田舎で暮らしてます。 (My country life!)

都会の喧騒を離れ、北関東の田舎で可愛いペット達と暮らし始めた中年夫婦の日記です。

老女の告白

2010-08-22 06:15:57 | 日記
老女は自分が長生きし過ぎたのかもしれないと感じ始めていた。体調の不良を家族に隠していたが、さすがに我慢の限度を過ぎていた。階は異なるが同じマンション内に住んでいる娘に説得させられて掛かり付けの病院で内視鏡検査を受けたところ胃潰瘍が見つかった。どうも最近の食欲不振と体重が減ってきたのは、それが原因らしい。二度目の検査を受けるまでは自分の病名は胃潰瘍であると何の疑いもなく信じていたが、東京を離れて暮らしている長女が見舞いにきていることや涙もろくなっている長女の振る舞いに違和感を抱いた。そういえば長女は、夫が20年前に他界した時にも涙もろくなっていた。隠し事のできない性格なのだろうか、自分の容態が相当悪いと長女の様子から容易に察することができる。先に亡くなった夫と自分は同じ病気なのであろうか。娘たちは母親がガン宣告には耐えられないと考えているのであろうか。夫はガン告知をされることなく、検査入院中に僅か数カ月で壮絶な最期を遂げた。当時は自分も夫の後を追って死んでしまいたいと毎日考えていたが、あっという間の20年であった。夫を亡くして翌年に長女の出産があり、夫と入れ替わりのように生まれてきた孫も間もなく大人となる。幸い長女の家族も近隣にマンションを購入したお陰で毎月数回は何らかの理由を見つけて会うことができた。年末から正月の年越しは毎年のように娘二家族合同で温泉旅行を楽しみ、五月の連休と夏休みも必ずといって良いほど長女の連れ合いの車で二泊程度のドライブ旅行もしていた。夫を亡くして以来、友たちと言える友達もなく親戚とのつきあいも程々にしていた身では、娘たちとの年数回の旅行と孫達の顔をみるのが楽しみであった。朝晩何度も仏壇に向かい、夫が見ることのできなかった二人目の孫の成長を報告するのが日課のようになっていた。最初の孫が女の子だったから、夫も男の子として生まれてくる二人目の孫を楽しみにしていたはずである。夫は二人目の孫の顔を見ることなく62歳で逝ってしまった。80歳の祝いということで八王子にある料亭で娘たちが食事会を催してくれてから2年が過ぎた。その間、長女のうつ病体験や、長女の連れ添い(ちなみに義理でも息子などと思ったことはない。)が転職して東京を離れてしまったこと、長女の借金問題など折り重なる不幸にうんざりしてきていた。やはり長生きはするものではない。数年前に他界していれば、娘家族の不幸を見なくてすんだであろう。長女の再婚相手には最初から反対だったし、今でも息子とは認めていないのだが娘が好きで一緒になったのだから仕方ないと諦めた。家柄の良い自分と比較してみれば、まさにどこの馬の骨ともわからない下品な男であるとまでは言いたくないが、育ちがわかってしまうほど躾のできていない男である。