世界中から熱苦しく・・・「ふじもん世界放学ブログ」

元「変な学校先生」私ふじもんが、ただ今世界を駆け巡っています!世界の今と僕の魂をお届けしますので、ぜひお読み下さ~い!

【感覚】

2013-05-08 14:36:41 | 自論
僕ね、人間の直感ってすごいと思うんです。

論文を書くとしたら、論理的に根拠を示して書かなければならない。当たり前ですよね。

でも日々生活をしていると、実際には「感覚」で動くことの方が多いと思うんです。



理屈では分からない、でも何かこっちの方が良さそうだ。
何だか分からないけど、ここは危険な気がする。
上手く説明できないけど、何となく好き。などなど・・・。


実際には、そんな「感覚」「直感」で、人ってコントロールされている気がするんですよね。


だから若い人には、「何となく」感じたものを大切にしてほしい。
「これだ!」感じたものを信じてほしい。
「あれ?」と感じた違和感をそのままにしないでほしい。そう思うんです。



少しだけ、僕の話。


インドを旅していたとき、あの有名なマザー・テレサが設立した介護施設でボランティアをしていました。そこは「カーリーガート」という施設で、日本語では「死を待つ人の家」とも呼ばれています。いわゆるホスピスですね。そこに入っている患者さんは、もう死が近い。せめて安らかに死を迎えられるように・・・という場所でした。

その施設に、言葉は話せないあるおじいさんがいました。

そのおじいさんは言葉を発することはできないのですが、いつも眼で何かを語りかけていました。そして、一度手を握ると、ものすごい力でギュ~ッと握りしめてくるのです。まるで、「ありがとう、もう少し、このまま一緒にいて下さい」と、語りかけているかのように・・・。

僕は毎日、そのおじいさんに話しかけていました。何語が通じるのかよく分からないけど、とりあえずカタコトの英語で・・・笑)そして何分か手を握ったあと、施設を後にしていました。


その日もいつものように話しかけて、おじいさんの手を握っていました。でも、その日は何かが違っていたんです。何かが・・・。

何が違ったのかよく分からないのですが、何かが違いました。オーラというか、眼の輝き方というか、雰囲気というか・・・。

その日のおじいさんは、いつも以上に手を力強く握ってきました。いつもなら数分間手を握ると、自然に力が抜けて、手を離して、そしてさようなら、となるのですが、その日はなかなか力が衰えないんです。


とうとう僕は、自分から手を振り払いました。

いつもと違う感覚を感じていたのですが、あまりにも長くなりそうだったので・・・そんな理由で、僕は手を振り払ってしまいました。

施設を出るとき、なんだか不思議な感覚がしました。「ただ手を振り払っただけ。」それなのに、僕はとんでもなく悪いことをしたような、取り返しのつかないことをしたような・・・。

後ろ髪を引かれるような思いと、何だか不思議な罪悪感と、なんとも言えない感覚を覚えています。


翌日、いつものようにまた施設に行きました。すると、そのおじいさんのベットが空いていました。

「あれ、このおじいさんはどこにいるの?」他のスタッフに聞きました。すると



「このおじいさん、昨夜亡くなったんだよ。」



ショックでした。

僕は「長引きそうだから」などという理由で手を振り払ってしまった。

心では「いつもと違う」を感じていた。何かがこのおじいさんにはある、それを感じていたのに・・・。

あの握手、眼の輝き、オーラ・・・きっと自分の死を感じ、僕に伝えていたのかもしれない。

それを「何となく」感じていたのに、それを振り払ってしまった。


僕は、あのおじいさんの魂を裏切ってしまった。

今でも、あのときの想いを忘れることはありません。



人間って、すごい力があるんだと思います。「あれ?」とか「これだ!」という感覚というか閃きというか、やっぱり直感なのかな?というものには、人間は五感を超えた能力で感じ取っているものが絶対にある。

だから僕は、すごく「直感」を信じています。

魂が感じたものは、きっとそれがあなたの道です。そこに何かすべきことがあるんです。魂って、すごい力がある。だから直接、ビビビッと教えてくれるんです。

「直感」で感じたものには、きっと何かがあります。それは良いことかもしれないし、悪いことかもしれない。でも、何かいつもと異なることがあるから、魂が感じているんです。その感覚を大事にして下さい。

