王安石には《与宝覚宿龍華院三絶句》がある:
或る古くからの詩で云う:京口は瓜州と一水の間にあって、鐘山の二つ三つだけ重なった山を隔てた所にあった。春風が緑江南岸から、中秋の名月は何時また我を照らすのか。
老いて世間の汚れを追って捕まえることに疲れていた時、密に幾人かと交際することになったのだ。
私の年若い時の詩を思い起こして眺めると、鐘山は二つ三つだけ重なった山を隔ててあったことが思い起こされるのだ。
老いて世の中との縁を断ち切ろうとすると、俄に東に勤めた十数年を思い出した。
併し、京口にも当時の月があり、公と私は以前の儘の通りなのだ。公とて京口で雲水をしていた間は、何時又照らすのかと月に聞いたのだ。
偶々出会って私は更に又月に問い、何時私を照らして金山に泊まるのか?
王安石は煕寧八年(1075)二月にもう一度中書門下平章事、昭章館大学士を拝されたが、彼は其の起用を決して喜ぶことは無く、よって何首もの詩を残して、自分の意に沿は無い気持ちを表現した。《泊船瓜州》は「春風が緑の江南岸から」の一節で人々に良く知られていて、然も、更に「中秋の名月は何時又我を照らすのか」の一節では十分に彼の心中にあるものを表現していて、彼が出発する日が間際になり、或いは既に帰還する積りであることを期待した気持ちが込められていたのだ。この絶句は結論的として詩人自ら比較的満足出来た作品で、拠って後から再度此の詩を見渡すと三首の絶句に満足するのだ。王安石と宝覚とは竜華院に泊まってからも、思い出した十年前の往時の詩作を思い起こし、様々な感慨を覚えることになった。彼の晩年は人に応対することに疲れ果てていた筈だったが、世の他愛無い事は別として主として共に妙道を求めて精進したことや禅や仏教について尽きぬ談を交わしたのだが、何時の間にか十年過ぎて終った往時の情景を突然思い出したのだ。月日が経つのは速くて、人ならずとも事物も変わり、十年来の変化はとても大きかったので、只管中秋の明月にあって宝覚大師と時も忘れて話し続けたのだ。当時京口の夜に、月に何時又私を照らすかと聞くと、早く帰って来るのを待ち焦がれているとのことであったが、今のところは長い間帰れないのだが、更に何時の日か又私と金山に泊まるかと月に再び聞いたのだ。
此の詩は中秋の明月が元の儘であることに感慨を覚えて、併し、人事は別で、恐らく更に金山に登る機会も無くなって、其の中には深い意味が沢山あったのだ。金山に泊まったことは王安石にとっては一つの節目で、二十年前に翰林学士に応募する時、彼と宝覚等の人は夜金山に泊まったが、十年前の二回目に会った時も、宝覚は又彼を京口まで見送りに来て、再び金山に泊まった丁度其の時、神宗が崩御して、突然風雲の変異があって、彼もいよいよ老いて来て、更に国事に関る機会も能力も無くなって、再び出馬することは最早全く無くなったのだ。詩の中ではとても婉曲的に本音を表し乍も国事への関心と神宗皇帝に対する心の篭った慈しみの思いが伝わり、人生について如何ともせん無常と宝覚との間の深く厚い情誼をも表現しているのだ。
王安石には更に《示宝覚二首》がある:
火で暖められた粥の一杯に窓からの光が当たると、朝餉は魚も無く寂しいものだった。
世俗と関わりが無い聖寺の外は山林で、別けても禅天が好む浄居が有る。
将に煉瓦色に染められた着物が重なり、鐘山の窪みに雲と共に横たわった。
客舎では今黄粱が煮え始めたが、鳥が残した赤柿を今は亡き曾に分けたのだ。
山寺の中は、火で暖められた部屋の窓からは明かりが差し込み、朝餉は魚も無い粥一盛りの粗末なものと分かったが、其れでも、禅門の浄居として社会から超然とした別世界で、世俗から離れた楽園のように思えたのだ。出入りする車馬も無く、魚も付か無い食事を摂る質素な生き方は他の高官高位の人には多分辛抱することが出来無いだろうが、処が、嘗ては人臣極めて気高く扱われていた王安石にとっては貴重な楽しみであったのだ。
