風極の岬 えりも 法光寺住職の「善き人々に出逢う旅」

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「カフェ・デ・モンク」の模索~寄り添って生きるとは

2015-09-27 20:25:09 | 日記

「愛着障害」という言葉をご存知でしょうか?
たとえば、鬱病や、不安障害、アルコールや薬物の依存症、過食症といった精神的なトラブルを抱えた多くの人がいます。
成長の過程で安定した家族との愛着が得られなかったことの因がそこにあり、障害として現れる、と言うのです。
従来、「発達障害」ということが多く言われてきましたが、実は「愛着障害」である、というケースも多いようです。

「なぜ、人に気ばかり使ってしまうのか」「なぜ自分をさらけ出すことに臆病になるのか」
人と交わることが上手く出来ない人々は、このような悩みを多く抱えています。その要因の一つに愛着障害があります。
ひとりひとりの悩みは全て異なりましょうが、生きずらさを抱える人々が、心境を語り合う。
そんな中に、互いの人格を尊重しながら、おだやかに寄り添うことが可能な空間が有れば良いと、願っていました。

先般ご紹介した「カフェ・デ・モンク」は、そのような空間つくりを目指しています。
当事者だけではなく、それを取り巻く私たちも、彼等彼女らと関わる事によって、学ぶことが縷々あります。
いや、一歩間違えれば、私自身も病んでいく可能性を持っている弱い存在であります。
そのことを良く認識しながら、ともに歩んで行くことが、これからの社会では求められることでしょう。

曹洞宗では「座禅」とは書かず、「坐禅」と書くのが一般的です。(このことを、拙僧は次の様にお話しています。)

「土(大地)の上に「人」が二人、どっしりと腰を据えて坐っている姿が、「坐禅」です、と。
 この二人の意味には三つあります。
一つ目は、文字通り、二人の人が切磋琢磨して坐るという事。(人は一人ではなかなかし続けることは困難です。
二つ目は、「自分」(悩み苦悩有多き自己)と、「もう一人の自分」(本来の自己)が、向き合って坐っている姿。
三つ目は、「自分自身」と、己を見守ってくださる「仏さま」が、共に坐っている姿です。




もう一つ大事なことは、「あなた」の中に「わたし」自身がいるという、認識です。
(相手の立場を認め、理解しようとする共感力といってもよいでしょう)
このようなとらえかたから、「自己」に対して「他己(たこ)」という言葉を使います。
「自己」と「他己」は同じではありませんが、まったく別のものでもないのです。

己にこだわるだけではなく、「他己」という視点に目覚められたら、きっと生き方が変わると、拙僧は思っています。