『平和憲法施行65周年』
今から65年前、無条件降伏から2年目の1947年5月3日に施行された『日本国憲法』のGHQ草案が日本政府に伝えられたのが1946年(昭和21年)2月13日で日本の敗戦から半年後のことであった。
ちなみに憲法施行半年前の1946年(昭和21年)10月3日に日本国憲法が公布されている。
日本国憲法の『自由と平和を愛し、文化をすすめる』ことを趣旨として定められた10月3日の『文化の日』であるが、それ以前は明治天皇の誕生日として『天長節』(明治節)として大日本帝国の祝日だった。
この重大な意味を持つ大事な祝日の重複は、以前の古いピラミッド(権威)の上に、覆いかぶさるように新しいピラミッド(権威)を次々と建造したマヤの神殿建設の様な話である。
アメリカとしては、それまでの既存の権威(明治天皇を頂点とする天皇制)の威光の上に日本国憲法を構築しようとしたのであろうか。
そもそも最悪の場合には国家の滅亡も有り得る近代国民国家間の戦争の開始では、終戦から戦後処理まで全てを綿密に決めてから『開戦』するものであり、日本の東条英機政権のように戦争をしたくも無いのに『何となく空気に流されて』開戦することは絶対に無い。
ですから1941年日米開戦当時のアメリカは、既に日本敗戦後の現行の日本国憲法の趣旨や公布の日時まであらかじめ綿密に考えていたと思われるのです。
現行平和憲法(憲法9条)であるが、なんら特異なものではなくて人類が初めて経験した第一次世界大戦の悲惨な経験から当時の全ての列強が賛同、国際連盟理事国だった大日本帝国の時代に批准したパリ不戦条約(1928年)を憲法の条文に明文化したに過ぎない。
日本や欧米など世界の列強が批准した不戦条約には期限が限定されていない(無期限な)ので現在も有効です。
『戦争は違法』とのパリ不戦条約はその後、加盟各国が『自衛の戦争は合法である』との手前勝手な屁理屈で、人類は第一次世界大戦以上の甚大な損害を出した悲惨極まる第二次世界大戦に突入してしまう。
この大失敗の経験から現在の国連憲章の条文ではパリ不戦条約の『戦争は違法』が受け継がれているだけではなく、さらに一歩踏み込んで紛争での『軍事力の行使』自体が違法行為と明記されている。
二重三重に国家による『戦争は違法』な行為であると否定されているのです。
日本国憲法前文の『紛争は武力ではなく話し合い』との記述は、この国連憲章を明文化したものです。
当時の日本は無条件降伏で連合国(UN・国連)の全面占領下である。
講和条約で日本国が独立を果たすのは1952年であり、1947年の現行平和憲法施行の5年も経った後だった。
ですから国連憲章を明文化した日本国憲法原案の文章は曖昧な表現が可能な(色々な含蓄を含む)日本語ではなくて、当然、最初は意味が日本語より明確(単純明快で紛れが少ない)な国際用語の英語で書かれていたのです。
『現行憲法の「人々」と「国民」の摩訶不思議な使い分け』
何とも不思議な話なのですが、現行の『日本国憲法』では、一番大事な主権者たる我々一般市民を指す言葉が、幾つかの基本的人権にかんする条文で主語が『全ての国民は』と書かれている。
ところが同じ基本的人権でも信教の自由等は『何人も』と、もっとも大事な意味を持つ『主語』(日本の主権者)が『国民』と『人々』と二種類が使い分けされているのですから何とも不思議で面白い。
具体的には『国民』は11条12条13条14条15条、25条26条27条と少ない。
主語が『何人』は、16条17条18条、20条22条、31条32条33条34条35条、38条39条40条と多数で一般的である
『国民』なら日本国籍保有者限定の意味であり、『人々』なら対象はもう少し広くなり、居住している外国籍を含む日本国の全市民の意味となる。
憲法では『国民』よりも『人々』が圧倒的に多く使われていることから、日本国憲法の対象者は当初は日本国の全市民を想定していたと考えられる。
しかも不思議なことに日本国籍保持者限定ならば、何か特別の個別案件だろうと想像されるのですが、実は話しは逆で『基本的人権』とか『法の下の平等』とか『納税の義務』などの国籍の保持の有無とは無関係な普遍的なものばかり。
