人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第19~思い出写真集章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第19章

兵庫医大、半年目の検査

5月24日には、兵庫医科大学病院で術後の半年目の精密検査が予定されている。何としても「お墨付きの太鼓判」をもう一度聞きたいとの思いで、辛い抗がん剤治療にも耐えてきた。

本当は、残りの後2回の抗がん剤治療を受け、万全の状態で検診に臨みたかったのが本音であるが、体が悲鳴を上げている以上は残念ではあるが仕方がない。

それと言うのも、兵庫医科大学病院の過去の「悪性中皮腫」の手術データーを見ると、手術可能な患者が30%で、実際に手術を行ったのは20%、手術を行った患者の標準治療手術でも、3年の生存率は50%で、5年の生存率になると極めて少ないと言うデーターが残っている為であるが、兵庫医科大学病院の長谷川教授の高度な治療技術により、今では後進に道は譲ったが、元気に会社復帰させていただいている。

  

  「兵庫医科大学病院」 

明日の事でも興味が無かった私だが、この度、地元の悲願でもあった豊岡自動車道が日高、神鍋インターまで開通した。5月の兵庫医科大学病院への受診は、是非この真新しい高速道路を使って行きたいと楽しみにしている。

 

 「北近畿豊岡自動車道」

 そして迎えた5月24日。何時もは家内と二人で、軽自動車を交互に運転して行くのだが、今日は長男が兵庫医科大学まで、送迎をしてくれると言うので、甘えることにした。

会社では何時も顔を合わせ、自宅もお互い隣同士なのだが、この日は、余り口には出さないが、兵庫医科大学病院での術後半年目の検査結果と言う事も有り、何時になく心配していてくれたに違いない。

不器用で頑固者だが、少しこの日は嬉しくも頼もしく思った。

長男は小さい子供が二人居る関係で、大型のワンボックスカーに乗っている。早速に家内と二人で乗せてもらうが、なかなか快適な乗り心地だ。佐川急便での8年間の経験からか、安心して乗せてもらう事が出来た。昼食を取ながら13時に到着。

早速、血液採取、肺呼吸の検査、CT検査などを受けて、いよいよ15時30分より、長谷川先生による診断が始まった。事前に質問したい事を箇条書きにしたメモも持参し、家内と二人で緊張しながら報告を待った。結果は、「術後の経過は順調で、今後は特に治療は有りません。3か月ごとに経過を見ていきましょう」との事であった。

持参した質問のメモを取だし、最後に発見時のステージと余命の事を思い切って尋ねてみた。「発見時のステージは初期段階で、今は余命を考える段階には有りませんが、医療に絶対は有りませんので、あくまで今現在は」との事で、2年2か月に渡る闘病生活も大きな山場を越え、三人で喜びを分かち合い、兵庫医科大学病院の長谷川先生に感謝しながら家路を急いだ。

誰しも明日の事は分からないが、心して少しでも心穏やかな生活を送りたいものである。

そして、お蔭様で「株式会社ほーゆー本店」も過去には大病を患ったが、私の闘病生活も3年目を迎えるのと同じくして独立3年目を迎え、今では社長、店長を中心に社員の皆様の努力により、順調に業績を伸ばし見事に再建を果たした。今後は私共々「全快」と行きたいものである。

もう、私は同年代の人の様な普通の生活には戻れないが、「感謝の肩たたき」も8年目を迎え、愛情と感謝を込めて、今日も楽しい会話をリズムに乗せて「タントン、タントン、タントントン」と元気に生き延びている。

 

第20章

峠を越えて思う事

こうして、2年2か月のガンの闘病生活も峠を越え、今振り返って思う事は、生きて居るからこそ自分自身の記念紙としてこの冊子を書こうと思ったが、そうでなければ書く事は無かったであろうし書く事も出来ない。

重篤な患者に成って初めて分かった事もある。色々な場面で、医師や看護師から提案や説明を受けて、選択を迫られる。それ以前に、どこの病院を選択するかも自己責任である。パソコンのボードも穴があくくらいに研究をしたつもりだが、その知識は医師の技量や知識、経験に適うはずも無く、「先生にお任せします」と言う患者が多くいる。

