を止めて多くの人々の命を救った』ので、正反対の『善』となる。
アメリカによる鮮やか過ぎる詐欺か手品か悪質な錬金術であり、『歴史的事実』ではなくて与論誘導とか政治宣伝の類ですね。
基本となる、そもそもの善悪が逆転するので、アメリカ人でも論理的な思考が出来る人は絶対に認めない。
②のソ連軍参戦は半世紀も続いた冷戦の建前に抵触するので、政治的な理由でアメリカは絶対に認めない。
米側だけで無く日本も自分の恥になるので絶対にに認めたくない。結果誰も『ソ連参戦が原因』と口にする者が今まで一人もいなかった。
『ソ連軍参戦の意味を隠す煙幕(目くらまし)目的の原爆神話と天皇聖断神話』
①の原爆も②のソ連軍参戦も頭から否定すれば、消去法で自動的に③の天皇聖断しか残らないのですが、公式に認めると自動的にもっと大きなタブー中のタブーである天皇の戦争責任問題が浮上する。
もしも、最も困難な負け戦を止めれる実権を天皇が持っていたなら、東京裁判でA級戦犯として裁かれ死刑になった東条英機首相以上に天皇ヒロヒトに開戦の責任があることになるので、理論上絞首刑は免れない。
戦争終結原因として考えられる、原爆もソ連軍参戦も天皇聖断も絶対に触れてはいけない危険なタブ-中のタブー(禁忌)なのです。
この為に日本では今の様な政府の公式見解を決定せず『なんとなく天皇聖断』との話になっている。
『ソ連軍参戦』の歴史的意味を否定するための姑息なツールがアメリカの方は軍産複合体主導の禍々しい『原爆神話』であった。
アメリカ製の原爆神話を絶対に認めることが出来無い日本の方は、一見まともで美談仕立てにみえる『天皇聖断神話』だった。
見かけ上は正反対の原爆神話と天皇聖断神話とは、実は同一のコインの裏表の関係にある。
日米共に戦争終結原因を厳しく総括せず曖昧にして終わらし、『棚上げ』状態にして67年間も先送りを繰り返してして仕舞う。
今回アメリカのタブー(国家犯罪の隠蔽のための原爆神話)に真っ向から挑戦したのがオリバー・ストーン監督である。
『オリバー・ストーンが、米の「常識」(タブー)に挑戦』
赤旗アメリカ特派員山崎伸治さんの『「原爆投下で終戦」という米の「常識」に挑戦』との10月10日の署名記事によると、映画『プラトーン』『7月4日に生まれて』などの作品で米国の軍国主義を批判してきたオリバー・ストーン監督の、10回シリーズのテレビドキュメンタリー『米国の語られぬ歴史』の試写会が10月6日、第50回ニューヨーク映画祭で行われた。
第3回分は、米国による広島、長崎への原爆投下は必要なかったことを暴いている。
米国では原爆投下が『第二次世界大戦を終わらせるのに役立ち、日米両羽国民の命を救った』というのが、政府も含めた『公式見解』。
1995年の被爆50周年にあわせ、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館の『原爆展』が当初、原爆投下を問い直す内容だったものが、議会保守派などの介入で『賛美』するものに修正され、日米で大きな議論となった。
ニューヨ-ク映画祭のスト-ン監督のドキュメンタリーは、第二次世界大戦からオバマ政権に至る米国の軍事・外交政策について『学校では教えてくれない歴史』を紹介するのが狙い。
『戦争を終わらしたのは「ソ連軍参戦」だった』
第三回分は原爆投下に至る過程を描いています。
第二次世界大戦末期、米政府・軍部にもソ連が対日参戦すれば日本は降伏し、『原爆投下は必要ない』という意見があった。
しかし(ソ連軍参戦での戦争終結の事実を隠蔽する目的で)、戦後(次の冷戦)をにらみ、対ソ優位を確保しようとしたトルーマン大統領が原爆投下を推し進めたことを歴史的資料で裏付けています。
原爆投下で『救われた』とされる命が大戦直後には『数千人』とされていたのが、その後『数百万人』にまで膨れ上がったことを指摘。『原爆投下が必要だった』という主張が誇張されていることを明らかにしています。
