兵庫地車(だんじり)研究会がH17.8.30に発刊した『住吉大佐「地車請取帳」と彫刻』については、前稿(特徴的な「足・裏」表現と「四国、大阪、洲本」の桜井縫師について)の、桜井縫師の足跡を追った際に紹介・引用させていただいた。B5判269頁の同書によると、大阪市住吉区住吉町で宮大工として連綿と続いた川崎家に伝えられているのがこの『地車請取帳』であるという。本書によれば、明治19(1886)年9月から大正15(1926)年10月までの、同家製作及び修理の地車等の売買に関する内容や装飾品等の取引業者などの記録が、大福帳式の帳面に記載されているとの由。
本稿タイトルにある「奥田 久兵衛」のことは、明治30年~31年頃に「大阪南区西清水町 佐野屋橋南角 ぬい屋 奥田久兵衛殿」として書かれている。地車(だんじり)や蒲団型太鼓台の幕などの装飾刺繍の専門業者(縫師、縫箔師)であったものと思う。
この「奥田久兵衛」については、私は以前からその存在を知っていた。昭和56(1981)年9月に見学に訪れた広島県倉橋島室尾の太鼓台(だんじりと呼称。室尾には東・西のだんじりがある)の東だんじりの龍の幕裏に、「佐ノ屋橋◇◇町◇ 奥田久兵衛」と墨書されていたのを確認している。またその後、観音寺沖の伊吹島・東部太鼓台の傷みの激しい幕(神功皇后と武内宿禰)にも同様な墨書「◇◇町佐野屋橋南入 商号 橘久 奥田久兵衛 繍」があったのを確認している。
以上は広島県倉橋島室尾のだんじり(激しい喧嘩が見られる。台足の中央につけられた1本の足は、四隅の4本よりも長い)
以上は観音寺市伊吹島東部ちょうさ関連の画像(龍形蒲団〆は旧と現役のもの。粗図面は安政3、4年頃のもの)
当時の倉橋島にも太鼓台が各地区に伝承されていた。現在は定かではないが、少なくとも見学に訪れた1981年頃には、倉橋・室尾(むろお)・海越(かいごし)・尾立(おたち)・鹿老渡(かろうと)に、だんじりがあった。また、本土側の呉市吉浦東町には、倉橋島から買ってきたと伝わる〝ちょうさい〟(太鼓台のこと)が、現在も盛大に奉納されている。私はこの内、倉橋・室尾・海越・鹿老渡・吉浦東町の太鼓台を見学させていただいた。
ここでは、呉市吉浦東町のちょうさいと、倉橋島・鹿老渡のだんじりを紹介する。
吉浦東町のちょうさい(台足の中央1本が他の四隅の台足より長い。太鼓台を地面につけてクルクルと廻すのに好都合)
鹿老渡のだんじり(左右に倒し合いをする。神輿との喧嘩もある。簡素な太鼓台である)
(終)
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