上手く成功すれば自分の手柄であり、失敗すれば病院や医師を避難する人が少なからず居るが、私は医療に絶対が無い事も理解している。

運、不運も当然あると思うが、冒頭にも書いたように、人生は選択と運である。

付け加えるならば研究と努力であり、人間ほとんどの事は自己責任で生きて居る。

私は、膀胱ガン、前立腺ガン、悪性中皮腫と3つのガンを患ったが、選択と運が味方してくれ、的確な判断で早期発見につながった田中クリニックの田中先生、優秀な技能と経験により早期の的確な治療に当たって頂いた、豊岡病院の白波瀬先生、平野先生、阪森先生、三好先生、そして兵庫医科大学病院の長谷川先生、昼夜を問わず親身になって献身的に看護してくれた看護師の皆様、検査データーを作成して頂いた技師の皆様に感謝している。

入院をして初めて、医師や看護師、職員の皆様の大変さも理解出来た。主治医の先生も看護師の皆さんも、「一体、何時休んでいるのだろうか?」と思える程の激務だと痛感した。

「大病を患って良かった」と言う人もいるが、生きて居るから言える事で、私のこの病は、亡くなる方の方が圧倒的に多く、生きて居られるのが不思議なくらいの大病である。

確かに人への感謝を理解する上では、良い体験かも知れないが、ガンを決して美化してはならない。早期発見と早期治療である。

死を意識する位のガンを患うと、「どうでもよい」と思える事がものすごく増える。むしろほとんどの事が「どうでもよい」心境になる。

今の事しか興味が無くなる事も体験した。

明日の事は「どうでもよい」のである。こうして生かされていると、「何もない日」へのありがたさに感謝をする。

特に家内への感謝の思いは以前に比べ3倍に、不平不満は3割へと変わって行った。

そのくらい人間とは勝手な生き物で、夫婦一緒に二人で居るからこそ、喜びは2倍に悲しみは半分になるのである。

今後も検査は続くが「株式会社ほーゆー本店」を通して、少しでも地域社会に貢献できればと願う日々である。

 

最後に御礼

こうして生きて居られるのも、この二年間に治療に当たって頂いた田中クリニックの田中先生、豊岡病院の白波瀬先生、心臓血管外科の平野先生、呼吸器内科の阪森先生、総合診療科の三好先生、兵庫医科大学病院の長谷川教授、京都ルネス病院のレントゲン技師、そして、日々お世話をして頂いた多くの看護師、レントゲン技師、血液検査、尿検査の技師その他多くの病院職員の皆様のお陰と感謝申し上げます。「水魚の交わり」と申します。今後とも宜しくお願いします。

また、家族や親戚を始め多くの同級生、会社関係の皆様、町内会の皆様、所属団体の皆様、何度となく励まし寄り添っていただき、本当にありがとうございます。重ねて御礼と感謝を申し上げます。

快気とまではいきませんが、今日も元気いっぱいに過ごしています。病院では無く、また違った場所、場面でお会いし、私のカラオケ十八番「高校三年生」と「兄弟船」「ああ上野駅」をお聞かせし、失笑して頂ける事を楽しみにしています。

ありがとうございました。       

             平成29年5月吉日   伊藤修生

 

 

                           孫たちの思い出写真集

 最後までご覧いただきありがとうございました。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第17~18章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第17章

二回目の正月

平成27年3月のガンの告知から二回目のそして、それは私達夫婦にとっては忘れられない37回目の特別な記念の正月を迎える事が出来たが、その間に家内は一度 たりとも「頑張って、大丈夫」だとは言わずに、常に寄り添い見守ってくれた。長い苦労を掛けてしまった事を口には出さないが、心で手を合わせた。「ありがとう」と。

また正月の恒例の実家への新年挨拶時には、亡き両親を祀る仏壇に結果報告をし、無事に手術が終わった事を報告した。「お父ちゃん、お母ちゃん 無事に終わった。見守ってくれて、ありがとう」。