試写会後のパネル討論会でストーン監督は、もともと原爆投下を題材にした企画からこのドキュメンタリーシリーズが生まれたと説明。
『戦争を終わらして日米両国民の命を救ったとの原爆神話を信じる5割のアメリカ人』
ストーン監督とともに脚本を担当したアメリカン大学のピーター・カズニック准教授は、米国民は自国の歴史についてほとんど知識がないと指摘。『今でも世論調査では45~55%の米国民が「原爆投下は必要だった」と考えている。こうした考え方に挑んだ』とその意図を説明した。
試写会参加者からは『原爆投下がなくとも1945年の春には日本が降伏する可能性があったのでは』、『日本の降伏には原爆よりもソ連の参戦の方が大きかったことが分かった』という声がありました。
このシリーズは11月に米国のケーブルテレビで放映予定。それに先立ち10月末には同じ題名の書籍も発売されます。
(10月10日赤旗)
『タブーに挑戦したストーンと山崎伸治赤旗アメリカ特派員』
原爆投下よりもソ連軍の参戦の方が日本降伏の原因として大きかったとの指摘は、『お前達は間違っている』(今までが間違っていた)とのオルタナティブ的な立ち位置の、この『逝きし世の面影』ブログ記事以外では、今回のオリバー・ストーンのTVドキュメンタリー『米国の語られぬ歴史』がほぼ唯一のものである。
ソ連軍参戦と日本降伏が関連しているという客観的事実は、『語られぬ歴史』(タブー)の最たるものなのです。
小学生では無理でも中高生以上の知識がある大人の常識的判断なら『ソ連軍参戦と日本降伏』との関連性は当然である。
誰でも気がつく。
ところが『ソ連軍参戦での日本降伏』の事実は、たとえ知っていても絶対に誰も語ろうとはしない最高度のタブーなのである。
タブー (taboo) とは、ポリネシア語のtabuを語源とする言葉で、共同体内での『何をしてはならない』という忌避行動の決まりであるが、タブーとされる行動をなぜ取ってはならないのかの、合理的な説明は必要としない。
しかし、タブーを侵犯した場合に発生する恐ろしい懲罰は、共同体の構成員全員が熟知しているので、タブーの遵守は未開部族では最も大切な道徳なのです。
『最後はキノコ雲だった日清日露の「坂の上の雲」』
同じ敗戦国でも違いがあり、政治家どころか一般の市民でも『ナチスドイツが悪くなかった』という者は一人もいない。口にするどころか過去にナチスとの関連が疑われただけでもドイツでは政治生命を失う。
ところが困ったことに一般市民どころか、『日本軍は悪くなかった』と平気でいう責任ある立場の日本の政治家はいくらでもいる。満州三スケと言われたA級戦犯容疑者の岸信介は首相にまで上り詰める始末。
日独国民の敗戦後の戦争感が大きく違う原因ですが、これは経験した戦争自体が大きく違い、ドイツは首都ベルリンの攻防戦を含めドイツ全土での本土決戦を行って、国民全員が戦争の本質を知っているのです。
対して日本が戦ったのは本土から遥かに離れた無関係な外国遠征であり、日本国内ではわずかに辺境の沖縄県や硫黄島だけだった。
(沖縄県を除く)日本人が未だに『日本が悪くなかった』などと寝ぼけたことを言っているのは本土決戦を回避した消化不良か欲求不満の後遺症ですね。
どんなに良いことでも一部には必ず良くない影響が出るのですが、日本国は半分しか戦争をしなかったのです。
620万人動員した日本軍精鋭部隊の半分が本土決戦用に準備されたが、戦うことなく無傷で本土に残ってしまった。
地獄の地上戦を経験した沖縄県民の方はドイツ国民と同じ戦争感なのだが、本土の日本人は事情が大違いなのです。
同じ沖縄県内でも地上戦が無かった先島諸島では(沖縄本島とは対照的に)自衛隊の誘致など『日本軍は悪くなかった』との本土の人々と同じような無責任でのんきな戦争感なのですね。
