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2部授業

2017-02-01 17:01:44 | 団塊の世代


・・・四年生だけがこの旧制中学校の校舎で授業を受けた。それも早番(はやばん)、遅番(おそばん)の二組に分かれた二部授業である。
二部授業という言葉を知っている人も今日では少ないであろう。戦後の、それも都会で生じた現象 だった。遅番組は早番組が給食を食べている頃に登校して、よだれを垂らして廊下で待つのである。
脱脂粉乳のミルクとコッペパンとマーガリンの三点セット に、おかずは一品ほどの給食だった。それでもまだ当時は食糧事情が良くなかったので、窓越しに早番組が給食を食べているのを待ち遠しそうに眺めていた。
(瀬戸 武彦  (ドイツ文学) のエッセイより)



3年生まで1学期は2部授業だった。
 早番は1時限目~3時限目+給食で帰宅
 遅番は給食+4時限目~6時限目
これが隔週で入れ替わったのかな?そこはよく覚えていない。

夏休みの間に突貫工事で木造2階建ての校舎増設が終わり、2学期3学期はは解消されていた。
4年生では別の記事に書いたように、学区再編成、新しい小学校の設置があり、2部授業は解消された。
それでもクラスメートは57人、何クラスあったんだろう?

小学校の担任の先生、7人!

2017-02-01 14:59:55 | 団塊の世代
小学校が6年間であることは、団塊の世代も、現在の平成の子でも同じである。
最近だと、クラス替えが3年生なるときと、5年生になるときの2回が多いと聞いている。
すなわち、1・2年は同じ仲間で、担任の先生も同じ、3・4年も同様、そして5・6年も。
ということで、親の都合で転校しなければ、6年間の担任の先生は3人程度。
運がよければ、クラス替えはあっても前の学年と同じ先生のクラスになることもあり、そうすれば6年間の担任の先生は少なくなる。

私の場合、運が悪かったんでしょうね?
転校もせずに同じ鳥飼小学校に6年間通ったのに、担任の先生は7人なってしまった。
鳥飼小学校自体が昭和27年に草ヶ江小学校から分離してできたばかりの新設校だったが、その後も戦後の引き上げ?なのか、学期ごとに転入生が続々と続き、当時の学級定員(何人だったのでしょう?)を超えてしまい、2年生になるときに学年のクラス数が増えることになってしまい、普通であればクラス替えがない1年生から2年生になるときクラス替えがあった。不運にも?1年のときの担任の釈迦野?先生のクラスには入れなかった。
さらに(このあたりは記憶が曖昧な所もありますが)運が悪く?、クラスが増えても先生が足りない!!!なんてこともあったのか、1学期だけ別の先生になってしまい、夏休み明けの2学期から正規の平井先生が着任して担任をしてもらった。これで3人。

2年から3年になるときは、普通通りクラス替えがあり、またしても担任はかわり、別の記事に載せたクラス写真の笠先生が担任となった。

3年から4年になるとき、クラス替えがあったかどうか?4年のときのクラス写真で確かめてみなくては・・・
写真がどこに行ったか・・・・
手元にあるデータによると、クラス写真に写っているクラスメートの人数が
 小2 57名
 小3 65名
 小4 57名
 小6 55名
となっており、また一クラス増えたのか?クラス替えがあったようでもある。いずれにしろ担任の先生は変わってしまった。
4年生の2学期から、隣の当仁小学校が母体になり、南当仁小学校を分離することに伴い、校区が変更になり、鳥飼小学校の校区の一部が南当仁小学校の校区に編入された。その連中は2学期から新しい南当仁小学校に通うことになるので、このクラス替えで前もって、その連中のクラスができたことを記憶している。

現在、鳥飼小学校は「城南区」にあるが、「鳥飼」という町(地区)は中央区と、城南区にまたがっており、すべてが鳥飼小学校の校区だった。それがこのとき、鳥飼であっても、鳥飼小学校と南当仁小学校とに分割されてしまった。

さらに、鳥飼小学校から南当仁小学校へ編入されてしまった地区の一部は、2学期から南当仁ひ移らず、鳥飼小学校で卒業することが許されてた。
住んでいたのがその特殊な場所で、南当仁小学校へ移ることなく、鳥飼小学校に残留することにした。

2学期からクラスが減り少しさみしくなった。

4年から5年になるときは当然、クラス替えがあり、担任も変わった。
この頃になると、担任が変わるのには慣れてしまった。

5年から6年になるときはクラス替えもなく、普通は担任も変わらないものだ。他のクラスはそうだった。
なのに、何故か?私のいた1組だけは担任が変わってしまった。5年のときの担任が他校へ転勤だったのかな?

ということで、2年のときの1学期と2・3学期で担任が変わったことを含め、合計7人の先生に担任をしていただくことになってしまった。

クラスメイト(小学校)

2017-01-31 16:06:15 | 団塊の世代


小学校3年生のときの学級写真。
最近の小学校の学級定員40人(40人超えるとクラスが増えるので、実際のクラスはは30人余り)と比べるとあまりに多いので、数えてみた。数えるたびに数が合わないので、印刷して、数えた者は鉛筆で×していって、重複・落ちなく数えたら65人(男34人、女31人)いた。これが「団塊」の世代である。

現在だったら、2クラス分ですね。
そういや写真に先生が二人写ってる!?
いやいや担任の先生は前列真ん中の笠先生だけ。
最近の「副担任」なんて制度は無かった。

じゃあ、もう一人の左に立っている高木先生は?
先生は音楽の専科(?でいいのかな?)で、担任のクラスを持たなかったので、この学級写真に入っている。

現在だったら2クラス合同の授業を普通の教室でやっている、
65人が教室にいることを想像してほしい!

想像される通り、教室の後ろに空きスペースはほとんど無い!
すし詰め状態である。

これが何クラスあったんでしょうねえ?

小学校の卒業アルバムでは7クラスでしたが、
小学校に入学してから、卒業するまでの6年間に新しい小学校が2つでき、そのたびに、学区が分割され、新しい小学校に移って行った仲間がたくさん(どれくらいだったのでしょう?)いた。

「団塊の世代」の記録開始にあたり

2017-01-31 15:50:30 | 団塊の世代
2017年も睦月が過ぎ去ろうとしており、古希が近づいてきている。世間では少子高齢化と騒いでいるが、好き好んで高齢化しているわけでもなく、自然体で過ごして生きているだけである。日本「国」は人口減少が進んで、50年後には6000万人だ、5000万人だと予想が飛び交っている。政府関係者が大喜びしそうな「高齢者」の定義を65歳から75歳へ変更しようという提案もあった。新しい定義になれば、まだ高齢者ではなく、年金はまだ早い、もっと働け!と時の政府からしりを叩かれそうである。

最近、若い連中と話すと、ホンマに「戦後は遠くなりにけり」で、冗談で言ってた「昔、日本はアメリカと戦ったんだよ、知ってた?」が冗談でなくなってきた。ということは団塊の世代がどう生きてきたか、なんてことは伝わるわけがない。どこぞにひっそりと思い出しながら記録しておくことにしよう。

思い出しながら書くので正確さにかけるのは仕方がない。意識的にウソを書こうとは思わないが、書かれた記事がウソかホントか(誤りがあるか、正しいか)は読む人が確かめる努力をして欲しいものだ。