無償の愛
なんて、素敵な、耳に心地よく響く言葉なんでしょう。でも、何の見返りも求めないで、相手のことを思いやることが出来るのでしょうか それはとても難しい。
スピリチュアルのことを書いてある本を見ていたら、こんなのが目にとまりました。
人は人、自分は自分。それは、相手に自分の感情移入しないようにとも、わたしには受け取れます。
しかし、それは難しい。だって、気になるから自分の方に取り込もう。つまり、わたしのことを思ってほしいと願っていることでしょう。
わたしが勝手に思ってることだから、あなたの気持ちは気にならない。偽らない気持ちで、そう言えたら、どんなに気持ちが楽になるでしょう。
そこまで行くには、わたしの場合、まだまだ月日がかかるようです。でも、そうした方向へ向け試行錯誤しつつ、考え悩むのも生きる張り合いになっているのも間違いないことのようです。
けれど、人が生きる意味って定義づけるとしたら、どうなるのでしょうねぇ
むかしから、わたしはもの書きになりたかった。小説家じゃない、飽くまでもの書きにこだわった。
小説家は読者の興味を誘うテーマと描写など、ベストセラーを目指す 何故なら、沢山の人に読んでもらえるし印税だって一杯はいるから。
わたしも一度だけ印税をもらったことがあるけど、あれはちょこっと優越感にひたれる。いい気持ちだ。
でも、何故か虚しい 心にわだかまっている何かがうまく伝わないような気がするからだ。わたしの書きたいのはそうじゃない。自分の描写不足を棚にあげて、わたしはイライラする。小説家と呼ばれる人たちは器用にじぶんの言いたいことをこなしているというのに。
大正時代、家庭を顧みずハチャメチャ?だった文豪たち、マントに帽子をかぶった写真に、わたしは憧れているのもしれない。決して許されない行為と思うから、よけい憧れるのだろう。つまり、昔のよき時代的感覚か?
今の時代、小説家はいても、もの書きは見当たらない。
今年も芥川賞と直木賞の受賞者が決まったそうだけと゛、わたしには難しくてよく分からない。ただ、自分流で表現するなら、芥川賞は正座した心構えで読まなければならないし、直木賞は少しリラックスできるかなぁ。
だんだん、そんな傾向へ向かっているような気がしてならない。どうせ自分には高根の花だと承知しているけど、わたしには以前より読みたいと思わなくなっている。だって、難しくて分からないもの。
自分の心情と共鳴できる作品て無くなってきたみたいだ。