地上戦の無かった本土の方は、男は全員強制労働か殺されて女は犯されると思っていたのに米兵にチョコレートを貰って大感激。君主論のマキャベリが言う通りで、『人間というものは、危害を加えられると思い込んでいた相手から、親切にされたり恩恵を施されたりすると、そうでない人からの場合よりずっと恩に感ずるものである。』
の見本みたいな対米従属の態度。
多くの日本人ですが、大きな勘違いを全員がしているのですよ。
『全面戦争と領土紛争(局地戦)は外見が似ているが別物』
第二次世界大戦でもギリギリの最後の最後に回避したように、日清・日露でも本土決戦していません。
これが日本が行った戦争の不思議の中でも、一番不思議な核心部分なのです。
普通なら本土決戦こそが戦争を起こした『本命』(目的)なのですよ。
周辺部分の海洋でも戦うが、それはあくまで序盤戦。本当の目的ではない。
戦争とは将棋と同じで相手の『王』を取るまで終わらないのです。
国境線を突破して全土を攻略、相手の首都を占領して皇帝を殺すか捕虜にするか降伏させることで戦争は終わるのですが、日本の行った日清日露では行わない。
ナポレオンもナチスドイツも、例外なく真っ直ぐ首都モスクワに向かって進軍したのです。イラク戦争でも国境を突破した米軍はまっしぐらに首都バグダッドに向かいフセイン大統領を拘束し殺している。
国家間の全面戦争とは常に同じなのですが、ところが不思議なことに、日本は最初から、そんなことは考えてもいなかったらしいのですよ。
逆に本物の帝国主義の欧米諸国では、それを目的に戦争を始めるのです。
日清戦争ではまだしも山東半島など中国本土に上陸して戦ったのですが、日露戦争では日本軍は満州とか日本海などに戦場を限定して、目の前にあるロシア国境を一歩も超えなかったのですね。
なんとなくプロレス(ゲームとか見世物)を連想する摩訶不思議な戦争なのですよ。
日本軍は、沿海州のウラジオストックやカムチャッカのペトロパブロフスクには指一本触れなかったのです。
これは対米戦争(WWⅡ)でも同じで、ハワイ島やアリューシャン列島のキスカ島やアッツ島のアラスカはアメリカの植民地で、今のような州ではない。
当時の真珠湾は、アメリカの扱いとしてはフィリピンと同じで『アメリカ本国』ではないのです。
日本軍は近代要塞の旅順軍港を苦労して占領するのですが、数分の一の規模のウラジオストックは艦砲射撃すらしていない。
もっと小さく簡単に攻略できそうなペトロパブロフスクすら何もしないのですよ。
欧米の戦争は日本の戦争とは大違い。
ペリーの日本来航時に、ロシアのプチャーチンも外交交渉で長崎に来航する。
この時にクリミヤ戦争が勃発。下田沖で1854年の安政大地震の大津波で軍艦が座礁、急遽日本で軍艦を建造したプチャーチンは英仏軍に包囲され陥落寸前のペトロパブロフスクに向かうのですが、これが普通の戦争です。
戦争とは場所を選ばないのです。
日本の奇襲攻撃で始まった日清日露の戦争では、国家間の全面戦争では必ずつきものである相手の首都の攻略とか本土決戦の構想が最初から欠落していた。
もちろん日米戦でも、日本側は全く同じ態度だった。
ところが、相手のアメリカは当たり前ですがグローバルスタンダードなので最後の首都攻略とか本土決戦を開戦の最初から考えていた。
日本ですが局地戦の病的に肥大化した超巨大なものであり本物の全面戦争など一度も考えていなかった。(朝鮮だけは首都を占領、王妃を殺害して全土を制圧した)
対して相手のアメリカは、最初から国家間の本物の全面戦争だったので、これでは日米戦争は最初から勝負にはなりません。
『日露戦争ではなくて、日露事変の表記の方が正しい』
日露戦争よりも期間も規模もけた違いに大きい日中15年戦争の方は満州事変だとか支那事変だとか呼んで、当時は『戦争』とは絶対に言わなかったのです。
日中両国の明らかな戦争だったのですが、日本政府は最後まで宣戦布告しなかった。
乱やら変やらと表現して限定的な軍事衝突(局地戦)であるとの体裁をとっていたのですよ。