翌日には、これも恒例の我が家での子供達家族との新年会である。一つ大きくなった孫に囲まれ長女の孫から「じいさん、よかったね」とねぎらいの言葉をもらい、思わず抱きしめ、もらい泣きをしてしまった。

我が家では孫に私達の事を「じいさん、ばあさん」と呼ばせているが、何時しか「じいしゃん、から、じいさん」と呼べる様に成った事に気付かされた。悪性中皮腫の宣告から半年、本当に人生を一度は諦めた私も、今では元気な日常生活を送っている。

昨年の今頃は、「せめてこの孫が、来年の小学生になるまでは」と思って頑張って来た。

初めてのガンの告知から1年9か月と言う時間が流れ「死んで花実が咲くものか」との思いを強くした闘病生活であった。

 

  「同級生が自宅にお見舞いに来てくれました。」

 

第18章

二回目の抗がん剤治療

平成29年1月30日 予定通り1回目の抗がん剤治療が豊岡病院で始まった。抗がん剤治療としては、昨年にも3回経験している事もあり、比較的穏やかに治療を受ける事が出来た。入院としては8回目の入院であるが、一週間の入院でその後は自宅療養になり、味覚障害以外は日常生活と変わらない生活を取り戻した。

2回目の抗がん剤治療は2月28日からの入院と決まり、抗がん剤治療としては合計5回目で、数えて9回目の入院となる。

今回は取り残したガン細胞の予後の為の治療で、合計6回の抗がん剤治療が計画され、初夏まで入退院を繰り返すが、「習うより、慣れろ」と言われるように、これまでの様な重苦しさは無い。看護師さんからも「伊藤さん、またまた帰って来たんか。

パジャマはLLだな」と毒舌を言われるくらいに慣れていた。

2月22日、悪性中皮腫の手術から3か月が経過し、術後の一か月検診に続き、3か月検診の為に、外来受診で久しぶりに兵庫医科大学病院の長谷川教授を受診した。

もちろん何時も側には愛妻が付き添い見守ってくれている。

結果は、すこぶる順調で肺機能も70%回復し「特に問題は有りません。極めて順調です」との報告を受けた。私にとっては、生き返ったような、過去の二年間の闘病が嘘の様なありがたい夢のような一言、最高の良薬であった。 

   

この3月11日で初めてのガンの告知から丸2年が経過し、今後も治療が継続されるが、三途の川を渡る事も無く、今日も元気に生き延びて、感謝の日々を送っているが、目指すは生存3年で有り5年である。この新しい手術方法の後に続く患者さんの手本、鏡になりたいと思っている。

長男の孫娘の七五三の晴れ姿も見る事が出来、目を細める感謝、感謝の日々が続いた。

               「孫の七五三」 

そして、3月21日 3回目の抗がん剤治療の為に、3度目の入院と治療を受けたが、わずか3日間の入院(合計10回目)で、3月23日には退院したが、連続の抗がん剤治療が続いた為に、腎臓が悲鳴を上げ、4回目(合計7回目)の抗がん剤治療は先送りとなり、4月28日の予定となった。

そして迎えた4月28日の抗がん剤治療。何時ものように血液検査と尿検査、レントゲン検査を受けた。腎臓は、以前に比べて「少しは良くなっているが、依然数値は悪く、今回は少し弱めの抗がん剤にします。」との事で、約3時間の日帰り治療となった。効果の程は分からないが、抗がん剤治療に変わりはない。これまでは、入院での治療を受けてきたが、日帰りでの抗がん剤治療は初めてで、治療後の不安も少し無い訳では無いが、入院に比べ治療費も安く、気も楽であり体調に大きな変化も見られずに安堵している。

次回の豊岡病院の受信はCT検査などが5月12日に予定されているが、その前には恒例の「ユラク創業記念経営発表会」が組まれていて、心配を掛けた全社員に元気な姿を見せ感謝を伝えた。

「29年5月の経営発表会と祝賀会にて」

 

