太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

芸予諸島海域の太鼓台

2021年03月17日 | 見学・取材等

芸予諸島の太鼓台分布

愛媛県今治市と広島県尾道市から三原市沖にかけての芸予諸島にも、各種の太鼓台が数多く分布している。太鼓台の初期段階に登場した櫓型太鼓台は見られないものの、四本柱型・平天井型・屋根型の太鼓台は各所に見られる。その概要は以下の地図のようである。

現在しまなみ海道の架かる今治市と尾道市との間の南北の海域に散らばる大小の島々。このエリアは、遣隋使や遣唐使の時代から海賊・村上水軍の時代を経て近世・近代の帆船の時代に至るまで、常に瀬戸内大動脈の〝海の難所〟と位置付けられていた。芸予諸島と称されるこのエリアは、島と島との間隔が狭く海流が複雑に流れる環境下にあっても、海流を知り尽くした小型・無動力船を使った島同士の行き来は、自然と濃密であった。また、入り混じった島々の帰属についても現在の県境とは異なり、安芸と伊予の間では今とは支配が異なる地域もあった。そして、複雑な地形で相互に近い島々は、祭礼などの伝統文化においても、同様な共通する奉納物が多々見られる。中でも、経済活動に付随して西日本一帯に撹拌された近世の太鼓台文化が、この海域でも各所に広まっている。このエリアに住む人々の生活が互いに影響を及ぼし合ってはいるものの、太鼓台の導入時期に若干の年代的差があったのか、発展段階の異なる太鼓台(即ち、簡素・小型で祖型的なものから、かなり豪華で大型の太鼓台まで)文化を育んできた。上の略地図上に、異なる形態の太鼓台伝承地域の概要を示しておく。

この海域の太鼓台

簡素な太鼓台として、大崎下島の南に位置する斎島の櫓(尼崎から伝わると伝承あり)、少し大きくなったと聞く呉市安浦町三津口のだんじり(3枚)、今治市・大浜八幡神社の奉納絵馬(嘉永5年1852)、最後は越智大島・渦浦のやぐら

越智大島の屋根型太鼓台・やぐら。今治市吉海町(前4枚、乗り子は四本柱に縛りつけている)と同市宮窪町(後2枚、分厚い飾り蒲団を尻に敷き、四本柱に括りつけられている)

最初の2枚は今治市波止浜町・龍神社の奉納絵馬(慶応3年1867)、上島町魚島のだんじり(後方は芝居小屋)、同町上弓削のだんじり

「文政3年(1820)大坂・三井納」の道具箱が伝わる大崎下島・沖友の櫓(2枚目の絵馬は天保13年1842のもの。蒲団を下した夜間奉納時を描いている?)、3,4枚目の御手洗・櫓の始まりは、文政13(1830)年の住吉神社建立(主には大坂・鴻池の寄進)と関連するのだろうか?、5枚目は三原市幸崎町能地のふとんだんじり、最後2枚は大崎下島・大長の櫓(明治初期に新居浜から伝えられた太鼓台。装飾刺繍は後代のもの)

芸予諸島海域の各種太鼓台を眺めてみると、太鼓台先進地の大坂や装飾刺繍の豪華な四国から、時代を超えてこのエリアに集められて来たようにさえ感じる。実際には以外と狭いエリアではあるが、これほど多い種類の太鼓台の存在は、文化の研究を志す者には大変ありがたい。この地方が、西日本における〝太鼓台文化圏の縮図〟と言われる所以である。幸いなことに、各地では古い文化遺産的な品々も、まだまだ大切に伝承されている。この地方からの遺産情報を基に、客観的な太鼓台文化の解明に一層役立てたいと想う。

(終) 


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