口数の少ない男で、一体何を考えているのかわからない。商社勤めが長かったとか、貿易実務関連の仕事をしているとか言っても多少英語ができるくらいで大した学歴もないくせに偉そうにふるまっているとも見える。昨年は、娘のうつ病の原因をめぐって大喧嘩となってしまった。娘の病気は母親の責任でも何でもない、寧ろ伴侶である夫の責任である。嫁いだ娘の責任まで母親に負わせようというのか全く信じられない。夫の責任を放棄して、母親や妹にうつ病の妻をお願いしますという根性が気に入らない。床に座り、土下座をして頼み込む娘の連れ添いに向かって、田舎芝居、猿芝居と罵ってやった。全く根性のない男である。自分が面倒を見切れないから実家の母親や妹家族に世話をしてくれとは何とも虫のよい話ではないか。自分は高齢の身で娘の面倒を見られる状態ではないが、次女が見かねて助け船をだしてくれた。孫の高校卒業まで長女と共に次女のマンションにあずかることになったのである。長女が数百万の退職金を使ってしまい、その上に二百万弱の消費者金融への借金をつくってしまったことは申し訳ないが、借金の責任は母親にはない。借金の原因も長女の浪費は一部のみで、ほとんど夫の年収が減ったことによる補てんであることを考えると長女ばかりを責める訳にもいかない。給与を減らされてしまった夫にも責任はあるだろう。そんなこともあってか、孫は大学入試に失敗して浪人生活を余儀なくされている。東京を離れて北関東の田舎町で、予備校の夏季講習を受けていると聞いている。地方ではまともな予備校もないであろうから出来れば東京に戻って欲しいと思ったりする。一橋大を目指しているが、東大を出た亡き夫の血筋を引いているようには見受けられない。もう一人の孫は女の子であったから学歴にはさほど拘らなかったが、二人目の孫は男の子である。せめて、大学だけは一流の大学に受かって欲しいと思わずにはいられない。自分が亡き夫と結婚できたのも、彼が東大卒であったからである。娘の結婚相手に対しては厳しい基準をもっていたはずの両親も夫が東大卒であるという事だけで、二つ返事で二人の結婚を祝福してくれた。幸いにも自分は家政婦のいる裕福な家に生まれた、自分の家柄には、だれも文句のつけようがないし、大学を出て当時の女性としては十分な学歴も身に付けた。容姿もかなりのほめ言葉を周囲からもらえる程度ではある。そこそこの美人といっても過言ではない。娘たちには転勤族時代の苦労話をしてきてはいるが、高度成長下の日本で比較的恵まれた生活をしてきたことは事実である。本当の意味での苦労をしてこなかった為か、20年前夫の末期がん患者としての壮絶な最期を見届けることになったのも運命だったのかもしれない。それまでの夫との幸せな生活の代償が、夫とのガンとの闘いだったのだろう。そして今までの孫達との幸せな20年間の代償がまた支払われようとしている。今度は自分が病魔に侵され、ガンと闘うという形で幸せの代価を支払う。