煉瓦色に染められた衣が、綿のような雲に覆われ、熟した柿は食べ頃で、黄粱を炊き込まれ、一服の絵のような山寺の瀟洒な住まいが好きだった。雲の中に共に横になって、図らずも黄粱も夢のことのようで、惟此れこそ、俗世から遠く離れられたと言うことなのだ。「鳥が残して熟した柿」は《祖堂集》十六巻において典故があって、潙(うぇい)山(ざん)の和尚との機縁が述べてある:
師と仰山は山に入って行って、一緒に座ると、烏が赤い柿の実を啄ばんでいて、師の目の前に落ちたのだが、師は手で摘んで、半分に割って一片を仰山に与えようとしたのだが、仰山は之を受けずに、云った:「之は和尚に差し上げられたものです」。師が言う:「其の通りだが、道理は同じ規範に通じる」。 仰山は姿勢を正して手に受け取り、一礼してから食べたのだ。
潙(うぇい)山(ざん)の霊祐は弟子の仰山慧寂が一緒に山に旅して、少し疲労を感じたので、大皿のような岩に座って、仰山は傍らに仕えて佇んでいたのだが、其の時、一羽の老烏が嘴に熟した柿を咥えて飛んで来て、熟した柿は潙山の目の前に落とされたので、仰山は急いで赤い柿を拾い上げ、よく洗って潙山に捧げると、潙山は受け取った後に仰山に半分を分けようとすると、仰山は受取ることを拒んだのだが、和尚の道徳感に道理があって、貴方が拾って来なければ分ける物も無いではないかと潙山が言ったので、仰山は拱手の礼を執って受け取るしか無く、師に謝礼したのだ。
鳥が赤い柿を咥えて地面に落としたことは、恐らく偶然のことであったのだろうが、仰山は和尚の道徳感に従ったのだ。実は禅宗は決して神仙や妖怪を信じるものでは無いのだが、牛頭の法は四祖師の説いた教えが信じられる前にあっては受け入れられていて、多くの鳥が神仏に供える花や枝葉を咥え、多くの獣も好い縁起を捧げるとされていたが、四祖が現れた後には、鳥も来無くなったばかりか、獣も又然りで、此れも禅門で有名な悟りへの研究課題であり、禅師の多くが此れ対して各種様々な解釈をして来たのだが、全て似たり寄ったりで、詰り、鳥獣は法との融合する程境地が高いものであるということを否定出来るものでは無いと説明する迄には至らず、道徳感に於いても必ずしも鳥獣と一緒にしてはならぬと言う考えには至ら無かったのだ。此の解釈に照らして考えると、仰山は和尚の感性が鋭い感覚に相接するものだと感心し、決して単に其の師に諂うだけでは無かったからこそ、潙山は彼を謗りもせずに受け入れたのであろうが、こうであったからこそ後世の玄沙は仰山を敗かした潙山を称え、「大きさは潙山と仰山が同じと見られても、未だ納得が出来無い」と言ったのだ。実は玄沙の説も正確なものとは言えるものでは無い所があり、一つは仰山が師匠に探りを入れたのか或いは皮肉ったのかのどちらにも限定することが出来ず、二つ目は其れが言得たとしても、潙山が仰山の話の中には傾聴に値するものが有るのが分からずに、簡単に騙されようなどとは考え難く、彼は巧妙なやり手で大胆で、身は金剛のようで、百毒にも犯されることの無い人だったので、仰山の捧げた果実には密に悪意が隠れていたかもしれ無いが、甘みに紛いがあるとは感じず、彼は疑る必要が無くなったので食べたのであったのだ。潙山は半分を仰山に分けようと、貴方にも分け無い訳には行か無いのでと言ったのは、禅机(暗喩)が密かに隠れていたので、師弟は同業で、栄辱を分かち合って、嫌なことでも私が引き受けなければならないが、貴方も分けた半分を受け取らねばならないのだと言う意味を含んでいたのだ。
此れら二首の詩は如何にも現実を古い時代にかこつけつけるような虚構を事実であるかのような絵空事で語り、世間社会と天上とを一緒くたにして、恰も故事が現実であったかのように巧妙に仕掛け、表現をぼやかして捉え処無く、非常に高い芸術的技巧で描かれており、入神の境地も芸術の境地も違わず禅詩と結び合う所に到達する最高の水準を体現するものであったのだ。
王安石には更に《宝覚宿精舎》の一首がある:
混乱して又落ち着いて、秋に床の上でゆらゆらとまどろむ。真に万物に説くことは、たった三言で済むのだろうか?