人間は勝手な者で、死ぬかと思った大病も峠を越え、「山高ければ谷深し」と言うが、不都合は多々有るものの順調に回復してくると、闘病中の「無欲や感謝」が影を潜め、お世話になった病院関係者の皆様や、励ましを頂いた多くの皆様への感謝も忘れ、以前の様に行動出来ない事への不平不満が頭を持ち上げてくる。そんな事への日々反省と懲りない自分への戒めとして「感謝と謙虚」を心する今日この頃である。

振り返って見ると私達の結婚生活も、20代の「お互いの恋愛」で始まり、40代になると「お互いの理解」へと変化し、60代になると「お互いの支え合い、慰め合い」へと変わって来た様に思うが、今でも最愛の女性である事に変わりはない。

ご覧いただきありがとうございました。

次号第19~最後のお礼章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第16章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第16章

兵庫医科大学病院での生死を掛けた大手術

その後、辛かった3度の3か月間に渡る抗がん剤治療も終わり、10月25日に京都ルネス病院でガン専用のペットCTを受診、翌日も豊岡病院でMRI、血液、尿の検査も受けた。

11月2日、7日、20日には地元は勿論、大阪から、17日には沖縄から大学の同級生も心配して駆けつけてくれ、久しぶりの再会に涙した。その後も徳島、岡山などの同級生も駆けつけてくれ感謝している。

何度目かの兵庫医科大学病院での外来検診で、3年前より始まった新しい手術方法の説明を長谷川教授より聞いた。

現在の標準治療は「胸膜肺全摘手術 EPP」と言う治療方法で、過去のデーターは、人生を諦めた時に聞いた肺を全摘出する手術方法だが、新しい手術方法は「治療実績としては期間も短く、症例も少ない為に効果も未知数です」と聞いた上で、「胸膜切除、肺剥皮手術 P/D」と言う肺を覆っている膜を剥ぎ、肺を温存させると言う手術で、手術の大きさは変わらないが、肺を温存する為に術後の辛さは少なく、回復も早いというもので、合併症も少なく日常生活も比較的穏やかであるが、生存率や転移、再発の危険性はデーターとしては現存しません」との事であった。

効果は未知数ながら、悪性中皮腫の第一人者でスペシャリストの長谷川教授に一度は諦めた私の人生を「背水の陣」の思いで、預け賭ける事を決断した。「この先生でダメなら、結果はどうでも諦めもつく」との心境であった。

肺ガンは肺の中に出来るガンである為に、部分的に肺を切除する事が可能らしいが、悪性中皮腫は肺全体を覆っている膜の中に出来るガンで、肺の部分的切除は出来ないと聞く。

4回目の手術は11月24日と決まり、21日より入院する運びとなった。

入院治療の期間は約45日間で、手術時間は約10時間の大手術だと聞かされ、昨年の膀胱、前立腺などの全摘出手術を思い出させる程の内容であり、気を失う程の恐怖を覚えた。

兵庫医科大学病院は、西宮にあり兵庫県内とは言え車で往復7時間もかかる。結果的には、17日間の入院であったが、家内は手術時には二日間泊まり込みで看病してくれ、その後は高齢の義母を自宅に残している関係で、ほとんど毎日、自宅と兵庫医大を7時間かけて往復し見守り続けてくれた。最高は4日連続で、日帰りの看病は延べ13日間にも及んだ。感謝 感謝であり、お陰で遠く離れた病院であるが、寂しさや不安を感じる事はなかった。

また、子供や孫、兄弟や従兄、叔父さん、叔母さん、そして大阪、京都、神戸などから大学の同級生、甥、姪、義兄弟などなど本当に毎日の様にお見舞いを受け、ありがたく感謝しても足りないくらいに嬉しかった。

  

 「手術直前のパーフォーマンス」 

特に兄は手術当日から退院する日まで、何度も駆けつけ見舞い励ましてくれた。兄は私より6歳も年齢が大きく持病もあり、往復7時間の距離は大変であるが、私に気遣いをさせまいと、いとも簡単に「大丈夫、大丈夫」と言ってのける。ありがたい事である。