ガンの告知に迷う

2010-08-19 23:24:40 | 日記
義母の再検査は進行性の胃がんに間違いないという結果であった。本人には告知せずに、胃潰瘍であると担当医も家族も真相を偽ってひた隠しにしている。80歳をとうに過ぎた高齢では体力的に胃の全摘出手術は難しいと担当医も考えているようである。本人に癌の告知をするべきかどうかは、果たして家族や親せきが判断すべきものであろうか?もしも自分の余命が数カ月なのか数年なのかを知ることができれば、残された人生を有意義に過ごそうと考えるガン患者もいるだろうし、逆に自分の死期など知りたくもないという患者もいるだろう。交通事故や天災に見舞われ何の前触れもなく突然命を失うことを考えると、この世を去る為に心の準備ができるのも決して悪いことばかりではないような気がする。若いころに「生きる」という黒沢映画を見て感動したことが思い出される。当時は英会話に夢中になっていた事もあり、英語版のシナリオを買って夢中で読んだ記憶がある。毎日を平凡に暮らしていた、やる気のない老いた市役所の職員が自分の命が長くないことを知らされた日から、人が変わったように児童公園をつくらせる為に奔走するというストーリである。人は死期を悟った時に初めて謙虚になり、神の存在に気づくのであろう。たとえ、それを神と呼ばなくても人間には理解のできない「おおきな力(フォース)」が存在するということを肌で感じるのではないか。人間とは愚かな生き物である。余命数カ月と知らなければ、自分の生き方に疑問を持つこともなければ反省することもないのである。義父も20年前にガンで亡くなったが、本人に告知されることはなかった。長期にわたる検査入院の果てに入院から数カ月でこの世を去ることになった。末期ガンの苦しみの中で亡くなっていったと後に義母から聞いたのだが、その闘病生活は壮絶なものであったようだ。病室の壁が鮮血で真っ赤に染まったと聞いている。治るあてのない病気で、検査、検査の連続でモルモットのように治療法や治療薬の対象となり、苦しんだ挙句に迎えた死であったようである。そんな治療がはたして必要であったのか、そこまでして患者を苦しめる必要があったのかと当時は疑問に思わずにはいられない。義父の入院先は田舎の病院などではなかった。入院先は都心にある超有名私立大学の医学部付属病院であった。なんでも甥っ子がその大学を卒業して病院の勤務医をしていたから紹介を受けて大学病院への入院がきまったようである。当時も多くの民間治療法が口コミで患者や家族を通じて広まっていたが、その一つを試したいと申し出たところ病院側の治療方針に不満があれば出て行ってくれと言わんばかりの剣幕で却下されてしまった。その民間治療法で父が救われたと言った女医は申し訳なさそうに義父の家族に謝ったそうである。病院側のプライドと権威主義を守る為には家族の思いなど冷たく無視するのが当然と言わんばかりである。彼らにとってはガン患者など、人体実験の対象でしかなく、ハツカネズミ一匹の命と何ら変わりないのであろうと思わずにはいられなかった。家族の嘆き悲しむ姿を見かねて、親切心から自己の体験を語り、彼女の父親を救った民間治療法があることを漏らしてしまったのだが、この女医の良心は、血も涙もない白い巨塔の経営者たちに踏みにじられてしまったのである。こうして良心のかけらもない冷酷な医師たちのみが出世欲の波を乗り切り大学教授やら学部長となって大学病院を牛耳るのだろう。義父が検査入院した数カ月の間に治療費は数百万を超えていたようであるが、彼は体を切り刻まれ苦痛にまみれ、挙句の果てに最大の努力をしましたが彼はガンに勝てませんでしたなどと言われたのでは何のための入院だったのか。高額の治療費をむしり取り、患者を死なせたのでは詐欺以外の何物でもないと言いたいところだが、末期がんの治療は困難と一言で済まされるのだ。患者をたすけることができないのなら、無駄な治療は最初から行わず本人の苦痛を和らげる選択があったはずであるが、それでは高額の治療報酬が得られない。大学病院とはいえ、所詮は民間企業にすぎない、つまるところは金もうけが優先する医療機関にすぎなかったということだ。義母には同じ思いをさせたくない。できる限り本人の肉体的苦痛を和らげ、送り出してあげるのが良いのではないかと信じている。自分の母は脳梗塞で入院し亡くなるまでの数年を病院で過ごしたが、その期間は決して幸せだったとは思えない。多少痴呆の症状も出ていたせいだろうが、見舞いに訪れた際に手足をベッドに縛られていることがあった。点滴をはずそうとして危険であるという判断だったのだろうが、犬や猫ではあるまいに、体の一部をベッドに括りつけるのは如何なものか。人間の尊厳など、患者には与えられないのだろうか。病院で最期を迎えるのは母の本意ではなかったと思う。だれしも畳の上で、住み慣れた我が家で最期の時を迎えたいと望んでいるはずである。治療費をむしり取るだけの今の医療制度下では、植物人間になろうが、昏睡状態であろうが長く生き延びさせておくだけが目的となってしまった。治療などはついでに行うサービスなのだろうか。残念なことに日本に医料制度(医者が料金ふんだくり制度)はあっても、真の医療制度は存在しないのかも知れない。