曹渓室に義を問うと、書を捨てたのは里門の誤りだと言う。二つ揃って出鱈目だと分かっても、目を凝らせば当然であったのに。
僧舎に共に泊まると王安石と宝覚が何時も深夜まで話をしたのは、二人には共通の話題がとても多かったからだろう。恵施は春秋戦国時代のとても博学な人で、聞いた所では、彼には書が五車あって、其の上更に、彼は可也の論客で、話術にも素晴らしい才が有って、広い知識と稀有な弁舌の才能とが合い結び合い、一度彼が議論をすれば澱み無く、彼が天地や万物について説き始めると三日は続いたと言う程だ。王安石本人も全く学識高く、宝覚も同様で、二人は往々にして飽きること無く、夜通し長話をしたが、恵施の能力に及ぶことは無かったが、お互いの高い能力に殆ど差が無かった。宝覚は禅門の中の人であり、禅宗は唐の半ば以降には次第に南宗の天下を制し、「一般に禅と言えば、全て曹渓になるのだ」と言われる程で、宝覚も六祖の一筋の継承者で、勿論、「義を曹渓室に問う」を要するのだ。
「捐書」も典故で、《晋書?範寧伝》に於いては、范寧は学ぶのが好きで、広くいろいろな書物を読んでいたので、目を悪くし、一度目に眼に病の症状が表れたので、非常に苦痛になって、中書侍郎の次官の張湛に診察を求めたのだが、張湛は彼の目の病気は、他でも無く、只、本を多く読み過ぎた為のものだと知っていて、努力も度が過ぎると害になると、嘲る口調で言った:「古伝の処方は、宋陽の中では其技術は少なくて、山東の東門伯に授けられ、東門伯は左丘明に授け、聞けば代々相伝されたものであったのだ。或いは、漢の杜子夏、鄭康成、魏の高堂隆、晋の左太冲、凡そ此れ等の諸賢は、全て眼に病気があっても、此の処方を得たと言う:読書を捨てて一つ、思慮を減らして二つ、中を見るのに専心して三つ、ざっと外を眺めて四つ、且つ、遅く起きて五つ、夜早く眠って六つ。凡そ此の六物は神火でもって煮るもので、一気に飲み込んで、胸の中に七日間含んで、然る後、ごく僅かずつ入れるのだ。一寸の診察では、近視は其の目の睫毛を数えさせ、遠視は禅棒の切れ端で測るのだ。長く服用しても直ら無いならば、壁の外を洞察するしか無いのだ。
よって、張湛は范寧に身体を大切にするように勧めたが、本を読まないように言うのは大変心苦しかった。范寧は、嘗ては豫章郡の太守で、其処では学校の運営に力を入れて、「常憲に拘らず、旧い制度を改革して」、郡城に元から在る六門を八門に変えて、古制に合わせたのだ。
王安石は非常に精妙さに依って此の典故を用い、一つは豫章郡の太守であった範寧の原姓が、王安石の故郷に居た事と、二つ目は范寧が嘗て郡城の門の過ちを直したことで、「捐書」の建議を打ち立てることに為ったのだ。闕門とは宮殿の闕門のことを言い、門閥や豪族をも指すと言うことなのだが、そう言う王安石自身も嘗ては宰相を務めていた頃は、無論、上層の貴族に属していたのだが。
宝覚が曹渓に義を問うたのは、王安石の闕門への「捐書」のことで、仏教に属しようが、儒学に属しようが、出家しようが、世俗に塗れようと、全く勝手なことなのだが、夫々一片に偏って選択するような両極端に拘らず、儒仏を超えた食い違いを見分け、少し立ち止まって大道に目覚めれば、実際に方法を目の当たりにするのだ。「実際に方法を目の当たりにする」とは、《庄子》からの出典で、意味は「自分の目で触れて道理を見極めるべきだ」と言うことである。一詩の中には三家の典故が使われていたことで、王安石が諸家を完全に理解したことが分かり、各派を越えることを表明して新学への気概と決心を見て取れるのだ。