それなら、これ等は『国民固有』(国籍保有者に限定)のものではなく、『人類共通』(人々とか何人も)であるべきです。
これ等の『国民は』の憲法条文の権利義務と日本国籍の有無とはそもそもが、無関係であると思われる。
逆に他の憲法条文の『なんびとも』と国籍を問わない多数派の場合の方が、より個別的な案件が目立つ。日本国籍保持限定の方が普遍的で、より広い意味の『人々』の方が個別的なのですから何とも不思議である。
この問題は我々の様な普通の日本人一般市民なら『国民の』でも『何人も』でも意味がまったく同じに成るのでそもそも感心が薄い。
しかし日本国内の少数のマイノリティー市民にとって、この違いは死活問題なので到底曖昧には済まされない大問題である。
ところが、何と、言葉の意味を一番大事にしている筈の今の日本外務省が出している現行憲法の英訳では主語の全てが『人々』の意味のpeople。
外務省の英訳憲法は日本国憲法原案(people)のままである可能性が高いのです。
アメリカ占領軍(GHQ)の全面占領下でも日本側の官僚組織は狡猾でしたたかであり、アメリカ(UN・国連)側の出した憲法原案のにあった『人々』(The people)の言葉を、相手に気がつかれないように11~15条、25条~27条だけ、日本国籍保持者限定である『国民』へと、言葉を密かに書き換えていた疑いが高い。
当時の日本側の官僚組織がアメリカ占領軍(GHQ)の言いなりだったとの『俗説』は大きな間違いであったのでしょう。
『二級市民としての在日』
同じ日本国の市民であっても出自で正当な日本国籍保有者と日本国籍を持たない市民との分割支配が日本国では長年行われていた。(日本国籍が無い『在日』は、実は日本敗戦までは全員が大日本帝国の臣民だった)
日本国憲法の主権者の言葉が本来の『人々』と、後で変更されたらしい『国民』と二種類がある関係で、良く知られている指紋の押捺や写真撮影だけではなくて外出時の外国人登録証の所有義務と厳罰化のような差別がくりかえされる。
悪名を世界に轟かせた南アフリカ連邦の様なアパルトヘイトに近い恥ずべき外国人管理が極最近まで我が日本国では行われていた。
自動車の運転に免許証の携帯が絶対条件(義務)である様に、少し前まで外国人登録証が無ければ街中を歩けない。『在日』は登録証を紛失しては絶対にいけないのですがわざと銭湯などの入り口で抜き打ちに摘発を繰り返していたのです。
この事実を熟知していると思われる出身の弁護士橋下徹は、公立学校だけではなくアメリカンスクールや中華学校など国籍を問わず、日本に居住する全ての高校生に対する無償化(助成)を朝鮮籍を理由に支給を取りやめる露骨な差別(干渉)を行っている。
65年前に姑息な日本側官僚組織が日本国憲法原文の『人々』(The people)だった言葉を、こっそり『国民』に書き換えた悪しき影響がいまでも続いているのですから歴史の修正は恐ろしい。
この様な正当な市民権の無い二級市民が同じ共同体内に存在することの『社会』としての不健全さは言うまでも無い。この事実は今の異様な恥ずべき日本社会全体の右傾化にも関連しているでしょう。
『国民』(日本国籍保持者)の英文の原文は、全てthe peopleかJapanese people(日本に住む人)である。
日本国籍限定の場合には、その旨を明確に記述し区別している。
憲法の『何人も』もevery person(すべての人)で、the peopleと同じ意味の言葉。『person』の日本語訳は『人』とか『個人』の意味。
憲法条文の『すべての国民』の部分の原文はpeopleであり、『何人も』の部分は『person』である。
一番最初の英語の原文では、憲法条文の基本的な人権条項の『普遍的』内容にはpeople(『人々』とか『人々の集合体』)と書き、より具体的個別内容には『person』(『人』とか『個人』)と正確に使い分け、明確に区別していたらしい。