中国政府も宣戦布告するのは真珠湾以後の話で、それまでは宣戦布告していないのですが、この理由は戦争だと当時の国際連盟の規約で交戦国は武器の貿易(輸入)を行へない。
イタリアのエチオピア侵攻では武器を自国で生産しているイタリアと輸入に頼るエチオピアの差が露骨に出てエチオピアが敗北する。
中国としては宣戦布告が出来なかったのですね。
日清日露では宣戦布告したので『戦争』の名前が付いているが、宣戦布告の有る無しで戦争かどうかが決まるなどインチキで、それなら第二次世界大戦後に本格的な戦争は一度も起きなかったとのバカバカしい話になる。
第二次世界大戦終結後の国連の時代に起きた全ての戦争では宣戦布告など何処の国も1回も行っていない。
この原因ですが国連憲章には日本国憲法と同じ『戦争は違法』との条項があるからで宣戦布告自体が違法なのです。
全面戦争かどうかの判断ですが、意識的に戦場が限定されていて(双方の損害が甚大な)本土決戦を絶対に回避している場合には、領土紛争などの『局地戦』であると定義するべきでしょう。
それなら日本軍がロシア領土への攻撃を意識的に回避していたらしい日露戦争は宣戦布告はあったが、日本がモスクワ攻略どころかロシア領占領の目標がまったく無かったのです。
日露戦争は戦場を限定した範囲に止める局地戦で、事変の名称の方が正しいでしょう。本格的な戦争というより、日本軍による危険な遊戯、『戦争ゲーム』の超巨大なものですね。
『仕方なし(嫌々の)本土決戦準備と、嫌々のソ連軍参戦での降伏』
対米戦争でも政府や日本軍の態度は日清日露戦争の時とまったく同じだった。
いわば『戦争ゲーム』を地球規模で行なっていたのですから、正気とは到底思えない愚行中の愚行。
ところが相手のアメリカは本物の戦争を行っていたので、最初から首都攻略や本土決戦を考えていた。
日米戦争には勝ち目がまったくなく短期戦で有利に展開して早期に和睦するとの甘すぎる予測だったが、アメリカは長期戦を苦にしない。
日本はどちらにも花を持たせる『引き分け』が最良なのだが、欧米では勝敗がわからない『引き分け』は一番嫌われる。
アメリカは日本との和平に応じる考えが全くない。
それで仕方なく日本も沖縄を捨石(時間稼ぎ)に使い本土決戦を嫌々準備したのですが、元々の戦争を始めた最初の日本軍の計画とは大きく違うのです。
そもそも日本は最初から本物の戦争(本土決戦)をやる気が無かったので、日本本土に敵兵が一兵も上陸していないにもかかわらず、日本国はソ連軍参戦で即座に降伏を決意するのです。
この日本側の内部事情を熟知していたアメリカ側は『ソ連軍参戦』という鞭と『天皇の戦争責任の回避』という飴の使い分けで上手く降伏させる。
日本ですが、これらの歴史を正しく総括出来ないので未だに『日本は悪くなかった』というお馬鹿な輩が、少しも懲りずに繰り返し繰り返し現れ世界から呆れられる。
『仕方なしの本土決戦』とか『ソ連軍参戦での降伏』などの本当の歴史が恥ずかしくて絶対に口に出せないのが原因しているのですね。
『落語の「てれすこ」状態の無様な我が日本国の惨状』
今まで誰も見たことがない正体不明の魚が獲れたが、誰にも名前がわからい。
奉行所の役人たちも困り果て懸賞金をつけて魚の名前を探すと、ある男が魚の名は『てれすこ』だと名乗り出て堂々と懸賞金をせしめてしまう。
この男以外は誰一人も名前を知らないので、幾ら素っ頓狂な名称を付けられて不審に思っても、理論上否定のしようが無い。
自分勝手の無茶苦茶な言い分を主張しても『定説』がどこにも無ければ早いもの勝ち。否定したくても出来ないのです。
アメリカが主張する『核が戦争を終わらせた』との禍々しい原爆神話ですが、これは落語『てれすこ』に出てくる悪賢い男にそっくり同じで、誰一人知らないならば自分勝手の無茶苦茶な言い分でも、否定できない。
