今回は、観音寺・琴弾八幡神社の奉納太鼓台9台の蒲団〆についての話である。巷間、次のような話題が持ち上がっていることを、ある方を経由して当方に伝えられた。
「そこで飾られているちょうさ(太鼓台)の蒲団〆には、何か特別の謂われなり、観音寺独自の決まり事などがあるのではないか。と言うのは、奉納順が不変である1号から9台までの太鼓台の、奇数号の蒲団〆に扇が用いられていて、偶数号の太鼓台には龍や虎が用いられている。独特の伝承がこれほど規則正しく踏襲されているのは琴弾八幡だけにしかなく、何か深い理由があるのでは? 他の地方では龍や虎などが多いが、ここではなぜ扇を蒲団〆に使うようになったのだろうか。なぜ、奇数号と偶数号の太鼓台とでは〝扇と龍・虎〟という風に明確に分かれているのだろうか?」というものであった。
◦扇の蒲団〆
確かに琴弾八幡の場合、他地方の太鼓台が豪華に発展した蒲団〆の種類やカタチに比べると、扇を飾る太鼓台があり、龍や虎の蒲団〆が大半を占める現状からは、一見すると“特異”に見える。しかし、このことは特異でも何でもないこと。本稿では、そのことを、できるだけ分かり易く、客観性をもって説明したい。
先ず「扇の蒲団〆」についてであるが、これはただ単に〝目出度い扇をかたどったものではない〟ということ。扇は「獅子(唐獅子)」を象り、古くから能や歌舞伎に「扇獅子」を頭上に被った役者が登場している。その場合、被り物の扇獅子は「獅子頭」と意識されている。被った役者自体が獅子そのものとなる。古い時代の日本では、仏教が人々の精神生活の中心にあった。獅子は、仏教・仏典を守るとされていた尊い聖獣である。その聖獣・唐獅子が、龍や虎(唐獅子と同様な陽・聖獣)と同じように蒲団〆に採用されているだけなのである。このことは、観音寺太鼓台研究グループ既刊の『太鼓台文化の歴史』に詳しく解説されている。(以下に転載)
では、なぜ能や歌舞伎に使われている扇獅子を、太鼓台の蒲団〆に採用したのだろうか。それは、当時のこの地方の太鼓台刺繍の職人さんたちが、歌舞伎の衣裳や獅子の文様に精通していたからに他ならない。太鼓台文化よりも先に花開いた〝地芝居の、この地方の総本山〟と言えば、金毘羅大芝居である。大芝居の名声を頼りにして、多数の各地の地芝居の豪華衣裳を手掛けていた金毘羅の刺繡職人たちは、当然ながら豪華な刺繡が縫われていた歌舞伎衣裳とも、大変近い間柄にあった。全国から訪れる金毘羅参詣客をターゲットに、芝居小屋がそれまでの季節による臨時建てから常舞台へ定まる(1835天保6年頃)と、彼ら職人たちも大芝居のすぐ近くに居住し、芝居衣裳の制作を主に、太鼓台刺繡の制作も並行して制作するようになっていく。
やがて地芝居の隆盛に陰りが見え、太鼓台が大坂を起点として西日本各地に広まってくると、それまで従の立場であった太鼓台刺繡が主となり、地芝居衣裳制作との立場が逆転する。豪華への太鼓台刺繡発展期(この地方の太鼓台刺繡の草創期は幕末で、発展期は明治初期~中期と考察)には、それまで培ってきた歌舞伎衣裳制作のノウハウが大いに役立ったことは言うまでもない。衣裳刺繡の技が太鼓台刺繡に大いに活用されていく。この双方作品の豪華刺繍は、これまでに各地の農村歌舞伎衣裳と太鼓台の、双方の古刺繡を比較検討した結果、双方作品に酷似するものが数多く確認されており、現在では双方文化の関連が揺るぎないものとして理解されるようになった。要するに、「太鼓台刺繍は、先行した地芝居の衣裳とも深い関連があり、衣裳を制作する職人たちは太鼓台の刺繍も手掛けていた。太鼓台刺繡は、先行していた豪華な地芝居の刺繍衣裳からさまざまな影響を受けた」という関係性を伺うことができる。