私も今では、長男が後継で居て「昼行灯の暇人」だが、兄は早くからユラクの会長職にあり、私の甥である長男が社長として事業を継承している為に「昼行灯の暇人」としては大大先輩であるが、入院前日には兄と長男が西宮神社にお参りもしてくれ、手術の無事を祈願したお札を手渡してくれた。「何としても生き延びねば」との思いを強くした。

 

 「西宮神社に手術成功の祈願に」 

さて、手術当日は8時30分から始まり、終わったのは夜7時30分と聞いた。ICUと言う集中治療室で家内と再会を果たしたが、握ってくれる家内の手が何時になく、か細くゴツゴツと感じられた。この二年間、私と共に病と闘ってくれた苦悩からなのか、感謝で涙が頬を伝う。

もちろん兄の大きな顔も見える。息子や娘の顔も見える。ようやく麻酔も解け意識も次第にはっきりし自問自答する。一度は諦めた人生だったが「夢じゃない。生きている」「終わった」うつ病まで患った大手術が終わった事を知った瞬間である。

ICU集中治療室とは、術後の重篤患者を大きな病室で、24時間体制で医師が見守り続けてくれる病室の事である。当初の計画では3日から4日の入室であったが、経過が順調で、翌日には次の段階のHCU(機能回復室)に移された。ここも当初は3日から4日の入室予定であったが、翌日には退室し歩行訓練まで行い、その後は通常の個室の病室に移る事が出来き、娘の幼い孫も見舞いに来てくれ「じいしゃん、がんばったね」とねぎらってくれたが、何時もの様子ではない事は理解しているようだった。

昨年の全摘出手術の時と比べ、繋がれている管の多さに違いはないが、辛さや苦痛は格段に少なく、術前に想像していた苦しさは無い。快適とは言えないが体力や気力も衰えていない。

  

  「兵庫医大で孫と」

      

 

一番の違いは、前回の全摘出手術の時は、摘出と同時に腸を切り取り加工して、人工膀胱として再生させると言う手術であった為に、水分の補給に制約があったが、今回は翌日から水分の補給が許された事。 

「ダメで元々との無欲」が苦痛から解放された大きな要因でもある。また、熱も前回は40度を超えた日が数日間続いたが、今回は37.6度が最高で高熱に悩まされることも少なかった。 

背中から脇腹まで、これまでの過去3回の手術とは比べものにならない位の切り傷は、約50センチに及び最大級であった。

自分で手術痕が見えない為に、看護師さんに携帯で写真を取ってもらって見たが、その大きさに自分でも恐ろしく、大手術であった事は直ぐに想像出来た。正に「何か~ら何まぁ~でと傷だらけの人生」である。 

そんな中、主治医や看護師さんも驚くほどに、日に日に回復し5日目からは一人で歩けるまでになり、リハビリも開始された。リハビリ担当の医師からも「伊藤さんは体幹が強いですね。回復力が早く、手術前に計測した数値に近い数値に戻っています」との事で驚かれていた。気を良くして調子に乗り病院内をうろついて、けつまずき転倒した事もあるが、お愛嬌と言う事で。

当初の計画の半分の入院で、12月8日に家内と長男の迎えの車に早速乗り込み、無事に兵庫医科大学病院を退院する事になったが、「少し取り残したガン細胞があります。

取り切るには肺を切除する必要が有るので残しました。今後は抗がん剤治療で抑えましょう」と長谷川教授から聞かされ、年明けの平成29年1月より、豊岡病院で引き続き抗がん剤治療をする事となった。 

 

しかし、一度は諦めた人生だったが、この例えようのない満足感と解放感、嬉しさは生涯忘れる事は無いだろう。

数日間の自宅療養中には、大勢の同級生達もお見舞いに来てくれ、握手を交わしながら生きて居る喜びに浸った。

ご覧いただきありがとうございました。

次号第17~18章もご覧ください。

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辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第14~15章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第14章

人生を諦めた瞬間

呼吸器内科の主治医である阪森先生より、この病は豊岡病院での治療は無理との事で、日本一の治療実績を誇る西宮の兵庫医科大学病院を紹介され、7月に家内と二人でこの病院を受診した。