別の正しい答えを知っているか、少なくとも何かの根拠がないと反論したくても出来無いのです。
事実、アメリカは67年間も無茶苦茶な『てれすこ』が正しいと、いまだに言い続けているのですから何とも腹立たしい。
落語『てれすこ』では、男にまんまとしてやられた奉行所は魚を干物にして再び懸賞金出すが、同じ男が現れ魚の名は『すてれんきょう』だと言う。
奉行は『お上を偽った』として死罪とするが、男はその後死ぬ前の最後の望みとして対面した妻へ『てれすこ』の干したものを『すてれんきょう』と呼んで死罪になるるのだか『イカを干したものを決してスルメと言うな』 とのトンチで無罪となるオチなのですが、アメリカの主張する『核が戦争を終わらせた』との禍々しい原爆神話では、『ソ連軍参戦による無条件降伏』以外のオチが何処にもない事を、日本が認めるしか解決方法はないでしょう。
誰も知らなかった落語『てれすこ』とは違い、真実は薄々日本人全員が知っている。
よく知っていても糞忌々しいので歴史的事実を誰も認めたくない。
日本敗戦では、67年間も日本人全員が非知性的で破廉恥な『新しい歴史教科書をつくる会』並みの『歴史修正主義』を横並びで恥ずかしげもなく行っていたのです。
今こそ日本人も事実を『事実である』として認める勇気を、今度のオリバー・ストーンを見習って持つべきであろう。
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ポツダム宣言受諾の天皇聖断の原因を考察する
2011年02月22日 | 政治・外交と天皇制
米兵2人による集団強姦致傷事件で、仲井真弘多知事は森本敏防衛相に『正気の沙汰ではない。米政府に対し、綱紀粛正など生やさしい言葉ではなく厳しい対応を求めてほしい』と強く抗議したが、
『たまたまだが、外からきた兵士が云々』と森本敏防衛相が口走って、『たまたまじゃない』と沖縄の怒りに油を注いでいる。
今回の自衛隊上がりの森本敏防衛大臣の『たまたま』発言ですが、
安倍晋三首相時代の久間章生初代防衛大臣の(原爆投下は)『しかたがない』発言と同種の発想ですね。
すべての主体は日本国ではないのですよ。
アメリカが全てを仕切っているので、日本には決定権もない代わりに責任感もない。 何にもなしです。
福島第一原発の未曾有の事故の責任も有耶無耶。
日本の誰にも責任はなく『たまたま』起きたことであり、『しかたがない』とでも思っているのでしょう。
原発は人工物であり地震や火山噴火のような自然現象ではない。
特に福島第一原発は東京電力一社の所有物であり、東電の事故責任は免れようがない。
戰爭も原発事故も、どちらも人間が意識的に行ったもので、自然現象とは違う。
起こした責任問題や、起きた原因の解明は一番大事なのですが、日本では曖昧なままで今までごまかしてきたのですが、許されない怠慢ですよ。
誰もしたくなかった日米戦争開戦に日本が追い込まれた原因ですが、これは多分日本軍の火事場泥棒的な仏領インドシナの占領でしょう。
ところが、この事実を国家として真に恥ずかしいので日本もアメリカも同じように絶対に認めたくない。
降伏の原因は間違いなくソ連軍参戦なのですが、この事実は開戦原因以上に『国家の恥』なので日米ともに最と認めたくない。
開戦も降伏も、いずれも曖昧にしたままでは戦争責任の正しい総括など夢のまた夢。
絶対に無理です。
客観的事実に目をつぶれば、あとに残るのは対米従属以外にはないので、どれほど悪いことでも『たまたま』起きたことであり『しかたがない』と永遠に先送りするのです。
今回アメリカのタブー(国家犯罪の隠蔽のための原爆神話)に真っ向から挑戦したのがオリバー・ストーン監督のおように、日本人も67年間隠し続けた真実を認める勇気を持つべきである。
『戦争を終わらしたのは「ソ連軍参戦」だった』と主張しているのは日本では『逝きし世の面影』ブログ程度であり、例外中の例外に近いのですから、なんとも情けない状態です。