衣裳には、威勢の良い陽・聖獣の龍や虎だけでなく、唐獅子も数多く刺繍されている。当然ながら、衣裳刺繡から太鼓台刺繡の流れの中で、それらの陽獣たち(唐獅子・龍・虎など)も、水引幕を始め蒲団〆へも採用されていく。
元々の唐獅子の蒲団〆は、恐らく唐獅子の実体そのものを表現したものであったと考えている。数は少ないが、実体を刺繍した蒲団〆が大野原町の旧・辻太鼓台に伺うことができる。その写真(大野原町・漆川拓郎氏ご教示)を眺めると、獅子の実体を刺繡した蒲団〆はかなり複雑で、制作には相当の手間と時間がかかることが容易に想像できる。
折しも太鼓台刺繡発展期に、数多くの太鼓台刺繡を一手に手掛けていた琴平の刺繡職人たちは、〝唐獅子の蒲団〆を大胆にアレンジして、龍や虎のように大量に制作できないか。大量制作に適した特徴のあるカタチはないものか。唐獅子本来の動性(狂い)を有し、インパクトのあるカタチを得たい〟と、自らの近場で実体の唐獅子に替わるデザインを探し求めていたのではないかと私は考えている。その結果、自らの足下の歌舞伎衣裳の扇獅子にたどり着いたというわけである。
◦歌舞伎の扇獅子と太鼓台の扇獅子とのデザイン上の関連
上掲の『太鼓台文化の歴史』の役者絵に描かれた扇獅子と、太鼓台の扇獅子・蒲団〆を見比べると、2枚の扇と牡丹の配置が「上下・逆」になっている。この2枚の扇は「唐獅子の口」を表している。その証拠に、扇と扇の間に赤い舌が描かれている役者絵もある。蒲団〆では、この扇と牡丹を上下・逆に配して扇を目立たせ、またその下に牡丹花を置き重厚さを持たせ、更には牡丹の下側に渦巻きを配し、最下部に長い糸(これは唐獅子の毛並み‥獅子が舞い狂う際の激しさを表す逆巻きの毛)をなびかせている。また、蒲団〆の黒糸の下に隠れてはいるが、歌舞伎衣裳の下絵に描かれている「輪違紋」(わちがいもん)もあしらわれている。このように、扇獅子を刺繍した琴弾八幡奉納太鼓台の蒲団〆は、歌舞伎衣裳の小道具・扇獅子と密に繋がり、勇壮な太鼓台装飾の「扇獅子・蒲団〆」に変貌を遂げている。観音寺の古老たちの間では、この蒲団〆を、知ってか知らでか、単に「さっきょう」と称していた。これは、上掲『太鼓台文化の歴史』の〝扇咲競、実は石橋〟に他ならない。唐獅子が狂い舞い踊る〝唐土・清涼山の石橋(しゃっきょう) 〟のことに他ならない。
なおこのデザインの扇獅子・蒲団〆は、観音寺以外では坂出にも1台伝えられている。坂出・新浜子供太鼓に見られる扇獅子の蒲団〆は、小振りな作りながら、下垂れの糸に金糸を使う豪華振りである。ただ、観音寺では扇や牡丹花の下の渦巻きが3個であるのに対し、新浜子供太鼓台では数多くの小さな渦巻きがあることから、デザイン的には坂出の方が観音寺よりも先出したものと考えられる。当然ながら、同じ工房で制作されたものである。蒲団〆は、龍と扇獅子(唐獅子)を一対として用いられていた。
◦金毘羅大芝居と松里庵・髙木工房
蒲団〆・扇獅子を生み出したのは、金毘羅大芝居のすぐ近くに居住していた縫屋の松里庵・髙木工房の髙木定七(1852嘉永5年~1920大正9年、明治元年の時にわずか14歳)という、若くからの著名な太鼓台縫師だと推測されている。彼は、この地方の豪華太鼓台刺繡の先鞭をつけた第一人者である。しかしながら、嘉永5年(1852)に生まれ、没年・大正9年(1920)の彼の足跡については、死後まだ百年ほどしか経っていないのに、よく知られていない。特に彼に先行する、髙木定七縫師以前の刺繡職人さんたちの事跡については、更に雲を掴むようで全く判明していない。松里庵・髙木工房が金毘羅大芝居のお膝元で誕生し、その後、地芝居の衰退と太鼓台の隆盛という局面において、太鼓台の盛んな東予地方へ海上交通が便利な観音寺に制作工房を移している。観音寺松里庵四代目・現当主の髙木敏郎氏のご教示によると、琴平からの役所への正式転居届は明治35年(1902)に行っているが、私の取材では、明治23年(1890)頃には既に観音寺に工房を構えていたことが偲ばれている。太鼓台隆盛の時流に乗り、当時は琴平・観音寺の二店舗経営を行っていたのかも知れない。そして工房運営が完全に軌道に乗った明治35年に、琴平の工房を観音寺の工房に一本化したものであろう。