ムカデ出現、そして誤認処刑

2010-08-18 23:35:36 | 日記
10時過ぎに夜の外出から戻り、先に玄関先を駆け上がった息子が台所の片隅に素早く身を隠した正体不明の小物体を発見した。その動きからゴキブリかと思われたので物陰に潜む侵入者に殺虫剤スプレーをたっぷりと浴びせてやった。手前の段ボール箱を動かしてみると、その正体は、ムカデであった。殺虫剤のシャワーを堪能した哀れなムカデはピクリともしなかった。苦しむことなく成仏したようであるが、無益な殺生をしてしまったと少々後悔した。これがゴキブリだと何のためらいもなくスリッパの裏でたたき殺してしまったりするのだが、ゴキブリ以外の虫である場合には何となく殺生をしたという罪の意識に悩まされるのだから不思議である。ムカデは寝ている最中に布団に潜り込まれて刺される危険もあり、害虫という点ではゴキブリよりも被害が大きく危険な虫であろう。寝ている間にゴキブリに襲われたという話は聞いたことがない。深夜の台所に出没して、野菜くずや菓子類のかけらを漁るのが精いっぱいであろうから、人畜無害といっても過言ではない。それなのに何故ゆえゴキブリだけが、忌み嫌われるのであろうか。ゴキブリを弁護するつもりはないが、ゴキブリという名前ゆえに他の昆虫とは異なる待遇を余儀なくされる。理由なき虫種差別であると憤る者は数少ない。だれもゴキブリの味方になろうとはしない。これは殺虫剤メーカーの陰謀ではないだろうか。日本でバレンタインデーがチョコレート製造メーカーの陰謀で、チョコレート贈答記念日のようになってしまったように、益虫でも害虫でもなかった永世中立虫のゴキブリが何故か極悪人のようになってしまったのは陰謀以外のなにものでもない。ゴキブリが存在することで、様々な殺虫剤メーカーが多種多様にわたる製品を市場に供給している。その売り上げは数億円を超えるであろう。そして日本全国で数万人の従業員は殺虫剤関連企業で働いているとすれば、この嫌われ者たちは景気後退の日本において数万人の雇用を創造している影の功労者たちであろうか。まさにゴキブリ万歳である。この世界からゴキブリが消えたとしたら、一体どれだけの企業が影響を受け、どれほどの従業員がリストラされてしまうのだろうか。帝国データバンクさんにでも試算してもらいたいものである。話がそれてしまったが、このように考えるとムカデを殺してしまった自分の行為が正当化されてくる。ゴキブリを殺すのは申し訳ないが、刺されると腫れあがるムカデの方が、ゴキブリより攻撃を受けるリスクが高いので死んでいただくのは当然である。正当防衛と言えなくもない。刺されて痛い思いをする前に、先手必勝で攻撃せざるをえなかったと自分自身を納得させた。いくら平屋の粗末な建物とは言え、家宅侵入してきたムカデの罪は罪である。死刑を宣告する前に、執行してしまった。死刑廃止論者は殺虫剤は購入したことも、使用してこともないのだろうと思わずにはいられない。

家族旅行(2)

2010-08-17 22:40:55 | 旅行
旅行二日目の朝、息子が部屋で寝ている間に妻と早朝ウォーキングに出かけた。宿泊したペンションはいわゆるペンション村と呼ばれる地域に建てられたものではなく、付近には地元住民の民家らしきものが点在する。その隙間を埋めるように別荘風の建物、プチホテルやオートキャンプ場が広がる。農家の周囲にあるのは農地といっても雑木林の間に挟まれた小さな畑でしかない。目についたのは背丈の大きく伸びたトウモロコシ畑だけで他には豆類、かぼちゃ、サツマイモと様々な野菜が絨毯模様のように作付けされていた。ペンションを離れ、坂道を下ったところに水田が広がっていた。日本全国どこに行っても田園風景からは逃れられないようである。山道を下った大きな通りには、観光施設がところせましと並んでいた。さすがに避暑地那須高原である。トリックアートの館も3か所に増殖していた。○○美術館やら△△博物館などのカラフルな看板が通りに目立つ。看板さえなければ目の前に広がる田園風景は、今住んでいる社宅の周囲と何ら変わりない。避暑地にきているにも関わらず、気温がさほど低いとも感じられないが、早朝の高原らしいすがすがしさを感じながら散策を楽しんだ。朝食後は、テレビを見ながら部屋でのんびりと過ごしたが、お陰で那須岳ロープウェイへの出発が遅れた。ペンションを出たのは11時を回ってからだった。ロープウェイ駅の到着は昼頃になりそうであった。

