ことばにならない風の声

今日もどこからか風はやってきてやがてまたどこかへいくだろう。
何に向かっているのか己でさえもわからずに、、。

ちょちょいちょい。

2015-01-31 11:45:49 | 日記



新年明けてます。
あけましておめでとうございます。
おそーいごあいさつで失礼いたします。

またこうして一年を迎えられるというのはありがたいですね~。
日にちも時間も1年もなかったらなんか、だぼん。

はるなつあきふゆあるのもありがたし。
今は冬、雪が降る、こんなうれしいことはない。
白い雪がうれしい。
これが他のどの色でも困る。
もしかするとはじめから黒でも赤でも緑でも紫でも

いい雪よの~もっとふれふれ

なんて言えたのだろうか。

雪がしろで、土や木が茶色や赤で葉がみどりきみどりであかできいろで
空が青くて雲がしろくて灰色くて黒くて、雨が透明なやつで、
そんなそんな世界におれることがすっご~と
ごくごくたまーに、身体の奥からうれしい~と思うときがある。


何を書こうとしたのだっけ。
とにかく1月ももう最後の日、早いね。
それだから書こうと思ったのだ。

自分が思っている以上に何かかにかおもしろいことも
びっくりすることもおそろしいこともかなしいことも
なんもかんも、自分が知っていたり思い込めている以上が常にあり続ける。
そんな何をもって全体とも言えない全体の中の限りなくこまかいところで
わたしはものごとを考え言ったり周りのものと一緒に暮らしている。
けど全体と言っても全体は存在しない。
このみんなみんなの”わたし”の範囲のこまかさが
連なり重なり解け合ったり混ざりあっての全体なのだろう。
わたしはわたしでその範囲を広くしたいと思ってやったり
わたしには及ばないところから突き破られたいとも思う。
これは高橋源一郎のことばからそんなことを思ったのだった。










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2015-01-20 11:08:58 | 日記



書きたいこともなく、書こうとも思えず、そんなんで2015年に入っているようです。

新年、あけましておめでとうございます。

このブログも始めてから何年ほど経つのかな。

案外長い。

毎日書くこともしないから続けるのは容易いのだった。

こういう公の場でもあるところで文章を書き、誰かに読んでもらったりしている。

なんてこともむかしじゃ考えられなかったことで、それをあまり思わずとも

してしまっている当たり前さを持っている。おかしな文?


けど誰か読んでくれていると思うから何か唐突に書きたいと思って

書かせてもらっていることにどうもありがとうである。

おかげで自分でも自分のちょっとした内面事情にさかのぼって伺える。

日記とは違ってそれなりに気をつけているつもりらしいからまたおもしろい。





ここにいるとちょっとしたごはんの買い物は車で30分のところで、

冬になると雪のおかげか出ることもいつもより少なくなる。

しかも大工の兄が日曜休みの日に買い物に大抵出るからわたしが行く必要がない。

となると、ほっんとうに家から出ていない。

そんなにひきこもって何をしているんだというと、これといって何ってことはない。

本を必死に読むわけでもないし、とにかく基本的に何もない。

これがいわゆるニートとかいう奴だろう。

一言でいうと贅沢なことだ。

ごはんはうまい、寝床はある、犬猫のあそべる(?)仲間もいる。

私にはこうやって帰れる場所があるってのがまずすごいことだ。

それを許す家族がいる。大抵帰れないし家族だからといって一緒に暮らせないのだから。

それが1年以上となるとまたこんなことはよっぽどの人じゃないとできないかもしれない。

私は多分自分が思っている以上にちゃらんぽらんなのだろう。

だから普通はこの年で親と暮らすって嫌じゃない?やら暇だろうやら

もっと言えば恥ずかしくないのか、とかそういうことにもなる。

それは当然私もそんな質問がでてくるのはそうだろうと思える。

そういう意味では私の中でもその恥ずかしさや甘えているということに対して

何も思わないわけではない。

恥ずかしいしなんだかみんなに顔向けできないなんて思っているところもある。

だが、そうは言っても現にこうしていることがちゃらんぽらんなんだなと思う。



しかし自分で言うのもなんだけれど、ここに来てから自分がなんにも

世の中の色々なことをなーんにも知ってもいないし、考えてもいないし、

まったくの無知に等しくて、そういった色々を含めて自分はどういう暮らしをしたいのかと

思えたことが自分にとっては大きいのだった。

大学が終わるころは高校までってなんにも知らない何一つ考えてない奴だったなと、

思いもしてたけど、大学で培ったことというのはどちらかというと、

世間的な社会的な感覚を肌身で感じれたということだと思っている。

こんな田舎も田舎、山の中の親元を離れ、はじめて街の中で一人暮らしをし、

アルバイトを始めたことで感じた労働の身体に気合いが入るあの責務感や

逆にあの違和感、こういった労働はアルバイトでしかできないななんて

簡単にそう思ってしまっていた。

あとは友だちと遊ぶということの醍醐味だろうか。

何があるわけでもなく、一緒にいるあの妙な安心感や幸福感。

そういったものを感じれたのが大学のころだったように思う。




ここの暮らしにまた戻ってきてから親を含めここの人たちと話してきて、

もう少し現実的にものごとが自分の中に入る、そんな余裕を持てたというのか、

そんな空間を持てて、そういう自分をもっと広げたり深めたりしながら

暮らしていくのだろうと思っている。

それはここにいてこそ思えたちゃらんぽらんならではの培い方かもしれない。