医大生・たきいです。

医大生的独言。

医大生がなんとなく浪人時代を振り返る

2012-04-14 23:59:59 | 医大生的生活

入寮してから今日まで幾日が経ったのか数えてみれば、まだ10日らしい。こってり濃厚濃密な毎日をすごしているせいか、感覚的にはもう半年くらい寮に住んでいるような感じである。大学とは社会と隔絶している異文化空間である、とはよく言われることだがその中でも特殊な環境に身を置く自分は、実に楽しい毎日を過ごしていると実感する。もしかして春の陽気に騙されて、浮かれ過ぎなのかも知れないが。

考えてみれば、現在の自分を創ったのは過去の自分である。中でも、過去の自分が苦節の浪人時代を闘いぬいて来られたことが実に大きいであろう。また未来の自分を創るのは、現在の自分である。かかる因果律は不変であると考える。これからの人生を空虚にしないためにも、過去の努力を少々ふりかえり、今を懸命に生きる糧としてみよう。

筆者は一浪である。現役時代は酷いもので語るに及ばない。転機は浪人の4月であった。

「これをやれば受かる!」とか云われるものはあまた存在するが、筆者は一つだけ信じてみた。それは、「予備校の授業の最前列に座る」というものである。「これをやれば受かる!」シリーズのスーパースティションは、その多くが「たまたま」合格した人の一回的な特殊なものであろうから、聞く耳を持たぬのが懸命であろうから無視したが、「予備校の授業の最前列に座る」は複数名の予備校講師が語っていたので、騙されたと思って、思い切って実行してみた。

最前列に座る。それは、自らの無知無能を曝け出すことである。講師はときに問いを投げかけてくる。そのすべてにすらすら答えられるようでは浪人していないから、屈辱的な気持ちを味わうこともある。青春を「空費している」とさえ言われる穀潰しで満杯な閉鎖的な空間・教室で、疎外される気分にもなる。しかし、かかる過程が自分の実力をよく知る術なのであった。自分が何者でもないことをよく知る術なのであった。ちっぽけな存在であることをよく知る術なのであった。

己の無知無能を悟ることと自分の学業成績の劣等さに嘆くのとは等号で結ばれることはない。ただ悲観すればよいのではないのである。筆者も模擬試験返却時には、ただただ悲観することが多かったが、それとこれとはディメンションが異なるし、ただただ悲観するなんてのは幼稚な行為にすぎないのである。悟ったうえで、細やかに内実を充実させるのが必須である。加えて、それを継続すべきだ。

自らの無知無能を知るなんてことは決して簡単なことではない。医学部に合格した仲間の中に以下のような人物も少なくなかった。たとえば数学の話だが、「復習が終わった」と豪語している人物に、その問題の背景についてディスカッションしようとしたら、どうやら問題の本質をまるで理解していないのである。たしかに、授業を反芻することで、答案を再現できるようにはなったのかもしれないが、答案を再現することと本質を理解することとは異なる。きっとその彼や彼女は、努力によってもたらされた疲労に、無知が隠されてしまっていたのだろう。筆者も似たようなことが往々にしてあったと思うし、学問とは難しいものである。

たとえば。以下の記述は不適切なものかもしれないが書いてみる。

原発事故。筆者は不勉強なもので、その事の重大さを実感できているとは断じて思えていないし、人間が如何ほどの不利益をこうむることになるのかも想像できない。

混沌とした空間を、客観性を伴い二元論的な考え方によって対象化するのが「近代科学」である。人間は科学によって莫大な恩恵を手に入れることになった。文明的な暮らしがあるのも科学のおかげであるといって間違いなかろう。しかしながら、われわれ人間たちは科学に対して無知無能なのにも関わらず、豊かな生活によって、科学の重大な欠陥に気付けなかったのではないか。筆者の勘違いか。でもそうだとしたら、まず素直にこれまでの無知無能を認めるしかない。そうすればまだ十分に希望はあるはずだ。

自らの無知無能を曝け出すというのが、身を削って自らを成長させる手段であるように思う。これからも実践できたらよいと筆者は考える。ただし問題は、大学側に対して無知無能を曝け出すと、「りゅーねん」という切れ味のよい言葉を頂けることになるという点である(笑)。大学生活をただ乗り切るだけであったらさじ加減は大きくものをいうかもしれない。こうした合理主義的考えが原発事故のように身を滅ぼすことにならねばよいが。




(お金の使い方が理解できない先輩に出会った人(笑))





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