ところが常に面従腹背の日本側の官僚組織が狡猾にもpeople(人々)を日本語の『国民』に、person(人)を日本語の『何人』に意識的に誤訳?したのでしょう。
国や人種や民(奴隷)の意味がないピープルを【国民】だと大嘘つく差別憲法は改憲しないとダメですね。
(自民党の改憲はダメだけど)
GHQ草案のunalienableの翻訳は【不可譲】の方が良いのに【不可侵】にして【与へられる(endowed)】とか、Creatorによる平等や権利とか…
“主義”の意味がないデモクラシーを【民主主義】と誤訳するとか、権利と法がゴチャゴチャな翻訳とか、突っ込みどころしかない日本の近代についてもっと語りたい〜
欧米で相手から宗派を聞かれたら『仏教徒』であると答えるのが一番正しい態度なのです。神道は多分理解不能。
欧米世界ですが、世俗的な日本人とは宗教観が随分と違っている。
共和党はなぜペイリンを副大統領候補に選んだのか
2008年09月20日 宗教
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/af20028ec11bd08f86a9c70e15cbeb49
なぜ外国では無宗教=無道徳となるかといえば、個人や個人の集団である社会の道徳を司っているのは『宗教である』と思われているからなのです。
これは実は事実で、物事のすべての善悪を決定するのは道徳なのですが、道徳の元になっているのが宗教。あるいは哲学。
ただ、今の日本人の宗教観ですが、これは阪大の菊池誠のニセ科学批判教何て摩訶不思議な破壊的カルト宗教が生まれる位に、人々に絶対的に信じられてるのは『科学』ですよ。
今の日本人は、科学的な思考方法ではなくて、絶対宗教として科学を信じているのですから困ったものです。
実は近代科学とは西欧一神教を母体として生まれたので同じ共通のDNAをもっている。
それで今での不思議な騒動が時々生まれてしまうのです。
ダーウィンの進化論とアメリカの福音派(原理主義)
2008年09月22日 | 宗教
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2d655300bed438a5c7a7348e501fd9a3
社会科学の一分野としてマルクス主義が生まれるのですが、科学自体の親が偏狭な一神教宗教だったことが影響して、共産党と宗教との間には共通のDNAが存在している。
この為なのか、現実世界とは大違いで、ネット世界にある大部分の共産党系ブログですが、不思議なことにカルト宗教の匂いがするのですが、科学が『間違い』の自己修正過程であるとか、仮説の連続であり『絶対的な不変の真理』とは対極の思考態度だとの考えがない。
唯一普遍的な真理は科学だけなのですが、『絶対的な不変の真理』を主張した瞬間に、科学が宗教に変化します。
(続)「偶然と必然」を読んで
2009年12月14日 | 共産党
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/2f19622a610036fa8fc65f84f54ccf78
主題がこの記事の趣旨とは大きくそれています。もしも続きのコメントがあれば古い記事ですが、そちらにお願いいたします。昔の記事へのコメントは大歓迎です。
若かりし頃に私もこのように考えたことがありました。
しかし、やっていいこと、悪いことを単純化して教え込むには宗教は大変よい手段となります。
「何故、人を殺してはいけないのか?」
に対して、神様が見ていて、罰を与える(自分の損になる)という構図を作ると非常に楽に説明出来ます。
頭が良くて、品が良い人間で、道理が理解できているなら宗教(妄想上の神)は確かに不要で、普通に哲学だけで十分と思われます。しかし、人間の心や精神の段階的発達というものを分析すれば宗教が出来てくるのは必然だったように思います。
「天上天下唯我独尊」とか言いながら生まれてくる人ばかりなら、神様の下僕扱いの宗教は確かに不要ですが、人間は段階的発達というプロセスを必ず踏まねばならない生き物であり、その途中の足がかりとして宗教または宗教的なものが必要な気もします。