王安石には《示宝覚》一首が更にある:
宿雨にいらいらが募ったが、朝、雲は大きな晴れ間を囲むようになっていた。そよそよと青緑の柳が靡き、思わせぶりな赤い蓮の花が美しい。
横になった儘で後悔するなら、如何して奮起して何かをやろうとし無いのか?隠遁の身にある人が活き活きと私を通り過ぎると、共に壁の向こうへと思いを馳せるのだ。
夜雨のいらいらする煩わしさを洗い去って、朝には雲を去らせて空一杯に晴れ間がやって来たのだ。青玉のほっそりした腰つきは柔らかくて、ほんのり紅い蓮の花のような様子が美しい。こんなことで良いのかと溜息をつき、家でごろごろ横になっているよりも、興に乗って旅行に出る方がまだ益しだと思っていた丁度其の時に、宝覚と互いに行き来するようになって、二人一緒に迷わず城壁の向こうへ赴いて、外の様子を眺めに出たのだ。
現存する仏教の高僧と関係がある詩の中で、宝覚との関係が最も多く、併し、宝覚は禅門の歴史上では大きな位置を占めては無かったので、大覚懐器以外で王安石と付き合いがあった禅門の高僧として最も影響があったのは宝峰克文であった。
宝峰克文(1025−1102)は陝府閿郷(今河南閿郷の県)の人で、出家した後に、先ず経論を学び、後に黄龍の慧南(1002−1069)の門下となった。彼は生涯に五度法事を為し、仏法を広めて五十数年、仏門の弟子は多く、影響は頗る大きかったのだ。元豊八年、王安石と王安礼は揃って克文に寧禅寺の第一代の住持と為るように懇請していて、《大丞相請疏頼》がある:
伏して肇に仁愛の心を以って祠を置いたのは、未来を見通す先見の明があったと言え、誠善を導いて、後進への道をも開いたのだ。文が公を長老とし、独り正伝を受けて、愚にもなら無い議論を排すに至ったのだ。祈願を核心に置いたことで、宗派が目標を目指して進むような興味を湧かせた。伏して惟慈愛の心で接することを大切して、勤めて哀れみに従うように仕掛けたのだ。謹んで陳述する。元豊八年三月某日覗文殿大学士、集禧覗使、守司空、上柱国、荊国公を集めると領地は九千五百戸、実封は千戸と安石が箇条書きにして上奏した。
寧禅寺の建立を願ったのは、神宗皇帝の延寿の福を祈るからで、だから「肇に仁愛の心を以って祠を置いたのは、未来を見通す先見の明があった」と称えられたのだ。克文は黄龍の慧南の子孫で、石霜楚円の法孫で、蒋山とは親交があり、蒋山賛元とは同統であり、王安石は賛元と友達であったので、だから其の仏法で甥に当たる克文に可也注目していたのだ。恐らく克文を寧禅寺の住職する為に賛元の推薦を得ようとしていたのだろうが、克文自身、間違い無く格段の造詣を持つ非凡な高僧であったのだ。
《古尊宿語録》の四十三巻の《宝峰雲庵真浄禅師住金陵報寧語録》の記載:
師(克文)の開堂の日、香を焚いて言う:「此の一欠片の香、今上皇帝を謹み敬い、天子の永遠の栄えを招聘して延寿を祝い、万々歳。伏して尭風の永扇に願いを込め、同じく日々益々明るく盛んになるようにと;湯徳を新たに称えて、天地共に強固にする。此の一片の香を焚き、報寧の大檀家の主人である正二位の相公と判府左丞に恭しく為し、伏して一族を挙げて大小の善慶を増して沢山の喜びを享受し、正二位の相公と判府左丞の兄弟が共に仏法の保護を為すに至り、子孫万代久しく皇室の梁棟となることを願うのだ。此の一欠片の香、提刑の長官に献呈することで、官職名を吟味して文武の官僚に潅ぎ、俸禄と爵位の常居を為さす。然も、提刑の多くの官と、二人の相公とが総じて共に、仏法の記しを平素から授かり乍も、王臣としての分を守りつつ、仏法の常興に働き、非公式にも此れを保護も為すのだ」。
