※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。
第10章 後の身は誰に遠慮すること無く、永遠に忠義を装う奸臣が論じられることに同情する
三、 何時の間にか変わる
王安石には墓誌銘が無いので歴史の上で彼が忘れられた人物になることは無く、彼
は此処千年来ずっと論争の的となり、歴史の変動に従って、其の時々に翻弄されて軽く扱われることもあり、或いは、大聖人と崇められ、屡陥れられて極悪非道の許されざるべき罪人ともされ、或る時期は善く、暫くすると悪くと、彼の姿は時々で勝手に粉飾されて仕舞って来たのも、とっくにそうなることが免れることが出来無い彼の宿命だったと考えざるを得無いのだ。
哲宗の元祐二年(1087)正月、科挙に《三経新義》、《字説》の登用を禁じた。元祐
年間、司馬光は程無く人の世に別れを告げたが、然れども、変法派への打撃と迫害は決して其の後も止むことが無いどころか、其の激しさは輪をかけて益々甚だしきに至ったことで、変法派の領袖であった王安石の身は運良く免れたのであったが、其の思想や学説への抑圧は益々迫害を受けて、彼の理論や路線に対しての攻撃は絶えること無く常に繰り返され、更に追い討ちをかけて呂恵卿の私書の中には「御上に知らせること無く」という出鱈目な文言を載せられ、彼が御上からの目を誤魔化していたと罪を着せて、大罪をこじつけようとしたのだが、若し彼の弟子の陸佃が事実を明らかにして、逆流を制圧しようと、巨大な圧力に抵抗し続けることが出来て無かったならば、彼も後世の張居正の結末と同じ目に会うことがあったかもしれないのだ。
元祐の政治は保守派の自惚れを歴代で受けたものだったので、「元祐は更なる変化」を成すと称しても、処が実は、所謂「聖人君子」の間には争いが止まず、政治は乱れに乱れ、国を捨てた恥辱の八年を為し、各「聖人の党」は権力闘争に明け暮れて、おまけに相は、日に日に成長する哲宗を省みること無く、老いぼれて愚鈍な皇太后への御機嫌とりばかりをするのみで、只、目先の栄辱の損得だけを考えて少しも将来の見通しを立て無いことを危惧されていたのであり、此のような状況下では既に潜伏していた危機について渾然として知るべくも無かったのだ。哲宗はあれらに対して反発を極め、臣下の礼をとる者も無かった君子達は当然苛立っていたので、其処で一旦親政をすることになると、「紹聖」を号にして、父の志を受け継ぎたいと思い、煕豊の旧臣を起用して、終には元祐の党を追放したのだ。
哲宗の助言の下で、元来追放されていた変法派の主要な人物が次々と起用されるようになり、歴史は曲点に達し、もう一度大きく百八十度反転し、突然、王安石の身の以降の曇りから晴れに転じ、多少の揺り戻しがあってもずっと其の儘行ったのだ。新党の間にも対立はあったが、併し、全て多少のものであり、即ち「紹聖」、「紹が述べる」を名にして、一致して神宗をと共に、王安石も尊敬し、王安石を更に変法の代表とし、代表は真理を押し出す大きい御旗とし、同時に政敵の手足を縛る為、旧党に打撃を与え、其のことは大きい影響があり、無論、其の社会的地位はどんどん先高の見込みになったのだ。
紹聖元年(1094)、蔡卞が上奏して《神宗実録》の祖と禹を範とすると言う処を全て無くすように修正する手直しと王安石の《日録》の刊行を加えるように求めたので、王安石の評価が再び肯定的に復活したのだ。其の年の六月、《字説》の禁も外された。紹聖二年(1095)、王安石に文公と諡を贈られ、神宗の廟庭に主神に添えて他神として祭られた。徽宗の崇寧三年(1104)、王安石は孔子廟に主神に添えて他神として祭られ、顔回、孟子の次に列し、同時に舒王へと死後の封爵をされた。此れで王安石は最高の評価を決定付けることになったのだ。
王安石が高く崇拝されるような運動の最中にあって、蔡卞は主要な働きを果たすことが出来た。王安石の娘婿であり弟子でもあったので、蔡卞は力の及ぶ限り努力したと言え、併し、彼の功労は王安石の地位を高く持ち上げる方面に只体現していただけで、古老の志を受け継ぐことは出来無かったが、変法の大事業は軌道を修正することも無く引き続きやり続けられたのだ。こうした中には多くの複雑な原因があって、其の中の一つとして蔡卞は王安石のような権力と地位を獲得して無かったので、変法派の新しい指導者になることが出来無かったのであり、更に重要なのは哲宗、徽宗は皆神宗とは比較にはならず、徽宗は更に愚昧で淫らな御仁で、地位相応の人柄では無く、此のような暗愚な君主に遭遇して、蔡卞の報国の志も空回りし、抱負も実現し難く、私行の学問の方面で引き続き烈士に加わることになるしか無かったのだ。