気付いていらっしゃらない人が多いようですが既に一部の人間は神様になっています。
とんでもなく優秀な自動車や産業機械を作ったり、世の中を安定させるための法整備をしたり、限られた狭い範囲に限られますがそれぞれが神様化しています。その一方で人類の足を一生懸命引っ張る邪神もいらっしゃいます。
『愛国心なんてできる筈がありません』とあるが、愛国心とは悪党の最後に避難場所ですよ。
そもそも宗教ですが、『神は妄想である』で『利己的な遺伝子』の著者である生物学者リチャード・ドーキンスが科学的に指摘しているように、
『ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。』しかし 『多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる。』
『何をどう考えていっても、神などというものがこの世を見守っていると信じる合理的理由はない。』
『宗教が人の世の平和や、真の心の平安に役に立った試しはない。』
『特定の宗教が有害無益だというのではない。そもそも宗教というものが、人間にとって有害無益だと言うのである。』
神の名の下に、人間の尊厳を踏みにじり、科学を侮辱するのが宗教という巨大なモンスターです。
反戦塾さんの「越後に前期古墳」や「卑弥呼史観・附録」に弥勒魁のハンドルネームで投稿したコメントを読んでみて頂けませんか。
我々の先祖のほとんどは,関東平野や越後平野を干拓して大規模稲作技術を普及させ,粒粒辛苦して豊芦原瑞穂の国をつくったのだが,670年に簒奪されてしまい,歴史にもその名を残せなかったのだと思いますよ。
本当に苦労した人々の歴史を回復せねば,愛国心なんてできる筈がありません。
ブログのコメントは普通はブログ記事とかブログ管理者に対して行うものであり、他のコメント氏に対して行う場合は迷惑になる時が有り、コメント投稿はは最小限にして頂きたい。
また最初から、『直前の現田石さんのコメントの』との記述があれば、全ての謎は氷解する。
コメントの意味が分からないなら、私が当該ベルギー憲法の条文を100回読んでも、多分気がつかなかった可能性がありますね。
まさか並び方とは・・・
現行日本国憲法ですが、これは日本独自の歴史を無視しては全く意味をなさないでしょう。
キリスト教徒もイスラム教徒もヒンズー教徒も中国人も、日本では問題ともならない少数派で『無関係である』と言い切っても何の間違いもないのです。
現在だけで判断せず、今に続く過去との関連を重視して歴史的判断『時間軸の上』で考えると、現在の憲法の構造が不思議ではなくて『当然だった』と解釈出来ます。
人類の1/3を占めるキリスト教徒,1/4を占めるイスラム教徒,1/7を占めるヒンズー教徒,1/5を占める中国人のものの考え方・信じ方を無視して独自路線を走るとガラパゴス化するだけのことです。
どの部分が、どのように現在の日本に適用出来るか、が不明で、広すぎて分からないとしか言えません。
日本国ですがアメリカを除けば1億人以上の人口を抱える唯一の先進国ですよ。しかも唯一一神教的な考えのない国でもあり、宗教でオランダと分離したベルギーとはそもそもの国家の有り様が違いすぎます。
この記事にも書いたように、
大事な祝日の重複は、以前の古いピラミッド(権威)の上に、覆いかぶさるように新しいピラミッド(権威)を次々と建造したマヤの神殿建設の様な話で、
アメリカとしては、それまでの既存の権威(明治天皇を頂点とする天皇制)の威光の上に、今の日本国憲法を構築しようとしたのでしょう。
この話は考え出すと結構面白いですよ。憲法問題にとどまらず最大きな問題が浮かび上がってくるのです。
現在だけで判断せず、今に続く過去との関連を重視して歴史的判断『時間軸の上』で考えると、現在の憲法の構造が不思議ではなくて『当然だった』と解釈出来ます。
ところがこの『歴史的に解釈する』との考え方が、世界一現在主義的な考え方の日本人の対極にあるので、一番苦手な分野なのですね。