克文は講堂を開いて香を焚き、先ずは皇帝、王安石、王安礼の兄弟及び長江下流地域の提刑や、新たに任命された官僚等に至るまで祝願を為したのは、十方の檀家に報謝することで、彼らの力で仏法への妨害を末永く守って貰いたいと思いがあったからで、同時此のことで仏教の世俗化が既に確実に一つの新しい時期に入り、俗世間特に高官高位の人への仏教の依存が更に深くなったことが表明されるのだ。
同じ書に更に記載されていたこと:克文は更に言う:「仏性の意味を只知りたくて、時に機縁を見る。既に、機縁に到れば、自ずと縁に出会うものなのだ。民衆は、(仏教への好機)だと一会に分かっているのか?今は民衆も成仏出来ると言われる時代になったので、好機であると言えるのだ。大丞相荊公は皇帝の岳父と判府左丞を兼ねていたが、仏道の教えを導く達磨大師の祖道を講演する為の大導師になるように強く願って、自邸の庭園に仏寺を造り禅の門徒に与えたのだ。そうすることで、禅宗の教外別伝(悟りとは言葉や文字で示せるものでは無く、直接心から心へと伝えられるもの)と直指人心見性成仏(教説や修行によること無く、座禅に依って直ちに自分の心の本性を見極め、悟りを開いて仏と成ること)を民衆に教えたかったのだ。民衆は信仰しようか?若し、信心すれば、元々人間は仏になれる本性を持っていることが分かるのだ。譬え未だ信心が無い場合も、同じく仏に為れると言うことなのだが。然れども、説法を聞いても、日が経つにつれて迷いが出るのは、俄には信じ難いことなのだ。然れども、古今に亘る天下の善知識は、一切が禅道にあり、一切が言葉で語れ、と言うことは仏性の中から善知識が輩出するようになるのだが、未だ輩出した者は無いのは、仏性自体に本源があるからなのだ。近代仏法には傷が在り、多くを捨てて末節を追い、正しきに背を向けて邪心を投じているのだが、振り返って古人は一切が禅を為して道を為すとの言句に終始するのみで、干渉ばかりしていたのでないのか?達磨が西から来て以来、禅を誰かに伝わったことは無く只成仏することを願って、大衆自らが悟り、自ら禅道を打ち立てたのだ。況や能力は変わるものなので、衆生は自然に「足る」を知り、取るに足ら無い仏法以外のものを求め無くなる筈なのだ。現代人の多くは仏法以外からも多くを求めるようで、本性を誤魔化していて自ら悟りを得るなぞと言うことは無くなったのだ。昨今は仏法を信じ無い者が多く、他人を羨ましがるばかりで、全てを虚妄と為し、活路を見出すことも無く流される儘に終始しているのだ。今、二人の相公が珍しく此処に大道の場を打ち立てて、仏事に大を為し、大衆が生死の流転から出られるようにと、其ればかりか、大衆が元々根源として持つ寂滅妙心を世間の隅々迄広め、本来的な力量で大きく希望の光を与える正法眼蔵を開発したのだ。然し、迷いを長く引き摺るのは凡そ庶民であって、直ぐに悟りを得られるのは聖賢と言うことになるのだ」。