後の主治医となる長谷川先生は、この兵庫医科大学病院の中でも「悪性中皮腫」の第一人者で、スペシャリストの兵庫医科大学の権威ある主任教授であった。

聞くと、長谷川教授のご両親は、私の地元の豊岡市のご出身と聞かされ、急に親近感を覚えた事を思い出す。

少しでも患者が話しやすいように、質問や疑問を誘導され、導き出させようとされる様は、長谷川教授の「自分や自分の家族が受けたい医療」の基本理念の強い思い入れの実践と感銘を受けた。

お蔭様で、大病にも関わらず、穏やかに落ち着いて診療を受ける事が出来て感謝している。

患者は、この兵庫医科大学病院に最後の望みを託して来院し、北海道から沖縄までの全国に及ぶと言う。

専門用語を使われずに、丁寧な優しい言葉使いで、分かりやすく説明を受けた後の一言が「手術を希望しますか? 緩和治療を希望しますか? 」との問いであった。

それぞれのメリットとデメリットも詳しく説明を受けた。

優しさだけではない、ポイントを押さえた説明は、分かりやすく厳しい治療方法の説明に、なお一層の信頼感が湧いてくる。「長谷川先生で良かった。

これでダメでも悔いはない」とさえ思えた。

内容は「手術の場合は、大変大きな手術となり術中の死亡例が7%で、術後は50%から60%の割合で合併症を発症し、寝たきりになる可能性も多分にありますが、緩和治療に比べて延命効果も2年から3年は延びます。

一方の緩和治療は、生存期間は短いが生活の質が一気に大きく変わる事はなく、徐々に死に向かいます」と言うものであった。

この病は発見時には、既に70%の人が手術を出来ないままに亡くなると聞いたが、これ以上に無い究極の選択を迫られている事になる。「泣きっ面に蜂」とはこの事であるが、私の場合は早期の発見で有った為に、まだ手術の可能性が残されていた事が、不幸中の幸いであった。

取りあえず、いずれを選択するにしても「抗がん剤治療を3クルー行いましょう」と言う事で、「同じ抗がん剤治療なら、近くの豊岡病院を希望します」と伝えるのが精一杯で了承されたが、私にはそれ以上の気力は残っていなかった。

3クルーと言うのは、毒薬である抗がん剤を3回に分けて点滴する治療で、1回の抗がん剤治療に3週間を要する。

これを3回行うと言う事を意味する。

抗がん剤治療は、とにかく辛い治療と聞く。副作用としては、抜け毛、むかつき、吐き気、発疹、かゆみ、味覚障害、発熱、白血球の悪化、腎臓機能の悪化、下痢、便秘などである。

帰りの車中は静まり返り、夫婦お互い無言の時間が流れ過ぎて行き「究極の選択」を迫られた余韻が頭の中を駆け巡る。

大手術による少しの延命治療か、手術はせずに少し短命になるが、現状の生活の質の継続の緩和治療か、2者選択であるが、2人で相談した結果、手術をせずにこのままの成り行きに任せ、自然に時が流れる緩和治療を選択する事にした。

今となっては手術が怖い訳では無く、術後の経過に不安が有ったからだ。これまでの3度の手術で、「もう、こりごり」していた。

「こんな事なら、これまでの辛い3回もの手術も受け無ければ良かった」と思い、生きる事を諦めた瞬間であった。

明日の事でも興味が無いが、ましてや一年後、三年後などは、全くの他人事であった。

日高まで延伸する高速道路も興味が無い。城崎大橋の架け替えも興味が無い。今日の今の事しか興味が持てない状況に追いやられた。「一寸先は闇」である。

初めて体験する究極の状況である。大勢の人から激励を受けたが、体が受け付けずに空しく聞こえる。

根拠のない「大丈夫だ」は、「大丈夫で無いから何度も入院して、何度も手術を受けている」「頑張れよ」には「わらをもすがる気持ちで神仏にお祈りし、かすかな望みに掛けている」と少々ひねくれ、これらに反感を持つ自分にも嫌気がさし、腹立たしく思える日々が続き、病の程度にもよるが重篤な病を体験し「激励よりも、ねぎらいや寄り添い」の大切さを痛感し学んだ。

