太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

燧灘・魚島だんじり<H15.10.5見学>

2021年03月11日 | 見学・取材等

初めに

私のふるさと香川県西部・観音寺市辺の漁師は、魚島のことを”沖の島”と呼んでいる。多島海の瀬戸内でも、ゆるやかな円弧をなす四国北岸の燧灘には島が少ない。その中でも魚島はその名のとおり、かっては鯛網漁に沸いた遥か沖合いの未知の島であって、私にとっては見えてはいるが、しかし遠い島であった。私の家からは歩いて10分もすれば、魚島は伊吹島の右後方に重なるように眺められ、直線距離にして約30kmでしかない。父の代まで漁師をしていた関係で、子供の頃には漁船に乗せられて沖へも出たが、"伊吹島-円上島(マルガメ)-股島(マタ)-魚島諸島-弓削島-尾道"へと連なる"飛び石列島"は、現在に至ってもなお、私の原風景の大きな部分を占めている。伊吹島や遠くの島影が夕日に染まる光景などは、内海の"至宝"と呼ぶにふさわしい、絶景的美しさである。

1枚目は魚島の展望台から、江の島(無人島)や、その後方・伊吹島から香川県西部を望む。2枚目は1枚目の逆方向から望む。即ち、香川県西部から伊吹島と伊吹島の後方に重なる魚島や弓削島方面を望む。3枚目は、四国側から見る燧灘の日の入り。

魚島への交通は、今治港から弓削島まで船で行き、そこで魚島村(現在は愛媛県越智郡上島町魚島)営の高速船に乗り換える方法と、因島市土生(ハブ)港始発の、同じ高速船に乗る方法がある。今回私は、四国側から"しまなみ海道"を因島土生港まで行き、午前8時発の便に乗った。四国・香川県からは燧灘をぐるりと半周したことになる。乗船時間は約1時間、約4時間の片道行程であった。

魚島の太鼓台"だんじり"

昭和50年頃に太鼓台の分布調査を行った際、「伊吹島に太鼓台があるのだから、その向こうの魚島にも太鼓台があるのではないか」-まず、そのように思い立った。その後、つたない問い合わせに、当時の教育長さんからご丁寧な返信をいただき、頑丈な3畳色違いの蒲団型太鼓台"だんじり"の存在を知った。(結果として、燧灘・飛び石列島の伊吹島、魚島、弓削島には太鼓台が伝承されていた)その折にいただいた「広報うおしま・第18号」(S53.11.20)の冒頭ページには、<老人パワー爆発新調のダンジリに張切る明治青年>と題して、港の造成地において練られている写真が掲載されていた。以降、私にとって魚島だんじりは、是非とも見学したい太鼓台の一つになった。過疎の小さな島の太鼓台、瀬戸内孤島の太鼓台、人々とだんじりとの関わり、その歴史等々、ある一種の懐かしさをイメージしながら、どれをとっても興味の尽きることはなかった。

亀居八幡神社

港に着き、人家が密集する急な坂道を上り詰めると亀居八幡神社に着く。現在は島を循環する県道を通れば、神社の鳥居まで車で容易に訪れることもできる。「安永7戊戌八月」(1778)と刻まれた鳥居が、循環道路と社叢とを分けている。境内は思いのほか広い。鳥居から拝殿までは、直線で優に100mはある。島の頂上付近に位置する境内は、島一番の立地条件の良さであった。島民こぞって神域を大切にしてきたことが窺い知れる。

拝殿向かって左側に神社再建記念碑が建てられている。元禄6年(1693)とあるから創建は更に古いことが偲ばれ、瀬戸内のこの地域において、かっては魚島が重要な位置を占めていたことが想像できる。なお、本殿・拝殿の他、神殿・神馬舎・舞台(芝居小屋)・御手洗舎・だんじり小屋・絵馬堂等が建てられており、その他に石燈篭や構築物も数多くある。それらの奉納した時期を示すと、鳥居の安永7年以外では、享和三亥(1803)・文化十一戌(1814)・文政七申(1824)・文政九戌(1826)・文政十三庚寅(1830)・天保二辛卯(1831)・天保四癸巳(1834)・天保十二(1841)・弘化三丙(1846)・弘化四未(1847)・嘉永三酉(1850)・安政三(1856)などとあり、18~19世紀の幕末期に集中している。

上記写真は魚島だんじりの概要-長い参道を曳かれていくだんじりと、だんじりに奉仕する人々及び"横倒し"の様子。担ぎ手の若者は、本当に少ない。蒲団部の構造とだんじり本体。