克文が言わんとしたのは、大切なのは大衆自ら本性は仏にあると信じることで、仏性には根源があることを知って、詰ら無い言い訳を繰り返さず、己を知って自ら悟り、仏道に専念せよと言うことであった。根源が何処にあるかを知ったなら、他人に影響されることは無くなり、自ら一切の禅道を作り上げることも為し得て、生死から離れて流転出来るようになり、独自の秘宝も開発出来るのだ。今語った宗旨は一冊の曹渓の書にあり、語り口も《壇経》と近く、見るべきは王安石が言った「独り正伝を得る」は根も葉も無い言葉では無かったと言うことである。
克文は法を衆に開示したので、傑出した者が非常に多く出たのだが、中でも拄杖子の話は世にも珍しいのだ。其れを語る:「貴方が拄杖子を必要とするならば、貴方に拄杖子を与えよう;貴方が拄杖子を必要とし無いならば、貴方から拄杖子を奪い取ろう。此処で言わんとしたことは、汝の知恵が増せば、汝の驕慢は無くなると言うことだ。火焔の中に身を隠して、泥沼の中から現れ出る。千手観音千の慈悲の眼は観世音菩薩となり、超人的能力を持つ化身として全てを任されるのだ。此処に於いて奨められないのは、青玉の岩有る処を汝が棲家として、清泉を独り占めして汝が欲しい儘に飲み、寒冷を嫌って猿が深夜に啼くのを聴くような暮らしすることなのだ」。
こうであれば、搾取を無くし、間違い無く貧しさを減らして豊かさに貢献するのだ。こうであっても問題なのは、搾取が如何搾取されるかと言うことなのだ。天上の世界では、損とは補う蓄えが十分で無いことである;人間社会では、損とは蓄えが有っても十分補は無いこととなるのは、天道は平等を重く見るが、人道には差別意識があるからで、克文の意とする処は此のことを超えるものでは無かったのだ。凡そ世俗の感情は、道理と相反するものなので、痛烈に批判しても、躊躇うこと無くあからさまに、飢えた人の食物、冷えた身体を癒す衣服、夫を引っ張って耕す牛、早く織る為の機械を搾取し、一つも残さず、搾取し尽す其の病は中々治ら無いのだ。凡そ感情が浄化される為には、聖智の出現を待つしか無いのだ;煩悩の衣を取り去れば、身は真浄されるのだ。搾取は奪い取ることであり、思うが侭に奪い尽し、些かの同情も無いものなのだ。拄杖子が無かったら、本分を守ることも分からず、奪われる儘になって仕舞っただろう。実際はそうはなら無かったのだが、拄杖子が無かったら、只其れが分から無いとしても、自ら経験する必要は無く、或いはそういうことが無くとも、欠けてはなら無いものを分かっていなければならず、所謂、庶民が日々用いるものが如何言うものかも分から無ければ、日用不可欠のものと分から無い儘に、一旦搾取に遭って仕舞って初めて痛みを感じることになり、価値を推し量ることが出来無いが最も貴重なもので、日々手放せないものだと自ずと悟って、初めて少しは守ろうとする気を常時持つことになるのだ。
拄杖子があったことで、此のようなことが分かり、其の絶妙な効用を知っても、自分の本分を守ることが分から無いのでは、過不足は無く、依然として貪り取る心が生じるのを常に払拭していかなければ、唯失うことのみ恐れるばかりで、気持ちを大らかにして物事に拘らず、縦横無人に駆け巡る手掛かりを得るきっかけを生ずることも出来無くなるのだ。