太鼓台文化・研究ノート ~太鼓台文化圏に生きる~

<探求テーマ>①伝統文化・太鼓台の謎を解明すること。②人口減少&超高齢者社会下での太鼓台文化の活用について考えること。

徳島県側の太鼓台等の見学について-③

2021年05月02日 | 見学・取材等

旧・日和佐町の太鼓台(ちょうさ)

日和佐の太鼓台を紹介する今回が、徳島県下太鼓台の最終となります。現在、美波町日和佐には8台の太鼓台があります。箇条書き的な記録での初見は、宮大工・重兵衛家の「よろずひかえ帳」(寛政7年1795の項)で、〝みこしたいこ〟として初めて記録されています。写真で見るように、各町太鼓台の蒲団部下の彫刻が特に素晴らしいです。太鼓台は太平洋・大浜海岸のうねりの中へ威勢よく入ります。瀬戸内でも穏やかな海に入る光景(神輿や太鼓台の浜降り)は何カ所かで見られますが、やはり太平洋での海入りは圧巻です。

蒲団部の構造について眺めてみたいと思います。蒲団は枠型のものです。枠内部が見えるカタチは上方に多いです。日和佐は蒲生田岬や紀伊水道などを経由して淡路島・泉州・上方に近いので、この蒲団部のカタチを頼りに類型をたどっていけば、伝播先が判明するかも知れません。蒲団枠の固定は、「斜交い」に組んでいました。その固定方法も各太鼓台により、少しずつ変化し、後発のものがより堅固なカタチになっているように思います。日和佐のように、蒲団部を斜交いに組み上げる地方も、文化圏各地で数多く見られます。

今一つ理解できていないのは、蒲団部天に張り巡らせた幕と、傘の存在です。天幕は、蒲団部が神聖な神様の依り代と見做せば、降臨する目印のためなのかも知れません。傘については、〝天候が悪くなる時につけるようだ〟と地元の方から聞きましたが、徳島県では神輿に天幕(屋根、傘?)を飾っているので、その亜流かも知れないと思いました。

また、太鼓叩きの乗り子が大きく後方へ反り返る所作についても、長崎の〝こっこでしょ〟や、和歌山県日高川河口域の〝四つ太鼓〟など、文化圏各地で広く見られます。

      

(写真上)最初から、日和佐八幡神社境内に設けられている各町の太鼓蔵(太鼓納屋)と奉納町名。太鼓台の舁棒と外観。海入りする太鼓台の様子2枚。どの地区とも、蒲団部下の彫刻は素晴らしいです。乗り子座部の様子。蒲団部の構造と、蒲団枠を固定する斜交いの状況。斜交いの真ん中で蒲団枠を固定していますが、複数の固定方法が見られました。蒲団部天の幕と傘は、文化圏の他の地方では見ていません。幕は神様が降臨する依り代でしようか。傘は、写真(徳島市勝占町)のように、神輿に屋根を飾ることがあるので、それの亜流なのでしょうか。クライマックスの折に、太鼓叩きが後方へ反り返る。このような所作はかなりの地方で見られますが、そのうち長崎と御坊では、両手を大きく広げて反り返っています。最後の3枚は、祭礼終了後に太鼓納屋前で行われていた翌年度祭礼への引継式(申し送り)の様子です。(日和佐での撮影は昭和60年10月1985のものです)

旧・由岐町志和岐の太鼓台

日和佐の東隣の志和岐にも、日和佐からと伝わる太鼓台があります。以下は昭和54年10月(1979)に写したもの。上の日和佐と見比べることで、蒲団部等の理解がより深まることを期待いたします。

(終)


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