太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

砥部むかしのくらし館の見学

2024年03月10日 | 見学・取材等

愛媛県砥部町にある「砥部むかしのくらし館」へ行ってきました。

その目的は2点ありました。

まず1点目は、太鼓台の古刺繡と同様の〝刺繡飾りのついた豪華な雛人形が存在する〟ことの情報を知人よりいただいたので、その刺繡を実際に拝見させていただき、太鼓台古刺繡との関連を確認するためでした。

2点目は、館がコレクションしている膨大な昔の寝具〝夜着(掻い巻き蒲団=袖付き蒲団、現在の寝具・上蒲団に相当)〟を見学させていただき、太鼓台(主には蒲団型の太鼓台)に積み重ねられた方形の蒲団部と、搔い巻き蒲団や現在の上蒲団との間に、どのような関係性が認められるのか。更には、太鼓台の分布の違い(西日本には多く分布しているが、東日本には皆無)が、掛蒲団と掻い巻き蒲団との違いに起因しているのかどうかを深く探求するためでした。

最初に刺繡飾りの雛人形についてですが、その規模や実際の展示を、写真にてご紹介します。

3月3日付の地元の愛媛新聞に掲載された〝記事〟では、かなりの大きさではないかと想像(太鼓台の掛蒲団くらい)していたのですが、ご覧のように思いのほかミニチュアでした。もちろん、雛人形としてはすぐ近くに飾られていた人形と比べるとかなりの大きさで、作られた当時の規模としてはその豪華ぶりが想像できるものでした。館長様からお聞きしたところでは、同様の人形が広島県鞆の浦や姫路市でも見られたとご教示いただきました。ただ、各地の人形ともその大きさを競って作られたものではないかと話され、その中では砥部むかしのくらし館の人形が最大規模であったと説明いただきました。

雛人形の振袖の龍・虎の刺繡は、大小の規模は異なるものの、明らかに太鼓台の掛蒲団や高覧掛の古刺繡と相通じるものがあります。今後的には太鼓台刺繡や農村歌舞伎の豪華な衣装などとも比較し、その関連性を客観的に指摘していく必要があると考えています。

また、夜着(掻い巻き蒲団=袖付き蒲団)のコレクションが膨大で、その作りの細部を実見させていただけたことは大変ありがたく、〝蒲団の歴史や方形の上蒲団の登場、貴重な綿と蒲団との関係、寝具革命と呼ばれる〟等をあれこれと想像できたことはありがたかったです。ちなみに、蒲団に関する本ブログでの発信もありますのでご参照いただけたらと思います。

 

(上段)

1枚目は展示されていた説明写真の一部を拡大したもので、恐らくは虫干し作業などの折の光景ではないかと思われる。2枚目と3枚目は、幅も広く豪華な夜着である。4枚目は裏側からの様子。肉厚の綿が詰められた状況がよく分かる。夜着には筒状の袖があるため、就寝時にはここに腕を通して眠るものと想像していたがそうではなく、この袖は肩口に掛けると、より暖かみを感じることができたそうである。また、後代における夜着の分布地は東日本(主に東北地方から北)に集中しており、西日本には少なかったと説明をいただいた。その理由の一端としては、館長様からは、西日本以外では冬季の寒さが大きく影響していたことも挙げられるのではないか、とのご意見をいただいた。

(下段の1枚)

これは夜着に似ているがそうではなく、昔の廻船の船頭が着る〝万祝い〟(船頭の慶事に着用する晴れ着。西讃岐では、写真ほど豪華ではないが、漁師が日常的に着用したドンザと呼ぶ防寒着がある。それはこの写真に近いが、布地部分はつぎはぎが多く粗末な作りとなっていた)と呼ばれているものである。夜着に似ているが、比べると綿の分量が少なく、活動しやすく作られている。夜着と万祝い等との関係性も調べると面白く、太鼓台文化が海洋文化であることのヒントが得られるかも知れない。

(参考)下表は『地歌舞伎衣装と太鼓台文化』(2015.3.31刊79㌻所収)の中で示したもの。太鼓台(大太鼓を櫓組の中央に積み込み大勢で担ぎ移動する祭礼大道具、その形態は大変多い)の中でも、最も発達した蒲団型太鼓台と称される分布地は、時代の遅くまで寝具に夜着を用いていたか、それともかなり早期に大蒲団(上に掛ける掛蒲団)に変わったかによって、見事に分かれている。高価な綿を大量に売り捌くことで大利潤を得ようとした当時の大坂商人の目論見が見え隠れするのではなかろうか。

もちろん太鼓台が西日本だけに流布していることや、豪華な蒲団型に発展したことに関しては、ただ単に太鼓台発展が蒲団の形状の違いに全て影響しているというつもりは毛頭ない。蒲団型太鼓台は、少なくとも当時の人々の生活改善や願望実現の〝宣伝道具〟の一つとして、太鼓台先進地・大坂の大商人たちに利用され、西日本(主には瀬戸内)の津々浦々へもたらされたと考えている。その結果、蒲団型太鼓台の広まりは、当時の大坂商人の利潤追求の目論見につながったのではないかと推測している。そう考えれば、太鼓台が比較的簡素な形状から蒲団型に発展したことは、蒲団型太鼓台そのものが寝具の蒲団(方形の大蒲団)と密接につながっており、<高価な綿を使った寝具の大蒲団の登場=庶民の生活改善願望=大坂商人の利潤追求>との図式が想像できる。

綿の登場・綿を包む木綿の一般化によって、それまでの人々の寝る環境は大きく変化した。(寝具革命と呼ばれる) 更に安い外国綿が多量に入ってくるようになった明治29年(1896)の綿花輸入関税撤廃法以降、それまで高価な綿とは無縁に近かった庶民の間にも、軽くて暖かい綿入りの大蒲団が普及していった。蒲団型の太鼓台は、このような庶民の生活と密接な時代背景の下、簡素な蒲団型から豪華な蒲団型へと発展を繰り返していくこととなった。

下のパンフは館でいただいたもの。

(終)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 久万高原町・川瀬歌舞伎衣裳の... | トップ | 各地の「絵画史料」に描かれた... »

コメントを投稿

見学・取材等」カテゴリの最新記事