此のように貪ることに固執すれば、有る無しに関わらず、其の道理が分から無いので、其れを使い尽くすことも無く、上辺だけで分かっても、其の中味が分から無いと言うことになって仕舞うので、其処で予め予備知識として大善知識を与えて手引きしてやることで、其の傲慢さを取り除き、貪り執ることを止めさせて、そうすることで本来持ち合わせていた其の働きで、最善を尽すことを知り、併せて、己自身の行いに原因があり、非は彼自身にあったことも知らせられ、此のように拄杖子から真実を得て、行うべきは直ぐ行い、休むときは休み、持てる者も、持て無い者も手中に有る物でも手放すことが出来るようになったのも、此の徳も僧は拄杖子から与えられたものではあるのだが、実は元来自分が持っていたものを、其の啓発を受けて引き出されたものだと言えよう。
本当の出家者なぞ、居無いのだろうか。知らず知らずのうちに増えて行くが有ったとしても、知ら無い間に其れが減って行くと言うことは無かったのだ;去るものは追わず、謝罪の言葉も無ければ、増えることも無ければ減ることも無く、無くなることも在り得ず、凡そ聖人も気に掛けること無く、人に依って制限することも無く、世俗とはかけ離れたものとして、何事も無いように自由になされているのだ。此のような境地に至れば、火に飛び込んでも熱く無く、水に入っても濡れず、と言うように神通力が変化し、障害となるものが無くなるのだ。此のようなことが出来無かったならば、清泉を飲み、青玉の岩を棲み、と見たところ自由に見えるのだが、実は野山や林間などは素晴らしい処だとは言い難く、餓えと寒さで鳥獣達も号啼し、生死に彷徨することになり、淪落して苦悩の淵に追い込まれるのだ。
克文との機縁(教化を受ける機会)は挙げれば切りが無いが、一例として、其の力量は広くに亘り、絶妙の組織作りは知られる処で、翻って考えると、祖として仏教を為したとは言い難かったが、日常生活の費用には常に豊かであった。克文と王安石とのが付き合い始めて間も無い期間は、唱和の作品は残っているものは無いと言われるが、但し、一首だけ《王元澤題鳳凰台》がある:
鳳が去っても高殿は久しく残り、庭園は点在している。国事に因って傷つけられ、古くから盧禅を学ぶことを願っていた。
澄江の浄練の地に、朝焼けは空万遍に散る。六朝の人に会うべくも無く、目の届く限り古い山と川。
此の詩は王雱の《題鳳凰台》の 模作で、元詩は既に無い。此の詩は李白の「鳳凰が高殿上の鳳凰と旅に出たことを悲しんだが、鳳が去った後で高殿が空になっても揚子江は其の儘流れている」と言う意に反して、「鳳が去った後で高殿が空になっても」とは言わずに、「鳳が去っても高殿は久しく残り」とし、人が亡くなっても物は其の儘であることを強調することで、物は人とは関わり無く存在するものであると言いうことで心の中のもの悲しさを一層大きく表わそうとしたのだ。全ては常に変わって行くものなので、故里の思い出に浸る暇は無く、六祖(恵能の俗姓は盧、故に古盧と呼ぶ)から禅を学んで、三世を超越して、生死輪廻に落ちることが無くなったのだ。鳳凰の高殿の辺りで、澄江での修練のように、満天に朝焼けが輝くが、目の届く限りに遠くの山と川を眺めるばかりで、六朝の賑わいなぞ何処にあるか?此の情は此の景色にある。山と川が人に昔を蘇らせても、人事のことで既に悲しむことは無いのだ。
克文は詩では大成したとは言い難いが、残存する詩は勢いのあるものが沢山あって、彼が文才に富んだ僧侶であることが分かる。王安石には《示報寧長老》の一首がある:
白下亭の東で鳴く牛、山林の溜め池には正に雲ひとつ無い晴れ渡った秋があった。
私の檀家に粥会を新しく営もうとも、頭髪のある者を比丘と悟れるものなのか?