金毘羅の縫屋・髙木工房の出目については、全く判明していない。ただ、屋号・松里庵と称していることや、神田由築氏著『近世の芸能興行と地域社会』(1999東京大学出版会、71ページ)の琴平・金山寺町大火(1838天保9年4月10、11日)の焼失地図(金光院「日帳」の複製)や、同書記載の金山寺町の住人名に、「髙木屋」という松里庵・髙木家と思われる屋号が存在することから、琴平の金山寺町が松里庵・髙木工房の存在した場所であろうと推理している。金山寺町大火の焼失地図で見ると、髙木屋のすぐ前は「白川屋 縫」と表示されているのが伺える。もしかすると、髙木定七縫師の先祖は、この縫屋・白川屋と関係深い職人であったのかも知れない。
太鼓台刺繍発展期の明治初期から中期にかけて、松里庵・髙木工房では、太鼓台刺繡を中心にしてさまざまな作品を遺している。ここでは制作年代の判明している作品名のみをランダムに紹介した。(この他にも松里庵作品でありながら、年代確定のできていない太鼓台や地芝居衣裳の作品を、相当数実見している)
・明治11年(1878)観音寺・高屋明太鼓台の唐獅子の幕 ・明治12年(1879)観音寺・本若太鼓台の龍虎蒲団〆 ・明治13年(1880)山本・大辻太鼓台の石橋昼提灯 ・明治22年(1889)~24年(1891)愛媛県西予市野村町の乙亥相撲の化粧回し群 ・明治24年(1891)阿波池田・西山太鼓台の龍虎の幕と唐獅子の掛蒲団 ・明治26年(1893)山本・河内上組太鼓台の虎の掛蒲団 ・明治29年(1896)詫間・箱浦屋台の源頼光四天王の幕 ・明治30年(1897)宇多津・山下太鼓台の源頼光四天王の幕 (等)
◦観音寺の奇数号と偶数号の太鼓台に飾られている蒲団〆
現在9台に増えた琴弾八幡の奉納太鼓台の過去はどうであったのか、をおさらいしておきたい。文化6年(1809)の豊浜の庄屋文書に遺された観音寺太鼓台の初見記録は、現在の3号殿町太鼓台のものである。なぜ隣郷・豊浜(当時は和田村)の庄屋記録に遺されたかと言えば、前々年の文化4年(1807)2月に観音寺に大火があり、その影響で、役所業務の一部が豊浜で実施されていた故である。殿町太鼓台に続く4号上若太鼓台には、明治6年の道具箱類が遺されていることから、恐らく次の5号坂本太鼓台が登場する明治14年(1881)頃までは、この順番に太鼓台が登場していたものと思われる。明治初年頃の琴弾八幡の奉納太鼓台は、奇数号では1号中洲太鼓台と3号殿町太鼓台、偶数号では2号本若太鼓台だけである。号は太鼓台が奉納開始した順につけられたものと言われているが、少なくとも3台であった明治初期頃の琴弾八幡への奉納順は、1号・中太鼓、2号・本太鼓、3号・殿町(酒)太鼓と定まっていたと思われる。4号・上若太鼓は明治6年(1873)に、5号・坂本太鼓は明治14年掛蒲団箱に年号記載)に、それぞれ太鼓台が新しく奉納されている。