その力は絶対誰にでもあるものです。だから僕は、何か心が揺さぶられたときは、魂を落ち着かせ、魂に聞いてみるんです。「なぁ俺、どうもう?」と。そしてその答えに、僕は素直に従います。

だからもし「なるほど」と思った方がいらっしゃいましたら、ぜひ一緒に「直感」を大事にしましょうね!笑)



ふじもん

【今いる場所が、本当は望んでいる場所ではないと思っているあなたへ】

2013-05-05 23:30:50 | 自論
「選手としては未熟なのかもしれないけど、あなたのレッスンは人を幸せにしてくれる。私たちはあなたがインストラクターで、本当によかった。」



今が上手くいっていないと感じても、今やっていることが本当はやりたいことではなかったとしても、今自分がいるその場所で、必ず輝ける。

そしてその輝きが、道を照らしてくれる。「今」を輝かせてくれる。僕は、そう思うんです。



少しだけ、僕の話。


この前も書きましたが、僕「ハナクソスキーヤー」でした。ハナクソ過ぎて、スキースクールのインストラクターなのに、レッスンすら持たせてもらえませんでした。うん、まさに「ハナクソインストラクター」ですね!笑)

「これじゃアカン」と、僕はあるシーズンに所属のスキースクールを変えました。白馬から心機一転、新潟のスキー場へ。

幸いなことに、ここでは「レッスン」を持たせていただけました。でも、僕の目標はあくまで「トップ選手」。本当は、メッチャ上手いお客さんをバリバリ教えて、自分自身も全日本でバリバリ活躍して・・・ってのを夢見ていました。

でも、繰り返しますが僕は「ハナクソ」。全日本でも活躍なんて、雲どころがオゾン層の上。エキスパートのクラスなど持たせてもらえるわけがありません。


いや、それは当然なんです。当たり前の話です。でも、僕は自分自身が悔しかった。自分自身が情けなかった。

「違う、俺はこんなじゃねぇ。こんなはずはねぇ。」よく心の中で叫んだものです。

でもね、「こんなもん」なんですよ。だって、下手なんですから笑)どう考えても。


上司からも、キツイ言葉をよくもらいました。その度に「畜生・・・」ただそれだけが頭を過ぎったものです。

でも、スキーを教えることは本当に大好きだったんです。だから、屈辱感はありながらも、レッスンは大好きだった。特に初心者のお客さんが「すごい楽しかった。スキーって面白いですね!」と言って喜んでくれるその瞬間は、本当に嬉しかった。だから、レッスンの仕方は一生懸命勉強した。技術論だけでなく、いかにお客さんに楽しんでもらえるか、また「スキーをしたい」と思ってもらえるか・・・。


そんな中、僕のスキー人生を変えてくれる、あるお客さんに出会った。

その方は老夫婦で、スキーは初心者だった。僕はいつものように、熱心にレッスンをした。とても気さくな方で、僕の思いも色々語らせてもらった。一日のレッスンが終わるとき、その夫婦は、僕にこう言ってくれた。


「選手としては未熟なのかもしれないけど、あなたのレッスンは人を幸せにしてくれる。私たちはあなたがインストラクターで本当によかった。」


その言葉は、僕にとって一生忘れられないものになった。

急に、僕の目の前は開けた。

なんだか、今やるべきことが見えた気がした。

「俺は選手としては下手かもしれない。でも、このスキーの世界で、俺にだってできることがある。」


僕は決めました。

「初心者のレッスンで、俺は花咲く。エキスパートは教えられないかもしれないけど、「またスキーに来たい」と、1人でも多くのお客さんに思ってもらうんだ。」と。


すると、見る見るリピーターが増えたのです。プライベートレッスンを担当したときも、僕を指名してくれるお客さんが急増しました。それと同時に、周囲の見る目も変わっていきました。


