孔子さまは50(歳)にして天命を知ると言っていたけれど、私は天命と言えるようなことを人生でやってはいない。そういう、人生を意義深いものにする何かがあれば格好いいのに、と思う。
突然、何を言いだすのか。50歳手前あたりの頃、ふと孔子の文言を目にした時から、どんな人間でありたいかをしきりに考えるようになった。自分の人生って一体何だったんだろう。自分はどういった人間になりたいんだろうか。人生の残り時間で何ができるんだろう。
恥ずかしいので『○○な人になりたい…』なんて言わないけれど。
自分が目指す人物像に向かおうとすれば、他人にケチをつける暇はなくなる。だって、自分の言動を磨くことに忙しくて、他人の行動なんてどうでもよくなってくるから。そんな境地になれたらいい。
そう何度も言い聞かせて、つれあいとの間でできた傷を修復しようとしているのかもしれない。
ところで新生活、ちょっとおかしな(可笑しな?)ことになっている。
離婚以前そして離婚活動中に比べると、今の生活があんまり穏やかすぎて、かえってソワソワしている。これでいいのか?何か忘れていないか?落ち着こうと無理に紅茶とお菓子を並べて優雅にティータイムをしているつもりになってみたり。形から入ってみたけれど、このゆったりした時間を味わうのが難しい。変だな。こういう時間を熱望していたのに、慣れないことをするとぎくしゃくする。ゆっくりこの生活になじんでいこうと思う。
もう一つ思いついたこと。
「穏やか」や「ゆったり」が新生活のキーワードである。でも常に頭の端には、緊張ランプが点滅している。たとえ仲が悪くても夫婦でいる場合、どちらかが倒れたり動けなくなっても、もう一人の養育者がいる。しかし、保護者が一人になった今、私が倒れたり事故にあえば子ども達はどうなるのか。そんなことを考えてしまい、日々の行動は前より慎重になった。車の運転は丁寧になった。体調管理も心掛けている。家の防犯にも気を付けるようになった…そもそも盗むようなもの、ないけど(笑)。子ども達が独り立ちするまでは気を抜けないと思うようになった。