だんじりの規模は、蒲団上端から台足(台車含まず)までが約275cm、舁棒の長さは前後で約5m強、横棒が約3.5mであった。舁棒は井形に組む。台車と太鼓台は固定されていて、長老の方にお尋ねしても「台から外したことはない」と言っていた。 だんじりの構造や地理的・経済的関係から、広島県福山市の鞆浦にある"ちょうさい"(太鼓台、下の写真3枚)と、何らかの関連があるのではないか、と私は考えている。なお最後の写真は、上島町弓削島・上弓削地区のだんじりである。

お祭りの現状と課題

昭和40年頃まで魚島の秋祭りは、旧暦の8月14~16日の3日間であった。現在は10月上旬の金・土・日曜日になっている。第1日目が宵宮で、午後7時から、舞台で芝居やカラオケ大会などがある。以前は、この晩には島民全員が"おこもり(参篭)"を行っていた。2日目の午前10時頃から神輿の宮出しがある。だんじりは最終の日曜日に出している。

魚島村は、役場のある魚島と、高井神島(先祖は塩飽諸島の高見島から移住してきたらしい)、江ノ島(無人島で、島周囲の漁場は"吉田磯"と呼ばれ、鯛網の好漁場として名高い)及びいくつかの小属島からなっている。1992年(昭和53年10月)当時、村全体で人口が535人、200世帯であった。2004年10月1日に、当時の弓削町・生名村・岩城村と合併して「上島町」となったが、旧・魚島村人口は334人、世帯数は177戸と大幅に減少している。 訪問した2004年(H15)当時、有人島の高井神島を除くと、魚島には260人位しか住んでいなかった。わずか260人の島が、3日間にもわたるお祭りを執行していたことを、私には想像できなかった。

私は、3日目の朝からダンジリ奉納が終わる夕方までを、見学させていただいた。まず青年団員の少ないこと、若い人が少ないこと、高齢化が進行していることが特徴的だった。後で聞けば"島の若者はほとんどいない"のが現状らしかった。漁業で生きる島なので、若い後継者が大勢いるかと思ったのだが、そうではなかった。若い時に島から出て、彼の地に生活の根を下ろすと、なかなかUターンもままならないのが現状。確かに漁業は島の基幹産業ではあるが、従事者は高齢化している。従って、当日のだんじり運行に参加したのは、学校の先生・駐在さん・役場の職員・漁師さん・村会議員の皆さんの10名余りであり、他は年配者や女性や子供たちであった。高校生が2人そばにいたが、残念ながら見ているだけであった。

運行の様子をスナップした写真でもお分かりのように、確かに少人数での運行を余儀なくされている。頑丈で立派なだんじりが伝承されているのだから、もう少し何とかならないものかと考えてしまった。ある祭典関係者が、「お祭り期間を3日間に設定しているのは、神輿とダンジリを同日運行できないから」と話されていた。参加者数を数えてみて、私もそう思わざるを得なかった。お祭りをわずか島民260名が行うのは、既に人的限度を超えていると思った。島に住み、島を守る人々と、島外に出て生活している人々との"共同作業"が、必要不可欠と感じた。

そのような観点が許されるのなら、「お祭り3日間が、長いかどうか」も、再考してもよいのではないか。金・土・日曜開催というのは、当時としてはよくよく考え抜いた設定だったと思う。しかし、新しい観点の場合、金曜日に仕事や学校が終わってから船便を利用してまでは、遠い魚島までは帰れないと思う。折角、家族・親戚が一緒になって楽しめる工夫の芝居やカラオケ大会があるのだから、少しもったいない気持ちがする。これらを土曜日の晩に設定できるのなら、少なくとも子供たちは帰省しやすいと思う。そして最終の日曜は神輿とダンジリを一緒に運行し、島内外の子供たちや出身者に協力してもらい、思い切り神輿やダンジリに取り掛からせたらどうだろうか。気ぜわしく生活する子供たちや出身者にとっても、何物にも変えがたい体験と達成感が得られると思うのだが。

現状は残念ながら、「帰省客はほとんどいない」と聞いた。最終日、帰りの船便で弓削港で降りたのは、女子高生らしき2人と今治から来ていた写真屋さん1人で、終着の因島土生港まで乗っていたのは、釣り客3人と私たち2人だけであった。汗ばむほどの上天気だったし、さわやかな一日であったのに、帰省客の少ないことがとても不可解でならなかった。

"島からの情報発信を"= 島の出身者は渇望している

わずか260人に減少してしまった(現在は更に過疎化が進行している)故郷・魚島を活性化できるのは、恐らく島外に住む島出身者・関係者かも知れない。それら人々とのコンタクトを、島全体としてどうとるか、ということが今後ますます重要になってくると思う。一言でいえば、「島からは、タイミングよく新鮮な情報を発信する。島出身者・関係者は、その情報を漏らすことなく素早くキャッチする(できる)」ということに尽きる。登録制・会員制など、どのような方法があるのか。魚島に住む人々と、島出身者及び家族とを固く結びつける情報ラインの整備が、本当に重要だと思う。