今後の人のお見舞いの機会には、是非とも「情けが仇」にならぬ様に心したいと思っているが、問題は私にそんな余命が残されているかどうかである。

 新たに独立した会社も早速に代表取締役を退任し、長男である取締役社長を新しい代表取締役に選任し、同時に田中店長の取締役も打診したが先送りとなった。各種の名義変更も行って、もしもの最悪の事態に備えて、長男と田中店長に会社の夢を託した。

 

  「㈱ほーゆー本店社長の長男と田中店長」

 

第15章

初めての抗がん剤治療

その後の盆明けの8月17日より豊岡病院で、兵庫医科大学病院の長谷川教授の指示の元に、生まれて初めての抗がん剤の治療が始まり入院となった。

総合診療科の三好先生の説明を受け、色々な検査を行い、抗がん剤治療に備えた。その二日後に、いよいよ抗がん剤の点滴の日を向かえたが、手術と違い怖さは無かった。

朝一番の9時より、点滴用の太い針を左腕に差し込み、順番に9本もの点滴の開始となった。

聞くと終了までに約8時間は掛かると聞かされた。

9本の内の2本が抗がん剤で、残りはむかつき止めや清涼水、排尿剤など副作用を抑える薬だという。

抗がん剤は毒薬の為、血管に入れると直ぐに排出しなくては、他の臓器を痛めてしまう恐ろしい毒薬らしいが、点滴の最中は体には大きな変化も無く、無事に18時頃には終了となった。

しかし、早く体内の抗がん剤を排出しなくては副作用が酷くなる為に、毎日排尿の量のチェクシートを書き込み提出する。

翌日も、その翌日も清涼水や排尿剤などの副作用緩和の点滴を毎回4時間ほど受けた。 

もちろん口からもお茶や水を嫌と言う程飲み、副作用の軽減に備えた。

順調に排尿も出来たが、数日後から少しずつ、むかつきや便秘、抜け毛などの副作用も見られるようにはなったが、他の患者さんに比べ、極めて副作用の症状は軽いと聞かされた。

抗がん剤治療は、人によって副作用の症状が大きく異なり、2回目以降の治療が出来ない患者さんも多く居るらしい。

4日目以降は、点滴の管も抜け薬の治療のみとなり、「感謝の肩たたき」を再開したが、「残り少ない人生」だと思うと一層の力が入るが、以前に比べて少し家内の肩が痩せて、やつれた様に感じたが口には出さなかった。長い間の苦悩がそうさせたに違いないと申し訳なく思う。

かゆみが発生し、体中に斑点も発生した為に皮膚科を受診し治療を受けたが、体力的には余裕はあった。

その後、口腔外科で口内の衛生検査を行い、15日間の入院治療で、退院の許可が出た。

その後も同じように、9月、10月と3回の抗がん剤治療を受けたが、最大の副作用は味覚障害であった。

私の場合は、味覚が無くなるのでは無く、調味料が苦く感じられ、何を食べても苦味の味しかしない。ところが、調味料を使わないフールーツなどは以前と変わらない味覚を感じた。

また、甘い物も比較的以前の味覚に近い味であったが、これもまた人それぞれらしい。

抗がん剤治療の副作用も少しずつ回復し、味覚障害から立ち直りかけていたある日、兄夫婦より食事会に誘われた。

近くの料亭で豪華な懐石料理を夫婦でご馳走になり、この先の兵庫医科大学病院での治療の激励を受けた。

  「たけなわにて乾杯」

 「夫婦で乾杯」

ご覧いただきありがとうございました。

次号第16章もご覧ください。

カニ料理 兵庫城崎温泉おすすめの/Kinosaki Spa&Garden 湯楽


辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第12~13章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第12章

