ことばにならない風の声

今日もどこからか風はやってきてやがてまたどこかへいくだろう。
何に向かっているのか己でさえもわからずに、、。

眠れない夜。

2011-11-28 14:13:37 | 日記




眠れない時ってとことん眠れない。

そりゃ眠れないって言ってるんだからとことんも何も眠れないに違いはないんだけど。



なんで眠れないんだろう。

眠りたいとは思っているけど、頭の中でごちゃごちゃずっと何かもんもんしている。

そのせいでごろごろ寝返りばっかうってとんに眠れやしない。







私がまだ小学生とかそれ以下とかそこらへんのとき、甲府のおじいちゃんおばあちゃんちに年に1回は家族みんなで泊まりに行っていた。

泊まりに行くのはとても楽しかったからすきだったのに、なぜかいつも甲府で泊まる夜は同じことを考えていたのを覚えている。



死ぬということについてなぜか毎度考えててみんなが寝ている中、ひとりこわくなって泣いていた。

目の前の棚の上に置いてあった侍かなんかのでっかい人形がさらにこわさを倍増していて。




それで久しぶりに昨日もそんなことについて考えていたんだ。

死ぬって何がこわいかって、周りの大切な人たちが死んでしまうこと。

その人たちが死んでしまったあとの取り残された自分。

絶対その人たちに死んでほしくないとか思っていた、けど最近は自分もその流れに乗って死んで行くのだからまだ平気かな、とか思い始めた。



生と死は反対のことではなくて、生から始まって死に向かって行く、一本の道筋なんだ。

生の先に死がある。

うん、なんか大丈夫かな。



昔感じていた強烈な死への恐怖ってのは、なんだったんだろう。

もちろんいまだって、余命1ヶ月なんてお医者さんに言われようもんなら、苦しむに決まっているしこわくなるに違いないんだろうけど、、。

昔より大分違った感覚で考えるようになった気がする。





いくら考えても仕方のないことだけど、死んだらそのあとどうなるんだろうって考えていて、、。

私って奴は死んだら、もうこの私ってやっている私って感覚そのものが無くなるわけだから、完全に私はもう私をやれなくなるのかな。

そんなこと思っていたら、いまこうして私が私をやれていること、案外自由好き勝手に私の想いのまま私をやっていることが、なんて当たり前に見えてすごいことだろうかと思った。




私以外この私をやっていける人なんて誰一人いないからね。

反対に言えば、私は他の誰ひとりをやることもできないしね。

すごいこっちゃ。

私がこんだけわたしわたしできるのもこの私だけか、、。






まぁなんかそんなこと考えててごろごろ寝返りうって、、、はぁ。

眠りたいんだけどなぁ。

自分がようわからんぜよ。





眠くなって眠るってのがないのは、なんだろ、運動不足でっか?

ゼミの先生に相談していたら、何に緊張しているの?とか言われちまって、そうなのかしらと、全然自覚ないからね、こまるんだな。

原因がわからんのじゃ。









そんなんで、この間ジッカから届いたお菓子やら。

荷物やろうと思うんだけど、って言っているときは母も

『お菓子いっぱい入れといたから~』

なんて言っていたのに、いざ荷物が私の手元に届いたとなると、

『太らないか心配だわ』

なんておっしゃっていて、おーおー、太るに違いないぜ母さんと思いました。



けんど、こういうものがあるとなんかこう贅沢~な気分?ゆたか~な気分じゃない。

ありがたやありがたや。





くるり。

2011-11-22 02:21:31 | 日記




くるりのライブに行ってまいりました!