大正2年(1913)に地上げによって造成された御旅所の十王堂には、その時までに存在した太鼓台が、石垣の石を一艘分ずつ寄進している。南面する川側の石垣には、造成した当時の太鼓台を刻印した石が、6個組み込まれている。西側から、酒・本・中・坂本・上若・柳の各太鼓台である。この内、柳太鼓台についてはあまり詳しいことは分かっていない。若干小振りな太鼓台であったらしいこと、使われていた太鼓が某神社の宮太鼓として今も使用されていること、四本柱上部の間にはめ込まれていた蛙股と呼ばれる彫刻の一部が現存していること、などが伝えられている。要するに、明治末までは6台の太鼓台が琴弾八幡へ奉納されており、奉納順不明の柳太鼓台を含め、1号・中洲、2号・本若、3号・殿町、4号・上若、5号・坂本という顔ぶれの太鼓台が存在していたことになる。
余談となるが、三架橋が三架の太鼓橋であった明治18年(1885)頃までは、太鼓台は祭礼日の旧暦8月15日の一日だけを、大潮で干潮の朝夕、財田川の中を担いで渡り、宮入り・宮出しを行っていた。この6台の太鼓台の内、柳太鼓台は奉納開始や川渡りの有無も不明であるが、残る5台は間違いなく川渡りを行っていた。当然ながら、太鼓台の規模も今よりも随分と小さく軽量であったものと想像されている。(太鼓台の川渡りについては、本ブログ「観音寺と太鼓台文化」に詳しい)
◦奇数号と偶数号太鼓台の蒲団〆
上述したように、扇の蒲団〆は唐獅子を表したものであった。唐獅子は仏教を守護する聖獣で、龍や虎同等、若しくはそれらの上位に位置すると考えられていた。獅子舞が全国規模で広まっているのも、その良い例だと思う。扇は単なる扇ではなく、聖獣・唐獅子そのものであった。したがって蒲団〆に採用されているのは、扇ではなく唐獅子であり、龍や虎と同格・同質の陽獣である。観音寺の場合、明治末までの1・3・5号の中洲・殿町・坂本太鼓台には、扇獅子が採用されていた。そこでは、奉納順の早い先輩格の太鼓台に遠慮する意識が働き、先出の太鼓台に歩調を合わせる忖度があったのかも知れない。しかし、扇獅子採用の本意は〝扇そのものではなく、扇獅子即ち唐獅子〟という意識が為されていたと考えるべきではなかろうか。前述した坂出・新浜子供太鼓台の扇獅子と龍との組み合わせによる蒲団〆の飾られ方は、正に唐獅子と龍であって、扇獅子が唐獅子であることを物語っている。
それでは、7号上市太鼓台と9号社家太鼓台の、後の時代の奇数号太鼓台ではどうなのか、という点が気になる。上市太鼓台の蒲団〆に関しては、前出の『太鼓台文化の歴史』の73ページに詳しく触れている。(以下に転載)
その文様は、「薬玉紋」(くすだま-)を借用したもので、説明にも書かれているが、「七」という縁起の良い数に幾重にもこだわった、当時の人々の強い想いが感じられる。なお、扇獅子の毛並みに相当する上市・薬玉紋の蒲団〆の下の糸は、唐獅子の毛ではなく、厄除けの「菖蒲」である。このあたりも扇獅子に酷似されていて、敢えて先輩格の奇数号太鼓台を忖度した結果かも知れない。このような後出太鼓台の、先輩格太鼓台との酷似や少しばかりの遠慮意識や忖度から、さも何らかの謂れや太鼓台間の決まり事があるのではないかとの憶測を招いているが、そうではなく、人々の間にあるのだとすれば〝扇を受け継いでいるのではなく、扇獅子即ち唐獅子を受け継いでいる〟ということだろうと思う。7号上市太鼓台の蒲団〆の薬玉紋デザインは、明らかに扇獅子とは異なっていて、同じ奇数号太鼓台とは言え、全く斬新なカタチのものである。琴弾八幡では、上市太鼓台が奉納開始された以降は長らく7台の奉納が続いた。その最後の奉納太鼓台との自負から、地元では「留め纏」(とめまとい)と呼ぶこともある。これは、その外観が火事装束の纏を想わすからであろうが、これは何ら関係がない。