のpp.69-104に出ている1831年制定のベルギー国憲法は,日本の範とするに足る立派な憲法と思うのですが。
今日私が、現状批判精神をもって提案したいことは、憲法の形の上での、「天皇」「戦争の放棄」「国民」「地方自治」の配列の訂正です。
そもそも憲法というものは、日本国はこういう国であることを定める規定の集まりなのですから、最初に「日本国の象徴」についてあれこれ定めるというのは、物事を定める順序から言って人の精神活動に反します。日本国のあり方をいろいろ定め、地方自治のことまで定め終わってから、象徴天皇に関する規定をおけば、現行憲法がとても人間の理解しやすい法規になると思います。
この並べ方ですと、憲法1条が、1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と…となり、憲法2条が、日本国民たる要件は、法律でこれを定める、となります。
このように並べかえれば、日本に住んでいる人々が、「天皇」のことをあれこれ考えるより先に、「日本国民」「人」とは何ぞやと自分たちのことから考え初めやすくなる、と思い、私は現行憲法批判の立場からここに提議します。
何なのかさえ、自分を抹消してしまいたい)本当に解りません。私は自分否定のにんげんですが、62歳になっても生きて(食べてます)(^-^)/でも本当は、自分ひていなんぞして居ないですよね。個人の内面には関わりを、しないブログ、とおっしゃてたので、くだらず主婦のコメントにもならないのはわかってますが、、ごめんください。
書く前に物事の結果が先に見えてしまうのですよ。それで意欲が湧かないのですがなんとも困った話ですね。
日本国憲法 第22条の二項では、『何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。』とあるのですが、我が日本国では大昔から海外亡命には縁が薄い。
日本語では『海外』が外国を指しているのですが、典型的な島国である日本人の亡命は、滅多に無い椿事中の椿事なのです。
ところが、これが大陸基準の外国では普通に行われているらしいのです。
日本以外では、自国が住み難い時には国籍を捨てることは個人の基本的な権利なのですよ。ところが日本では余程のことがあっても亡命しないのです。
対ソ干渉戦争でシベリアの出兵していた私の父親ですが、連日の耐え難い日本軍内での暴力に耐えかねて『このままでは殺されるかもしれない』と思い逃亡(亡命)し様と画策したが、言葉も地理も判らず白色パルチザンとか人跡未踏のタイガとかに阻まれて最後に断念。やっぱり日本人だったのですね。
ところがそもそもの日本人とは3万年前の寒冷化で故郷のバイカル湖周辺を捨てて日本列島に避難した経済難民(縄文人)とか、数千年前に中国の春秋戦国時代の戦乱を避けて日本に亡命した戦争難民の弥生人の混血であり全員が亡命者の子孫なのです。
ダーウィンの『人類の進化』(人間の由来と性淘汰)
2009年12月05日 | 文化・歴史
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/5f885a632832e3c4eed285bf49e190d4
憲法22条では国籍離脱権と共に居住や移動の自由も全ての人々に保障しているのですから、全員が元日本国籍保有者である外国籍の『在日』の参政権なのの話は議論以前の当然な話であろうと思われますが、この憲法22条では主語が国民(日本国籍保有者限定)ではなくて、無条件の『なんびとも』となっているのです。
くれぐれも御無理のない範囲で、今後も御健筆振るわれますこと、期待しております。
米軍兵士をはじめとする基地関係者の意見も地元の意思として認められるわけですから。
住民としての米軍兵士の権利が尊重される日がやってくることを願います。
日本では「外国人参政権を認めると日本が外国の都合のいいように操られてしまう!」などと主張している輩が多いですからねぇ・・・。
もっとも、外国人参政権以前に既にアメリカの属国のようになっていますけどね。