TAKE-LOG 竹ログ

三河地棉と和棉の違い

浜松市ヤマタケの蔵の壬生織教室の生徒さんの関係者が

ベトナムの学生たちと交流があることから三河地棉と崑崙人について

調べてもらえることとなった。

 

私は、三河地棉と崑崙人の由来を知るためにいろいろと探ってきました。

天竹神社と朝廷の記録では崑崙人となっていて漢字を使われていること

日本に向けての海流の経路から考えるとベトナムが考えられるので

中国、台湾、タイ、から来て手織り体験者に聞いたところ、

”崑崙とはベトナムのことではないか”、という意見が濃厚になって来たが

だがその確証はまだないがベトナムは歴史上中国の属国であった時代があった。

大学の先生に打診してみたが10年経ち、諦めていましたが、

今回ベトナムの学生さんに資料を送って調べて貰うこととになった。

 

原産地がベトナムであっても現在まで[種]として残っているか

定かではないが、興味ある展開に期待している。

 

日本の棉の伝来は西暦799年に愛知県西尾市福地に

小舟に乗った青年が棉の種が入った壺と、一弦の琴を

持って上陸してきた。

そして村人に棉の栽培法などを教えた。

それを知った朝廷は京都に招聘して調べた結果、

通訳を経て青年は崑崙人だという、

朝廷は崑崙人に阪南において棉の栽培をさせたが

その後その棉は絶えてしまったと記録されています。

 (大阪で栽培した棉は絶えたとあるが、西尾市の綿が絶えたという記録は無い)

 

その後、西暦1500年代になって棉の渡来は続き、

現在各地に栽培されている種類は和棉同士の交配が続いて

品種改良され収穫量の多いものが残されてきた

明治以降、政府の奨励もあり農林何号とかいう改良品種も

多数残っている。

 だが、三河地棉は10年以上栽培してきても地棉と和棉は

交配しないため

遺伝子としても別の品種だと考えられる。

 

 この写真は三河地棉の花である、花全体が黄色く、幹も緑色である。

葉の付け根(扇の中心)も緑のまま成長する

三河地棉の花を横から見たところ、幹も、葉も、葉脈も全体が緑色である。

三河地棉の花びらは夕方になってしおれても変色しない

三河地棉は地面に散り落ちても黄色のままである。

 

この写真は日本の和棉である。

中心が濃赤である

花の萼(ガク)の部分も赤い

和棉は夕方になって萎れるとピンクに変色する

幹も赤いのがわかる

葉の付け根が赤い

 和棉は幹が赤く三河地棉との違いがわかる

日本の和棉は幹が赤茶色をしている

 

写真左が洋棉(アップランド種)中が三河地棉、右が和棉(伯州綿)

三河地棉は毛長が9mmと小さく繊維も太く縮れが激しい。

これを見ると棉の原種に近いものと思います。

 

以上写真説明をさせていただきましたが

三河地棉は天竹神社で神事として守られてきたもので

崑崙人ゆかりの種とあってほしいと思います。

 

(絶滅危惧種の可能性もあると考えています)

 

追伸、アップランド種にも花全体が黄色いものがありますが

花も種も数倍大きく上を向いて開き、

夕方花びらが萎れるとピンクに変色します。

 

 

 

2018.07.04(水)  1,347  PV  231  IP  4,783 位  /  2,830,745ブログ中

蒲郡市の観光の中心地竹島海岸竣成苑内にある竹島クラフトセンターの主人が投稿するブログです。

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