生体検査で3回目の手術

楽しかった正月は終わったが、肺の腫瘍の検査は続き、今以って病名は特定されていない。

平成27年10月の肺の腫瘍らしき告知から、すでに10か月が経過した平成28年6月に、病名を確定させる為に、肺の一部を切り取っての生体検査の手術が決断され、報告と説明を受けた。右の脇腹を約30センチ切り裂き、肺の一部を切り取っての生体検査と聞かされた。約1年と少しの間に3回目の入院と3回目の手術である。さすがにこの頃は精神的にも疲れ果てていたが、3回目の手術は6月3日に入院して6月7日の手術と決まり「「断腸の思い」で手術に挑んだ。毎度の事ながら家内と兄に見送られ、手術室へと向かい、約4時間の手術を無事に終え再会を喜んだ。

今回の手術は治療では無く、検査の為の手術で約15日間の入院を余儀なくされたが、この間も毎日、家内と兄が付き添い見守ってくれる。

そして退院後の6月27日、心臓血管外科の平野主治医より生体検査の結果の報告を受けた。

肺の腫瘍が見つかって、10か月もの時間が経ったのは腫瘍に変化が無く、大きくも小さくも成らなかった為に、レントゲンによる検査が続いたのだが、その事が時間のかかった大きな要因でもあった。

 

第13章

最悪の事態に

外来受診の9時30分からの結果の報告は、無情にもガンの病の中でも最悪の「悪性中皮腫」との宣告を受けた。

「風前の灯火」である。

このガンの生存率は極めて低く、地域の拠点病院でドクターヘリやドクターカーを常備し、病床が600床も有る公立豊岡総合病院にしても、年間に一人有るか無いかの発症例の少ない悪性ガンで有る事が判明した。

過去には、手遅れで緩和ケーアの実績は何度かあるが、手術治療の実績は無いと言う。

説明を聞いてもパソコンを見ても、明らかに死亡率は高く、生存の可能性は極めて少ない。

家内の顔が歪み苦悩も頂点に達し、正月の不安が的中する結果となってしまい、大きな壁が立ちはだかった。

最悪の結果の報告を聞き、いよいよ死を覚悟しなければならない崖渕に立たされて、お互い無言の中での帰宅となった。

考えてみると私は、たまたま膀胱ガンの術後の精密検査で判明したが、それが無かったら今でも普通に生活していて、何の症状も見当たらないほど、発見の難しい難病であるらしい事も分かった。

数十年前に建築材料として使っていたアスベストが原因の「悪性中皮腫」は、その後に大きな訴訟問題が尼崎で起き、国が敗訴して社会問題に発展した事でも有名な難病である。

発病に40年掛かると言われ、それを考えると私は10代後半から20代前半に発生した事になるが、当時その様な環境での生活は思い出せない。

その後の2か月間、私は人と話す事も出来なくなり、電話にもメールにも対応出来ず「うつ病」を患って精神科を数度受診する事になる。

明けても暮れても寝ていても、考える事は「死の恐怖」「余命」の事ばかりである。5分として、落ち着いて座って居る事が出来ずに、放心状態でうろたえる日々が続いた。「これからどうしよう? 」「残される家内や義母の事」「新たに始めた会社の事」など、不安は募るばかりで不眠が続く。

この状況を脱する事が出来たのは、「頑張らない事」「他人を悪者にして、愚痴を言わない事」「欲を持たずに成り行きに任せる事」「現状に満足する事」などの思いを持つ事が出来たからだと回想する。

特には「欲を捨てて、無欲で生きる」欲を持たなければ失敗や喪失感や期待感も無く、素直に生きられる事を学んだのが大きかった。

以来、うつ病からは解放され恐れるものも無くなり、多少の不安や苦悩は有ったが、大きく動揺し落ち込む事は無くなった。

この事は、今後行われる大手術にも大きく貢献する事になり、社内行事の城崎マリンワールドの見学やボーリング大会にも参加し、プーレーは出来ないが、社員の楽しそうな笑顔に心も救われた。

 

  「城崎マリンワールド招待会で」

  「ユラクボーリング大会にて」 

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次号第14章もご覧ください。

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