四国・佐田岬半島・宇和海側の付け根、愛媛県八幡浜市保内町雨井(あまい)の「四つ太鼓」は豪華というほどではないが、見るからに端麗で古式豊かな太鼓台としての存在感に満ちている。決して大きくはない太鼓台ではあるが、装飾キンキラキン・巨大で豪奢な太鼓台の中で育った私は、そのルーツ的な魅力に引き付けられるように幾度となく訪れた。
四つ太鼓の蒲団部構造
外部から見ることのできない四つ太鼓の蒲団部構造に関しては、既に「太鼓台‥分岐・発展(4)」の中で画像を交え概要を紹介しているが、下記に今一度詳しくおさらいしておきたい。
ある"事件"が、何回目かの雨井見学の夜、いよいよ四つ太鼓を分解・格納する時に起きた。頑丈に組まれた蒲団部の内部がどのようになっているのだろうか、と蒲団部を四本柱から降ろす際、興味津々な私はカメラのフラッシュを光らせた。その時、すぐさま年配の方から、「中は見るものではない! 地元の者でも見たことがないのに、余所者が何をするか!」と一喝された。一言も返せなかった。何が写っているのだろうか。帰宅して現像・引き伸ばしをして見ると、十字に組まれた天井板が写っていただけであった。そんなに一喝されることでもないのに、と思った反面、この天井上の内部はどうなっているのだろうか、と妙に興味をかき立てられた。
翌年、地区の郷土史家(故・米澤利光氏)のお骨折りで、お祭り前の四つ太鼓の蒲団部組立作業を見学することができた。今までに見たことがない蒲団部作りの一部始終を見せていただいた。雨井の四つ太鼓の形態は、蒲団部の一畳が鉢巻状となっていることから、私は「鉢巻蒲団型太鼓台」と分類しているが、子細な作業状況を初めて見ることができた。また、その後の各地見学で鉢巻蒲団型太鼓台は幾例か実見することとなるが、雨井での見学一夜は、「蒲団部構造の変化・発展こそが、太鼓台発展の客観的バロメーター」との確信を得ることとなった。その蒲団部組立作業を以下に紹介し、ブログを見られている皆さんと共有したい。
蒲団枠となる"鉢巻"は、雨井では中に綿を詰めている。(同じ鉢巻蒲団型の丹後半島・此代では、毎年もみ殻を入れ替えていた=最後の5枚の写真)年々の使用でどうしても綿が痩せてくるので、細かく千切った綿片を細い棒で補充しながら使用しているとの由。かなりパンパンに張った5本の鉢巻に、色違いのラシャ布を丁寧に巻き付けていく。蒲団枠のバランスを取るため、四隅の仕上げは複数人の同時作業となる。蒲団枠部分の拵えの次は、逆台形の木箱の周りに5本の鉢巻をはめ込んでいき、後で固定しやすいように木箱の穴に紐を通しておく。鉢巻がパンパンに張っているので、はめ易いように箱の口の広い方を下にして、大きな鉢巻から順次はめ込んでいく。5本の鉢巻が、あらかた木箱の周囲に収まったら、箱の内側と外側から型崩れしないように紐留めし、更に強度を保つため人の重しで固く整えていく。これも面倒な作業である。次に四方に足のついた竹籠を木箱の内側に、籠目の部分が天、足の部分が天井板側になるように格納する。最後に蒲団部全体を密封する。この際、竹籠の保護や天部の水平及び強度確保の厚紙を竹籠の上に載せ、赤ラシャ布を丁寧に縫い付けていく。これは女性が行っていた。密封された竹籠は宗教的な依り代・目籠(めかご)に当たるもので、この籠の下(中)に神聖な神様が宿ると考えられていたのだろうか。前年、一喝されたのはこの目籠に当たる竹籠の存在があったからではないかと思った。
各地見学の経験がまだ浅かった頃に、雨井・四つ太鼓と出会うことができた。間違いなく大きな刺激を受けた太鼓台の一つである。誰からともどこからともなく、「君は、太鼓台蒲団部の各地比較をして、謎を解きなさい」と後押しをされているような気持にしてくれた太鼓台であった。
総集編の雨井・四つ太鼓の紹介の中で、四ツ太鼓は嘉永元年(1848)、播磨の明石湊から伝播してきたことが分かっている。そして天井画の墨書から、四つ太鼓が明石で文政8年(1825)に作られたものであるらしいことが確実視された。明石で20年余り使われていた彼の地の、まだ十分に新しかったと思われる「屋台」を、"伊予の大阪"と称された雨井の先人たちは購入して帰り、これまで大切に受け継いで来たのだろう。後に判明することとなるが、雨井・四つ太鼓に近い形態の太鼓台が、明石周辺及び雨井近隣や遠隔地の文化圏各地には点在している。その一部を紹介する。