琴弾八幡の奉納太鼓台は、単に〝奇数号は唐獅子、偶数号は龍や虎を継承している〟ということではなかろうか。平成12年(2000)に奉納が開始された社家太鼓台(しゃけー)では、龍の蒲団〆上部をよく見ると、2枚の扇がわずかに見ることができる。これなども、先輩格の奇数号太鼓台を強く意識した結果のあらわれだろうと思う。
それでは、偶数号の蒲団〆の龍や虎には、どのような意味や関連が伺えるのだろうか。
龍や虎は、2号・本若太鼓台が初めて採用した蒲団〆に採用されていたものである。(上画像の左が明治12年製の本若太鼓台の蒲団〆。右は更に古い時代のものと思われるまんのう町大向太鼓台で使われていた蒲団〆)本若太鼓台の確実な歴史は、現時点では明治12年(1879)までは遡ることが可能である。また、古くは奉納順が1号であったことが、現在でも多くの琴弾八幡の氏子の間で語られていることや、本若太鼓台から上若太鼓台が明治6年に分かれ、後に6号南太鼓台が分かれた史実が判明している。したがって、上若太鼓台の明治6年分離ということは、母体である本若太鼓台の明治12年奉納開始はあり得ない。故に少なくとも明治12年より一世代前には、古い太鼓台が存在していた、ということだろうと思う。最初の本若太鼓台の奉納開始に関し、私は「明治12年よりも二世代前位の登場が妥当ではないか」と考えている。その理由の➀として、太鼓台本体(唐木部分)は凡そ50年程を一世代として新調を繰り返してきていること。➁として、3号殿町太鼓台が文化6年(1809)の記録に“近年登場”していること、を考慮するべきだと考えている。仮に一世代約50年を割り引いて約40年とすると、二世代分80年を明治12年(1879)から差し引くと、3号殿町太鼓台よりも若干古い時代の登場ということが想定される。“かっては一番太鼓”と語られている本若太鼓台ならば、そのあたりの奉納始めが妥当ではないかと考えている。
◦まとめ
観音寺の太鼓台は、古くは長らく3台奉納の時代が続き、漸く明治6年に、2号本若太鼓台の虎を得て4号の上若太鼓台が分離し、明治14年に扇獅子の5号坂本太鼓台、その後に6号の南太鼓台が龍を得て本若から分離する。扇獅子に似せた薬玉紋の7号上市太鼓台も明治後半には奉納が開始されたと伝わる。残る8号茂木太鼓台(しげき―)は平成11年(1999)に、9号社家太鼓台は翌12年に奉納が開始され、現在へと続く。本若太鼓台以外の複数号太鼓台では、その蒲団〆採用に関しては、奇数号で述べたようないきさつや忖度或いは不文律的な制約等は全く聞かない。聞くのは上若太鼓台と南太鼓台が分離した際の、2号本若太鼓台からの虎と龍の伝承譚だけである。現在では、龍の蒲団〆が余りにも各地太鼓台に多数溢れていて、もはや「太鼓台の蒲団〆=龍」が当たり前となっている感があり、奉納する地域の人々にも龍の蒲団〆が違和感なく受け入れられる素地があるのではないかと考えている。龍蒲団〆の流行により、複数号太鼓台では、もはや奇数号の太鼓台のように扇獅子の存在に強く惹かれるような、不文律的な関りが無用になったということかも知れない。
以上のように観音寺・琴弾八幡の奉納太鼓台の歴史を見てくると、奇数号の扇獅子と偶数号の龍や虎の伝播は、巷間言われているように、観音寺にとって特異なことでも、伝統を厳格に守っているという程のことでもない。世間は、扇の外観だけを見て自分たちの太鼓台との違いに異質さを感じているだけであって、その本質は、聖獣・唐獅子が龍や虎たちと共存・存続する太鼓台装飾の一端に他ならないことを物語っているだけである。ただ、氏子たちの間では、扇獅子の伝承については、少しばかりの自負を持っているのは間違いない。
(終)
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