私はくるりのライブに行くのは初めてのことなんだけど、いんや~よかった。





音楽

文字通り、彼らはとってもたのしそうに音楽をやってました。

そのやっている姿、笑顔がとっても印象的で、とってもよかった。



しかもなんと演奏している彼らとの距離はわずか10メートルほど。

こんな間近で見れて聞けて最高でった。



今日1日で彼らのことがもっと好きになった。

それくらいあの顔や声はぐっときたなぁ。



ふっふーい。

たのしかったー。









ふむむむ。

2011-11-13 20:24:20 | 日記







前の記事「唸ることしかできない」にて書いていたこと。

改めて付け足しを。



あんねぇ。

なんちゅーか、、。



ラーメンを寝る前に食べてはいけない、なぜなら身体に良くないから。

人の本を勝手に盗んではいけない、なぜならその人に迷惑をかけるから、人に迷惑をかけるのは悪いことだから。



これはある人にとっての、良いことと悪いことである。

誰かにとってもこれは当てはまるかもしれなければ、当てはまらないかもしれない。






価値観と呼ぶのか、道徳観と呼ぶのか、人にはそれぞれのそれぞれにとっての価値観や道徳観がある。



例えば、極端な話。


家系がずっと盗賊である家の息子が、昔から盗みを仕事としてやってきたとしよう。

その息子と平々凡々な家で育った私(私は盗むのは良くないぜ~捕まってまうぜ~そんなの嫌だぜ~、なんて思っている)が”盗む”という行為の善悪についてお話をしてみようものなら、多分会話はうまいことトントン拍子には弾まないと思う。


うまいことトントン拍子にって言うのは、何と言うか、お互いがそうそう!そうだよねぇと納得しあえたり、共感できたりってことを指すとして。


なぜなら、彼にとっての”盗む”という行為は仕事と同等になり得る行為、言わば人間が生きるのに必要となるお金を稼ぐという行為そのものなのだから。

大変なことでもあるし、必要なことでもあるし、、彼にとっては盗むことは悪いことと言うよりも大切なこと、と思えるかもしれない。


すると、当然噛み合ないわけで、その噛み合ないのは価値観や道徳観が違ってってことだと思うんだけど。





ふむむむ。

つまり、それぞれの持つ、考える、善悪や価値観、道徳観はそれぞれの生まれた境遇や教育、いままで出会ってきた人たちとのかかわり合い、など、

そういった私を私と呼ぶようになってきた自分と他者との関係そのものから育まれてきたもので、みんながみんな同じような考えを持っているわけでない。


多分そんなことはみんな痛感していることで、なんでこの人これをわかってくれないんだろう、とか、なんでこの人こんな考え方するんだ、とか。


その自分と他者との違いを楽しく感じれる時もあれば、それをとっても不快に感じる時もある。



他者と気持ちを分かち合う、とか、人を思いやる、とか、あるけれど、それってとっても難しいこと。





自分とは異なる他者の意見や想いを聴くことができる人はいるだろうし、その異なることばたちを自分の中に受け入れることができる人がいるかもしれない。

それを寛容な人と呼ぶのかもしれない。

受け入れることができなくても、受け入れようと努力する人もいるかもしれない。



もしかすると、そんなこと全く気にしたこともなくて、自分の想いばっかり先走っている人がいるかもしれない。

そんな人は思いやりのない人だと思われているのかもしれない。





そんなふうにたくさんの人がいればいるだけのたくさん通りの考え方や価値観やらやらがある。


それで前の記事の話に戻れば、私はラーメンを夜寝る前に食べるのはいけない、ということについて、
私は食べたいときだってあるし、それは確かに身体には良くないかもしれないけれど、それをわかっている上で食べたくなる時だってある、
そんだからそういうときは食べてもいいじゃないか、食べることでそのときあ~おいしいなぁ、ふふふと笑えるなら良いではないか、
そこで我慢して食べないよりは良いだろう、

もちろん、身体にとって良くないからということで食べるのを我慢するのも良いだろう、それはその人の考えだから。


だけど、それを人に押し付けて身体に良くないから食べるのはやめなよって止めることもないんじゃないか、
もっとその人の気持ちを分かち合おうとしようよ、
身体に良くないというのはわかる、だから私を想って止めてくれているやさしさも感じる、
だけど、ごめんだけど食べたい、だから食べる、この気持ちもわかってほしい、、



と、こんなことを結論として出したんだ。

もっとわかりやすく言うと、人の気持ちはそれぞれあるのだから、それぞれの想いを思いやってわかり合おうとお互いが努力することが大切なのでは、、と。




そうまとめたのだけれど、、、。

私自身では考えつかなかったこと!!!!