四つ太鼓の天井板には「時世 乙酉(きのと・とり)秋八月」と書かれている。これは明治18年(1885)乙酉ではなく、文政8年(1825)乙酉のことである。四つ太鼓は『雨井の船の歩み』(地区の郷土史家 故・米澤利光氏著)によると、嘉永元年(1848)に明石湊から積み帰っているので、私は間違いなく「四つ太鼓は明石で造られた太鼓台」と考えている。蒲団部作りで見たように、あれほど丁寧に大切に扱われていた四つ太鼓が、明治18年になり「天井板などを補修等した」とは考えられない。次に、鉢巻蒲団型太鼓台やそれに近い形態の太鼓台を、上の画像で紹介する。天井板に続いて、明石市・穂蓼八幡神社の屋台、奈良市・南北三条太鼓台、京都府丹後半島のだんじり、愛媛県佐田岬半島・川之浜の四つ太鼓、兵庫県たつの市千本の屋台、三重県熊野市のよいや、である。
鉢巻型蒲団型太鼓台・雨井「四つ太鼓」の周辺
四つ太鼓は播磨・明石湊から伝来したものであるため、①当時の明石近隣の屋台(ここでは鉢巻蒲団型太鼓台)の形態を、ある意味では色濃く伝え遺していると言えるのではないか。一方、藩政期の雨井は、宇和島藩の矢野保内下(やのほないしも)管内の津出し所(津出し場:藩米等の積出し湊等)の一つとして栄え、近隣一帯からも"伊予の大坂"と呼ばれ一目置かれる存在であった。交易の廻船も多く持ち、言わば、②上方文化の玄関口として、太鼓台文化を近隣へ広めることとなったのではないか。同時に、明石近隣の屋台を継承する③雨井型の四つ太鼓を手本に、佐田岬半島地域の旧・瀬戸町(現・伊方町)などへ広まっていったことが想像される。
鉢巻蒲団型太鼓台の種類については、雨井・四つ太鼓を頂点に、簡素・小型のものが各地には点在している。各地の鉢巻蒲団型太鼓台の中には、鉢巻蒲団型以前のカタチとして、本物蒲団型であった太鼓台もあったのではないかと推測される。本物蒲団型の太鼓台が、安定した形態を確保しにくかったのに対し、鉢巻蒲団型は使う綿の量も少なくて済み、もみ殻などの代用物も使用可能となる。美的にも勝り、鉢巻を固定する木箱や竹籠などを併用すれば、組立後の安定感も優れていた。このような状況を踏まえ各地太鼓台では、本物蒲団型から鉢巻蒲団型への移行があったことも推測できる。
鉢巻蒲団型からの次の段階、即ち、鉢巻蒲団型の蒲団部作りが年々のくり返しで手間がかかり過ぎるという欠点を克服して、新たな蒲団部のカタチとして、枠蒲団型が登場して来たものと思われる。雨井近隣の四つ太鼓の中には、鉢巻蒲団型と次の段階の枠蒲団型とが近距離エリアに点在している。雨井近くの磯崎(いさき。雨井と同じ旧・保内町、伊予灘側)では、以下の画像のように、蒲団1畳分を四辺バラバラの枠から組み立て、5畳の蒲団部となっている。ただ、外観・規模は雨井・四つ太鼓とよく似ている。
画像は磯崎・四つ太鼓の蒲団部組立作業。四辺はバラバラ、四隅は4人が同時作業で、ピン留めしていた。5畳の蒲団枠固定には、四隅にのこぎりの歯状の部材を宛がい、上下から✖印状に結わえて型崩れしないようにしていた。最上部の天は、竹編み(二つ折れ)で密封する。乗り子側の蒲団部下部は、格天井に障子のように紙張りであった。出来上がり状況と担ぎの状況。最後の1枚は、伊予灘・長浜町の櫛生(くしゅう)の四つ太鼓で、この四つ太鼓も磯崎の蒲団部構造とほぼ同じ。
文化圏各地に散らばる太鼓台の蒲団部の共通性を、点から線へと手繰り寄せていくと、太鼓台発展の過去の状況が、かなり信ぴょう性を持って追体験できるのではないか。今回の雨井・四つ太鼓を、鉢巻蒲団型太鼓台の最も発達した頂点のカタチとして捉え、この四つ太鼓と蒲団部が酷似する同型の各地太鼓台との比較・検討を、出来るだけ数多くかつ客観的に、文化圏の多くの地方で協力し合って為されるべきだと思う。太鼓台の大・小や豪華・簡素という外観のカタチや印象のみを真に受け誤って基準にし、各地の太鼓台の過去を推し量るべきではない。太鼓台先進地の人々によく見受けられることだが、太鼓台同士に優・劣があるがごときと捉えるのは、全くのナンセンスであり、客観性に欠けた我田引水そのものである。素朴・簡素な太鼓台が時代の早い段階にあって、幾星霜の変化・発展を経て、その辿り着いた今に豪華な「自・太鼓台がある」ことを、謙虚に理解するべきだろう。雨井の四つ太鼓は、私たちの太鼓台の歴史を200年近く遡って今にある、かけがえのない太鼓台文化圏の至宝である。
(終)
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