白下亭の東とは、正に寧禅寺、詰り過去の半山園が在った処である;牛が鳴くとは、二つの意味がある。一つは距離を指すもので、《大唐西域記》の第二巻の《印度総述》の三《数量》に記録がある:「古くは一踰繕那を四十里だと伝えていたが、印度の国の習わしでは三十里とされており、仏典に記載されている所では十六里とされているのだ。『微小の数を窮すれば、一踰繕那を八拘盧舎と為す』。拘盧舎とは、所謂、大きい牛の鳴き声が漸く聞こえる距離とする」。牛の一鳴きを拘盧舎と為し、詰り、牛が鳴いているのが伝わることが出来る一番遠い距離、恐らく一理半か二里の間の距離で、此れは正に白下亭から西に隔たる寧禅寺迄の距離に等しいのだ。
其の二としては克文をも兼ねて指したものかもしれなくて、此の牛は常なる牛では無く、彼独自の心境の反映としての世界を露出する白牛であり、此の牛が一度鳴くと、天下は震え上がる。白下亭の東は、秋空が高く大気も清々しく、王安石と王安礼は寺院の檀家であったので、王安石が棗の木、橡の木を新しく植えようと寧禅寺に申し込んだ時には、宝峰禅寺いた克文は大通に目覚めたばかりの比丘(新たに僧に成った者)だったのだ。
鳥巣道林には、他門下では悟りを得ることが出来無いと寺で雑務を為していた会通と言う名の者がいたのだが、或る日、辞去したいと言ったので、道林が問うて曰く:「汝は今如何して去るのか?」 此れに対して曰く:「会通は出家して仏教を極めようとしたが、和尚は丁寧に教え導いて下さら無いから、此れから諸法を行って仏法を学ぼうと思っているのです」。道林は曰く:「若し、仏法を身に付けたいなら、吾にも僅か乍有るではないか」。会通が聞く:「如何いうものが和尚の仏法なのですか?」 道林の本値としては僧の見習いの奮起を念じて促す所にあったので、通は直ぐに其の奥深い思いを悟ったのだ。道林が如何して僧の見習いに奮起を促したのかは別として、会通が此の時直ぐに言った意味を分かったことから、彼ら二人の才智がどれ程のものか明確に分かると言え無いだろうか。王安石は此の故事を以って、克文を称賛出来たのは、彼が紛い無く高僧で、天性からの聡明な理解者で、全く透徹した人物だと分かっていたからだ。
王安石には《文師種松》(《王文公文集》と言う書によると、李壁には《北山道人裁松》に本題を付ける)の詩が更にある:
日の当たる傾斜地に風は暖かく雪は初めて晴れて、谷を過ぎると遥かに青緑色が幾重にも積まれているのが見えた。
石を積み重ねた仏神を吾が愛する所とするのは、彼は生まれてから此の方楼鐘の音を聞いていたからだ。
李商隠の「若し、多くの真実の言葉と信じるならば、三世も同じく楼鐘を訊く」と言う詩句は、王安石が此れを以って彼が仏教に心を傾けて来世にも内心から仏教と縁を結ぶことを願ったのだと表現したのだ。
王安石が著作の中で言及する高僧はとても多くて、一人々列挙し難く、彼は多くの高僧との頻繁な往来を通じて、彼が残した功績と彼の占めた地位があっても彼の生活の中に仏教が関わっていたことを十分に説明出来るのだ。
「六、恩讐は全部喪失する」に続く
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