この時期の建設業界には休日などというものは存在しないようである。平日の工事が難しい現場では週末や祭日を指定しての依頼は珍しくない。マンションのゴミ置き場のブロック改修工事を頼まれたが自社工事部で対応ができなかったので知り合いの土木業者に施工をお願いしていた。ゴミ収集のない土曜日に壊れかけたブロックの囲いを撤去が完了して日曜日はマンションのオーナーが工事に立ち会う予定であったが、急用ができたとかで立ち会いを前日にキャンセルされてしまった。自分が行けなくなったので、施工状況写真を撮って欲しいとの要求があり、やむなく休日出勤して現場に顔を出すことになった。ブロック済みの仕事なのでいわゆる左官屋さんという職人さんが一人作業である。慣れない建設業界の営業も3年が過ぎたが、いまだに職人さんとはどう接して良いのかわからない迷える営業マンである。協力会社の社長に紹介された人物は以外にも職人さんらしからぬ人物であった。察するに一人親方の自営業のオーナーらしく、話をしているうちに知性と教養が感じ取れたのは驚いた。人を先入観で判断してはいけないと改めて反省した。しかも若い時には新宿のヨドバシカメラ通いをしていたカメラ小僧のひとりであったようで、共通の話題に大いに盛り上がってしまった。40年も前のヨドバシカメラは現在の家電を含む量販店とは異なり、卸業者が一般の小売も始めた頃で、客のほとんどがアマチュアカメラマンが写真学校の生徒であった。顧客サービスなどは殆ど存在せず、ろくな説明もしないで卸値で化粧箱に入ったままのカメラや交換レンズを急がしそうに次から次へと売りまくっていたと記憶する。店員よりもカメラの知識が豊富なアマチュアカメラマンにとって、余計な説明など時間の無駄でもある。高層ビルの立ち並ぶ新宿西口も当時は京王プラザホテル以外に大きなビルはなく、新宿中央公園の上空には大きな青空が広がっていた。写大に通うために中野坂上に下宿していたから、新宿西口は我々学生にとって裏庭のような存在であった。夜の12時過ぎに友人と新宿中央公園で警官の職務質問を受けてしまった事も懐かしく思い出される。新宿はアマチュアカメラマンのメッカともいうべき場所であった。新宿駅付近で無造作に石をなげれば相当の確立でカメラマンにあたるとまで言われた時代である。男女を問わず首からカメラをぶら下げた若者があちこちで見られた。カメラマンになって世界を駆けまわる夢は実現しなかったが、商社で働き始め貿易の仕事を選んだことにより、後者の世界を駆けまわる夢のほんの少しは実現したことになる。とくに、建設業界にはいるまでの電子材料メーカーでは貿易部新設に貢献し、海外工場設立にも関わることができたし、海外出張で欧米、アジア諸国と二十数カ国を訪問するチャンスに恵まれた。1年8カ月に及ぶフィンランド駐在では家族に大きな迷惑をかけてしまったが貴重な経験をさせてもらった。厳しい自然環境の中で生活するフィンランド人と比べると、日本人はなんと恵まれた自然環境の中で生きているのだろうかと思わずにはいられない。北海道の旭川あたりはフィンランドと同様にマイナス10度や20度といった気候なのだろうが、本州のほとんどはフィンランドほどの厳しい冬を経験することはない。話が横道にそれたが、この左官屋さんは外国語についても見識が高く話がフランス語やドイツ語に及んだ。聞けば友人がフランス人と結婚して欧州に住んでいるということである。また、インターネットで大学の講義を聞いているなどと言う。只者ではないなと素直に感動を覚えた。ブロック積み職人恐るべき。休日出勤で自分の時間がなくなってしまったことは非常に残念であるが、この出会いは愉しかった。一期一会。