ことばにならない風の声

今日もどこからか風はやってきてやがてまたどこかへいくだろう。
何に向かっているのか己でさえもわからずに、、。

畝うねうね。

2018-04-21 20:26:49 | 日記



本日はお日柄もよく、心地よい風が吹いておった。

今日は、夫くんばお葬式に出向き、あたしゃ家に残り農作業しておった。

家が少し道からあがったところにあり、そこの境内の中でも小さな畑をやってもいるが、去年から前田んぼやったという空いた土地を借りて畑をしている。
家から少し下るとある。

そこの畑は去年はだめだめやった。
というのも、近くの方からネットも借りて、自分で竹を切ってきて竹とネットで鹿除け対策にして畑をぐるりとやっていたんだけども、竹はなかなかうまく地面に入ってなかったんやろう。
鹿に侵入せられて、なんもかんも、じゃがいもの芽まで食べられた。


今年はまたネット借りてる方に相談したところ、鉄パイプあるから切っていいよ、と。
早速切らせてもらって、鉄パイプも用意済みだ。

ほんとこの人、昨日の蓮根の人でもあるのだけど、なっかなか色々とお世話になっている方で、彼らも畑も田んぼもやっていて、全部無農薬、ほぼ無肥料らしい。
肥料言うて有機のものである。
暮らしぶりもなかなかで、ほとんど自給しているね。
お肉もこちらならではの、鹿肉、イノシシ肉なんかだし。
お醤油から焼酎、みりん、味噌、もちろん大豆から小麦から、であるから、なんでもご自分たちでこしらえる。
なかなかこんなに徹底して、と言うのは変かもだけど、自給されてる方には出会ったことがない。

とにかく、暮らしぶりは質素である。
なんともなんとも、こんな生活されてる方がいるのかと思うよ。
けど、そういう方のさっぱりとしながら、本人たちが暮らしを着々と?してる感じがうれしい。
なんというか、ほんとにほっとするものがある。



で、今日の畝立てである。
ひとりで意気込んで、2畝はやったるでい、と思っていた、が、なかなかやったぁ。
そこの地面耕耘もされてないから、まず自分で耕耘せなあかん。
あーほんと耕耘機があったらさぞかし便利だろなぁとほとほと思ったよ。

とにかく、固くなってる地面をまずは丸スコップで掘り掘り。。と、言っても固くてそう容易く掘ることもできない。
一カ所で段々深く入れてと、3回は掘り上げてる。
それが一列6〜8カ所ほどあって、それが何列かー。
50ぐらいあるのかな。
そうやってスコップで地面をほぐしたあと、次は鍬でざくざくと土を細かくしながら掘り返しながら土を起こす。
これがひと畝分。

これだけでかなり時間がかかったもんだ。

そいで、その隣でそこまでやっていたものがもうひと畝あったものやから、今起こしたのと二つ分、やっとこそ畝に仕上げた。
真ん中に堆肥も埋めておいた。


この作業が、なっかなかひとりで全部やるだけでひーこらもんで、腕がだんだんあがらなくなるし、腰は痛むしで、運動不足と、体力の無さにとほほだったのだ。

ただ、風が気持ちいいんだなぁ。
あちーって、やってちょっと体を休めてるときにまだまだひんやりとした風がぶおーっと吹いて、熱い体に気持ちがええ。



そんなこんなひやったよ。
明日は、こりゃ筋肉痛だよね〜。






れんこん。こんれんこん。

2018-04-20 21:51:13 | 日記



れんこん、とったで〜。


今日、近所の知り合いの方から連絡があり、蓮根を植えてるところをもうそろそろまた耕運したいから、残りの蓮根でよかったらあるもの掘っていいよ、と言われたのら。

れ、蓮根か!と、あの沼みたいなところに体の半分以上埋まれながら採るやーつ?
と、思っておったらば、、

全くの水なし状態だった。
ただの水入れる前の田んぼなのだ。
そこにちょいちょい芽が土から顔だしてて、そこをちょいちょい掘っていくと、蓮根あるど、ということだった。


まるで田んぼの中の宝探しだ。
掘り掘りしながらバキッてたまに傷つけながら、掘ったど〜。
結構大きいのもあって、なかなか楽しかった。

そいで、帰って、もらった梅酢と和えたら美味しい。
蓮根きんぴら美味しい。。
なんかもちもち?甘い?ねばねば?
いや〜うれしかね〜。




お寺てらてらてくてく。

2018-04-17 21:49:09 | 日記


早いもので、もう四月の半ばだ。
お寺では、昨日今日と、今年は遅めの春のお彼岸のおつとまりがあった。

お寺というのは、なかなかしんどいとこですね。
何がだろうって、どなたか坊守さんがこう言うてた。
「まーお姑さんが何十人もいるようなもんだと思えばいいよ。」

なぬー。だね。
付き合いが深まれば深まるほど、それぞれの性格やら考え方の違いをまざまざと見せられる。
それに合わせて私の性格やら考え方がまた浮き彫りになるようだ。
こんなに違ったものを持つ同士なのかーと。

なるべく主張がないようになんてやってしまうけど、どうしたって私がその場にいる限り、主張してんだろな。
なんかしらの空気放ってんだろな。


自分はどう見られてるかなってこんなに気にしたことってなかったな。
今までどんな格好しようが、どんな髪型しようが、どんな口調だろうが、それも私らしさだと思って、他人を気にして意識して変えたことってなかったな。
けど今じゃーいろんな人にいろんなところから見られて、いろんなこと言われるのだ。
髪型も私はこれでもいいけど、人から見れば「あなたその髪どうするの?伸ばすの?切ったら?」って言われる始末。
そんなに悪いかな?縛ってるしええやんけ、と思うけど、自分で自分は見えないし。


法話を聞くというのも、なんだろね。
それがどうなのかってなると、これはまた難しいだよね。
自分から聞きたいなんてまず思わないし、ましてや、お寺に参ってお話聞こうなんて、私たちの年代にはまずいないことでしょう。
いたとしたら、相当稀な方で、何かしら出会ってしまったんだろうと、想像する。
私はまずお寺に行こうなんて発想ないよね。
理由がないもの。

法話を聞いて、仏法と出会うって私にとってどういうことやろか。ひとにとってどういうことやろか。
それがいまひとつ、うーんなとこなんだよね。

やから、お寺の人と一緒になって、若い人がもっとお寺に来るには?お寺はこれからの時代、どうあるべきかって、あんまし考えれないんだな。


何かお寺を中心に考えすぎてるというか、仏法という言葉に振り回されてる感じもあるのかな。私の中に。
もう少し考えてみないとだなぁと思う。







これは最近来た隣人たち。




これをひとに見せたら、猫殺現場やないかって。
ほんとや。