掛声"伊勢音頭”

だんじりを運行する時の掛声は、「ヤレ、ヤレ」か「カヤセー」くらいであった。「チョウサ」の掛声は神輿を担ぐ時には使うが、だんじりでは使用しないらしい。以下の伊勢音頭と言われているだんじり運行時の音頭も、「くどき」をする者がいないため、かろうじてメモを見ながらの唄となっていた。以下に特徴的なものを記す。

◎ めでためでたが三つ重なりて、一昨年(おととし)や、下(しも)にて金もうけ、去年は南に蔵を建て、

 今年はせがれに嫁もろて、嫁をもろたるお祝いに、犬と猿とが舞を舞う、

 いぬまい、さるまい、いなすまい

◎ 娘十七・八は嫁入り盛り、たんす長持挟(はさ)み箱、これほど仕立てやるからにゃ、二度と戻ると思うなよ、

 父さん母さん、そりゃ無理よ、もののたとえにあるとおり、

 東が曇れば雨とやら、西が曇れば風とやら、北が曇れば雪とやら、たとえ南がすいたとて、

 千石積んだる船でさえ、港出る時やまんまとも、出て行く沖の模様次第、風が変れば後戻る、

 そういう私も同じこと、殿に縁なきゃ後戻る

◎一かけ、二かけ、三かけて、四かけて、五かけて、橋架けて、橋の欄干(らんかん)に腰かけて、

 はるか向こうを眺むれば、白いかもめが三つ連れて、三つ三つ連れて六つ連れて、

 あれ見やしゃんせ、かかさんよ、池や小川の小鳥さえ、

 夫婦仲良く暮らすのに、なぜに私は一人者(旅)

◎今度この丁(ちょう)に、豆腐屋ができて、そのまた豆腐が申すには、わしほど因果なものはない  

 朝は早よから起こされて、水攻め火攻めに遭わされて、水攻め火攻めはいとわねど、四角箱にと詰められて、

 一丁二丁の切り売りや、後に残りしおからまで、一銭二銭のつまみ売り、

 汁まで瓶に詰められて、牛の乳やのかわりなし、

 親はどこじゃと聞いたなら、親は畑でまめでおる

◎これのお家をちょいと褒めましょか、

 表は黄金(こがね)の門がまえ、裏に廻りて眺むれば、七巻半の姫小松、

 一の枝には金や銀、二のまた枝には鈴がもり、三の枝には短冊を、

 上から鶴が舞い下り、下から亀がはい上る、末は鶴亀五葉の松

◎ゆうべ夢見た目出度い夢を、

 いざなぎ山の楠で、新造つくりて今朝おろし、

 帆柱金の延べがねで、帆は法華経(ほっけきょう)の八の巻、

 帆縄や手縄は琴の糸、斜(はす)や両帆は三味の糸、

 艫(とも)の真向こに松植えて、松のあらせを帆に受けて、

 宝ヶ島へと乗り込んで、よろずの宝を積みこんで、

 七福神が舵(かじ)を取り、この家さして走りこむ

◎ちょいとボタモチよ、おさえてこねて、

 小豆や黄な粉のべべを着て、楊子箸(ようじはし)をば杖につき、

 口の番所や歯の関所、奥歯の茶屋にて腰をかけ、のどの細道お茶で越す、

 お腹に一夜の宿をとり、明日はお立ちか下くだり

◎そこらあたりの姉(あね)さんよ、私の言うこと聞いてくれ、二度とは頼まぬ一度だけ、

 三千世界の星の数、お山で木の数、萱(かや)の数、

 神戸兵庫の船の数、七里ヶ浜の砂の数、

 これほどこまごま頼むのに、姉さナ、くまがい、ふたごころ

◎伊勢は豊久野、銭影松よ、今は枯木で、朽ちかかる

◎伊勢は萱葺(かやぶ)き、春日は桧皮(ひかわ)、八幡はちまん、こけら葺き

◎新造つくりて、浮かべて見れば、沖のカモメの、浮くごとく

◎わしとお前は、卵の仲よ、わしが白味で、黄身を抱く

◎伊勢へ伊勢へと、萱(かや)の穂はなびく、伊勢は萱葺き、こけら葺き

◎新造つくりて、なに積みなさる、鯛を積みます、めでたいを

◎新造つくりて、なに積みなさる、昆布を積みます、よろこぶを

◎ちょいと出します、藪から笹を、つけておくれよ、短冊を

◎娘十七・八は新造の船よ、人が見たがる、乗りたがる

◎わしとお前は将棋の駒よ、飛車飛車王手(ひしゃびしゃおうて)、今日までも、

 なんの桂馬や、歩(ぶ)あいさつ、金銀つこうて下さるな

 私が女房の角なれば、盤の上にて王手指す

(終)


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