本当は、目指していた場所は違ったのかもしれない。本望ではなかったのかもしれない。それでも「今」置かれているその場所で、全力を尽くす。

その覚悟が、僕の生き方を変えてくれた。たとえ「望んだ場所でなくとも」そこでの全力を尽くす。腐らず、諦めず、やれることを全力でやる。その大切さを、僕に教えてくれた。



僕の心を開いてくれたお客さんは、最後にこう言いました。

「明日のレッスンもあなたを指名していいかしら。よろしくお願いね。」



ふじもん

【「一生懸命」は全てを救う!単純で明快な真実。】

2013-05-01 22:21:25 | 自論
公立学校の教員という立場から離れて1ヶ月。「いいじゃん、やってやれよ!」と言う人もいれば、「へぇ~・・・。」と言う人もいる。まぁでもそんなことはどうでもよい。否定する奴はすればいい。認めてくれる人は認めて下さい(笑)。いずれにしても、自分の立場は変わらないのだから。

そうは言っても、自分でも思い切ったことをしたなぁとは思ったりもする。賭けと言えば賭けなのだろうが、上手くいく気しかしない。負けるイメージが全く湧いてこない。根拠は?と言われても何もないのだが、勝てるイメージしか湧いてこないのだ。

何でだろうと考えてみた。それは、今までの自分の人生が自分を支えてくれているんだと思う。

その1つが、学生時代のアルバイトにある。

僕は学生時代、ずっと読売新聞の営業マンとして働いていた。基本的な時給はあるのだが、契約を取れば取れるほど時給は上がっていくというシステムだ。出来ない人間は当然クビを切られる。普通の学生アルバイトでは経験するのが難しい、まさに実力主義の世界であった。

この仕事が僕を支えてくれた。営業をしていた4年間、僕はずっと関東トップクラスの成績を上げることができた。

妬まれることもあった。この仕事は駅でその日のバイト全員が待ち合わせをし、販売店まで移動してお店から指示を受けて営業にでるのだが、僕のことを無視する奴もいた。まぁ、でも関係なかった。僕はお金のためにこの仕事をしていたし、内心「別におめーらなんかとつるみたくねーよ、ボケ。」くらい思っていたりもした。

特に何の訓練を受けていない。いきなり、「さぁ行ってこい」だったのに、なぜそんなに上手くいっていたのか。僕の時給は3000円を超えていたし、それ以外の賞与的な収入ももらえていたので、時給に換算したら4000~5000円くらいいっていたのかもしれない。1日で平均3~4万円の収入になっていた。

上手くいった理由。それは、一生懸命やっていたことに尽きると思う。

僕はとにかく一生懸命家を回った。一生懸命話をした。「○○時に来て」と言われたら、必ずその時間にお伺いした。断られても、必ず笑顔でドアを閉めた。一度断られた家にもう一度行くこともあった。それしか術がなかったのだが、それが最高の術だった。特別なサービス品があるわけでもないし、とにかく熱心にお伺いするだけだったのだが、一生懸命は相手の心に通じてくれた。

もちろん長く続けていくうちに、小ワザも身に付いてはいった。ドアオープンの仕方とか、受け返しのポイントだとか。でも結局は、一生懸命以上のコツなどなかった。

この経験は、僕の大きな自信の1つになっている。「一生懸命は伝わる」という、化石になりそうな月並みの言葉のようだが、それは間違いないと確信したのだ。そして、その一生懸命の気持ちこそ、全てのベースであると。だから僕はそれ以来、全てに一生懸命であろうと決めた。嫌なことでもとりあえず一生懸命。そしたら何とかなるもんだ。

今、僕は一生懸命だ。だから、眼に見えない何かが、僕を救ってくれる。僕を色々な素晴らしい人々、素晴らしい世界と繋げてくれる。勝手にそう思っている。いや、確信している。根拠?ないです、直感です。でも、幸せな未来しかやってこないと、僕の遠~く上の方の何かが、そう語ってきてくれる。

「一生懸命」。泥臭くていいじゃない。僕はこれからも、這いつくばって「一生懸命」生きていく。

~日本の教育を改革しようvol,8~

2013-04-30 13:26:30 | 自論
先日、東日本大震災に関するある勉強会に参加してきました。

その中で強く感じたことがあります。

これは教育の枠を超えて、

今後の日本全体を考える上でとても大事なことだと確信してます。


それは「部分最適と全体最適」のバランス」について。


ある専門家の方が、

「防災教育をすべての学校にもっと広めなくてはダメだ」

と言いました。

そうなんです、それは間違いない。

しかし学校現場にいた私からすれば、

それは理想論なんです。

なぜか?