家族旅行

2010-08-16 23:43:36 | 旅行
お盆休みを利用して恒例の家族旅行に出かけた。義理の母が胃癌であるかもしれないとの連絡があり再検査を待っている状況下で、妻は今回の旅行をキャンセルするのではないかと思っていた。以外にも妻の反対もなく、那須高原への旅行は予定通り行われた。ただ出発時間は予定より大幅に遅れ、車が家を離れたのは時計が10時半を回ろうとした頃であった。今回の旅行では最初から高速道路の使用は計画になかった。高速道路の渋滞でいらいらするくらいなら無料の一般道をひた走るのが精神衛生上良いのではと思ったからである。宿泊先はフレンチのフルコース料理が夕食となるGUSTHOF那須花というファミリー牧場近くのペンションにした。この時期の温泉ホテルは宿泊料金が値上がりするのと和風の温泉ホテル宴会料理には辟易したからでもある。海なし県のホテルで新鮮な魚介類を食べようなどとは思わない。栃木和牛と偽って輸入牛肉を食べされられる心配もない。那須高原には多くの牧場があるはず、地元の食材には事欠かないであろう。今回予約を入れたペンションには貸切の家族風呂が4つもあり、それぞれ異なった趣の温泉風呂が楽しめるということでかなり期待していた。幸いにも大きな渋滞に巻き込まれることもなく、3時間余りで那須高原に到着した。出発時間が遅かったこともあり、初日は観光地に立ち寄ることもなく、マクドナルドで軽く昼食をすませた後に1時間ほどテニスで汗を流すことにした。ラケットは持参したのだが、テニスボールがないことに気がつき、マクドナルドと同じ敷地内にあったスポーツショップで最も安いボールを1袋購入した。12個入りで985円とダンロップやブリジストンといったブランド品と比較すると格段に安い。遊びで使うボールには十分すぎると思われた。予約もなしに立ち寄ったTOKOというテニスコートであったが幸いにもコートに空きがあり、午後2時から3時まで使用できることになった。空を見上げると今にも雨が降り出しそうに曇ってきていた。山登りをするつもりで、ハイキングシューズを履いてきたことを後悔した。妻はスニーカーを準備してきており、車の中でT-シャツに着替えるとともに靴も履き替えてしまっていた。テニスはしないと言っていたのに準備だけは怠らなかったようである。曇ってはいたが、高原にもかかわらず気温はさほど低くない。少し体を動かすだけで、びっしょりと汗が噴き出す。重い靴のせいで当然のようにフットワークは軽くない。重い足を引きずりながら右へ左へと飛びながらラリーを続けた。とても試合などできる様子にない。ウォーミングだけで終わってしまい残念であった。終了間際に、ポツポツと雨が降り始めた。このテニスコートから宿泊先のペンションまでは車で5分程度であった。テニスコートを後にして、右側にオートキャンプらしき風景を見ながら車を進めると、あっという間にペンションに到着した。ペンションの反対側は道路を挟んで空き地となっていたが大きな庭石のような岩がところ狭しと並んでいた。片隅にはダンプカーが1台止まっている。業者の車であろうか。ということは、石屋さんの置き場でもあるのだろうか。置き場とは言っても無造作に岩が積んである訳ではない。ある一定の間隔で並んでいるようにも見えた。ディスプレイしてあるのだろうかとも思える。最初の一日は、1時間のテニスと貸切温泉風呂で終了した。