それは、私の『それぞれがわかり合おうと努力することが大切』ってこの自分の勝手な想い、考えを私は平然と他者に押し付けていたのに過ぎなかったんだ。

正直うわっ!!!って驚いてしまったのだ。

自分ではそんな自覚が全くなかったから。

私はこの考えが正しいとゆるぎない自信でもってみんなに押し付けていたのだから。


いやぁ~こわいこわい。


正しいと自分が思っていることって平然とさもそれが”本当に”、”絶対に”、正しいことと思ってしまっているものなのだ。



ということを改めて思い知らされてですね。




そんで、逆にどうやったら自分とは異なる考え方を持つ人にその考え方を変えさせるのか、、。

これまた難しいねぇ。


これこそが精神的に患っている人を治すときに使う戦法、論理療法なのだ。

行動療法とも言うらしいけど。


有名なあの養老孟司さんも自分が鬱になったときに、病院や薬での治療は全く当てにならずで、
終いには自分で論理療法の本を読んで治してしまったのだとか、、。


論理療法の場合だと、考え方そのものを変えるから治ったら治るのさ。
他の治療だと、例えば薬とか、一時的にその気を紛らわせてるだけにすぎないそうだから、やはしこれがいいのだとか。

けんど、この考え方を変えるっては簡単に言ってはいるけどとっても難しいことで、、。

てなことなのさ。


そんなんで、このゼミでの話題は一時終了したのだな。


わかりづらいだろな。



ふむむむむむ。













このごろ。

2011-11-13 19:34:27 | 日記




はてさて、新しく始めたバイトの4連勤を終え、今日はゆったり日曜日でした。






4日間の大学祭も無事終え、11月も半ばに差しかかろうとしておりますね。

早いなぁ。


大学祭では今年から始まった出店甲子園とやらにて、初代チャンピオンになってしまい、嬉しいかぎりですたい!

売り上げがではなくて一般投票でね。

これって味がいいってことでっしゃろ。


やったやーん。

がんばった甲斐があったねてなもんで結構チーズケーキ作るの苦労するのですね。

よかったよかった。




てなことで、2日間のライブも例年以上に構成や演奏の魅力が感じられたようで好評だった模様です。

ライブに出なかった私は司会と照明をもう一人の子と担当させてもらって、それに尽くしました。

案外緊張感持って楽しめてやれたのでよかった。




そんなこのごろ。

















あき、そして、かき。

2011-11-05 00:38:05 | 日記



柿、、。

これは、おいしいなぁ。

しみじみ思うなぁ。


秋は柿ですなぁ。





スーパーで買おうかとしばし考えるけどやっぱり高いから買えない柿。


それが、昨日ジッカからの荷物の中に入っていたのだ!!!!



私は改めて、あたしゃ柿がすっきやわぁと思った。

果物の中で一番好きかもしれない、、。


と思ってしまうほど、すきだ。



あの食感とあの味。

固くもやわらかくもあって、甘い。

一番好きな部分はなんといっても種の周りの半透明のこりこり?ぷるぷるのところ。


あこがおいしいのなんのって。

そして、柿は皮がむきやすいし、すんばらしい果物である。



ただいま絶賛大学祭中でありまして、ここ数日みなさん眠く疲れる日々を送っています。

たのしいんだけどね、いろいろ大変なこともあるものだしね。

ちょうど新しいバイトを始めだしたのとかぶることもあって、気持ちに余裕がないのかもん。



けど、やっぱりたのしいかな。


またその報告をせねばと思うのであったー。











ちなみに、私のサークルではチーズケーキを作って売っているのです。