誰がそれ、やるの?

ということ。



以前別のところで、性教育の充実を訴える方とお会いしたことがあります。

「学校でもっと性教育をしっかり行うべきだ。」

そうなんです、それは間違いない。

でもそれ、誰がやるの?

「担任の先生がもっと勉強して・・・」

とその方は言ってました。

私は反対です。

それは無理です。

いや、無理じゃないかもしれませんが、

絶対充実したものにはならない。



ご存知ですか?

学校の先生って、あくまで「教科指導の専門家」

として雇われているんです。



専門的な方が訴える課題そのものは間違いないんです。

その「部分」は間違いないんです。

しかし、教育全体、とりわけ学校の「全体」と考えると

それは悪にすらなってしまう。

何度もブログで書いてきたように、

学校の先生方は、多岐にわたる業務を「こなしている」現状があります。

その中で、これ以上「部分」を、しかもそこに更なる専門性を求められることは

ハッキリ言って無理です。


専門家の方に悪意などないことはとてもよく分かります。

その「部分」の教育が必要なのは、非常によく理解できます。

しかし、部分部分だけの足りないところを見ていては、

問題はこじれるだけで、絶対に改善しません。


必要なのは、全体を俯瞰することです。

人間の身体の健康と同じですね。

全体を見て、どこがいけなくて健康そのものが害されているのかを理解しなくては、

本当の解決には繋がらないでしょう。


あれが足りないからこれを足そう、

あれが良くないからあれを変えよう、

とやっていては、何にもなりません。


学力が足りない?じゃあ週6日制だ。

生きる力が足りない?じゃあ総合学習を入れてみよう。

いやいや、そんな場当たり的じゃダメなんです。


今の日本の教育には、全身治療が必要です。

部分部分に付け足しをするだけでは、無意味です。

システム全体に、メスを入れる必要があります。


時間はありません。子ども達のために、

皆で教育を本気で見つめ直さなくてはいけない時が来ているのではないでしょうか。



すべては子ども達のために

ふじもん


~卒業~

2013-03-20 01:44:47 | 自論
色々ある学校現場。

でも、卒業式をむかえると、細かいことは吹っ飛びます。

純粋に、子ども達の成長と活躍を願う。

自らの人生を切り拓くことを切に願う。

今の学校のシステムや現場に疑問がないわけではない。

しかし、そんなことはさて置き、子ども達の幸せを心から願う。

式後の最後の学級活動。

次のようなメッセージを残しました。


これから先の人生の中で、あなたが何かに挑戦しようとするときに
『あなたには無理だよ』と言ってくる人がいるでしょう。
その人の言葉に耳を傾けてはいけない。
マイナスの言葉にエネルギーを傾けてはいけない。
あなたがその挑戦に諦め、自ら止めない限り、必ず実現するのです。
想いは必ず現実化する。そのことを信じて下さい。

あなたはこれから先の人生の中で、何度も何度も壁に突き当たることでしょう。
しかしその壁はあなたを止めるために現れるのではなく、
あなたの意志が本物かどうかを確かめるために現れるのです。
ピンチは自らを成長させてくれる、最高のチャンスなのです。
ピンチこそ最高の師です。ピンチを楽しんで下さい。

そしてあなたは、幸せになるために生まれてきたことを、決して忘れないで下さい。


卒業式から5日が経ちました。

こんなに可能性のある子ども達を、私たち大人はどう育んでいくべきか。
常に考えさせられます。

自分の信念。
「教育改革なくして日本も世界も変わらない」

こんな素晴らしい子ども達の人生を無駄にさせないためにも、
教育を考えていかなければならないと強く思います。

足元から一歩一歩。
できることから少しずつ。


すべては子ども達のために

ふじもん