世俗の議論では、蔡卞と蔡京との二人は兄弟だと一緒くたに思って、当然同じ行動をしたと思われ、栄辱や、志業と教養でも双方には殆ど違いが無かったと考えられていたので、蔡京の父子が国政を誤った人民への罪を蔡卞にも齎す害を為し、王安石にまで影響を与えのだあり、王安石が実際に罪を為したかのようなことを詩にするのは元々出鱈目なことだったのだ。実は蔡卞と蔡京との思考は全く関係が無く、個人的な品行の面でも、蔡卞は王安石を見習って、最善を尽くした上に、官としても清廉で公正で、栄禄も貪ることも無く、王安石が政権を握った時にも、彼は才能があったので何度も重職に推薦されが、完全に舅と婿との馴れ合いを避ける為、長期に亘り地方官を担当したのであり、広州近海に於いて、貴重品を生産したことで名を無したけど、彼は一物も取ること無く、歴代此処に清廉潔白な役人として勤めた一族の位牌堂を立てて尊んで礼を尽くしたことは、着服の風習を取り除いて後世の模範と考えられ、彼が福建で退職した時は、人民が茉莉の花で彼の衣服が蔽われる程撒き散らされ、其の清徳を感じられるのだが、此れと欲深さで国を害した蔡京とは鮮明な対比を形成するものであったのだ;
事業と功績の面で、蔡卞は王安石を尊重していたので力の及ぶ限り努力していたのだが、敵対者の蔡京等の輩が何としても打撃を与えようとしたのだが、彼は決して蔡京の国家と人民に災いを齎す活動には参与し無かったので、多くの面て蔡京とはぶつかり、此の為に退職することになったのだ。二人が兄弟であったのに、蔡京の罪が蔡卞の頭上にも降り注いだのだ。後世で酷いのは、蔡卞は実を言うと裏の主謀者であったと言うものもあったが、章惇、曾布、蔡京等が操作したものであったので、此のことは余りにも蔡卞の影響力を大げさに評価したものでもあり、蔡卞の人品に対する中傷であったのだ。
王安石と蔡卞に対して益々賞賛が増えたのは当然のことなので、蔡京については誉める者は居無くなり、彼が政権を握った時も、蔡京は抜擢されたものでは無く、甚だしきに至っては神宗の世を経過してから始めて、蔡京に栄誉が顕われたのであり、其の地位はずっと其の弟の蔡卞の下にあったのだ。蔡京は司馬光が政権を握った後に高く評価されたもので、当時、司馬光は五日間以内に如何しても新法を廃棄しなければならなかったのだが、諸人皆無能と言えたので、唯一蔡京だけはと考えて、司馬光は非常に喜び、何の患いも国事で成さ無い為には最も君が相応しいと言ったのだ。其処で、其の後、蔡京の勢いを借りて王安石とは関係が無かったにも拘らず、更に、蔡京の罪を擦り付けようとしたのだが、此のことに関係が無い王安石の身に無理に押し付けることは出来無る分けも無かったのだが、王安石と蔡京との二人を如何しても結び付けなければならない一心を通すには、二人の親戚関係を曲解して結びつけるしか無く、あのようにしてひとの人生観に訴えて「世間一般に理屈が通る関係」で取り繕うしか無かったのだ。
北宋の滅亡の原因の一つとして極めて複雑な問題となったのは、此れ将に只蔡京父子に原因が在ったものとされ、蔡京から蔡卞に至り、蔡卞から王安石に至り、最後には王安石を元凶として結論されたのだが、この思考と論理は余りにもお粗末に過ぎるものであった。可笑しくも嘆かわしいのは、一度此のようにお粗末で出鱈目極まり無い論理でも予想も付かず後世に多く偉い人だと号された楊などの時の人が提唱したなら、実際には経験と知識とが無い世代が賛同して仕舞うものなのに、事の真相も知らずに付和雷同して、何を以って定説と言えるのだ。欽宗の靖康元年(1126)、曾ての蔡京の抜擢を受けて楊時が矛を返して一撃を加える為に蔡氏の勢いをよく見ると、蔡京は欽宗に上奏した内容は、災いを王安石に始まったと量って、蔡氏も行う所はあったとしても、其れも含めて全て王安石の邪説の害なので、欽宗が其の罪を明らかにして王安石の王爵を剥奪するように求めたのだが、だからと言って欽宗は其の説を其の儘受け入れるに至ら無かったとは言え、王安石を主神に添えて孔子廟に他神と祭ることを止め、思い直して廟から外したのだ。此の事を楊氏から真っ先に言い出されると、王安石の評判は直線的に下降し出したのだ。高宗の建炎二年(1128)、趙鼎、呂好問等が楊時の言い分を受け継いだので、依然として王安石が蔡京の災いの源として捉えられ、上奏して王安石への配享を取り去るように求められ、其の上、「時に政治の誤りは、此処に窮まった」と言ったので、高宗は其の説に従って、王安石が神宗の祖廟の庭に配享させるのを止めて、之を富弼に代えたのだ。南宋の君臣は国家が滅亡に瀕した時、軍備の整備を配慮し無いで、党派間の争いに忙しく自滅したのであり、だから人から謗りを激しく受けたのであって、「粛王を救わず舒王を排除したことで、春秋(末節)を議して大切なことの協議をしなかった」と言われたのだ。
理宗の淳元年(1241)正月、南宋皇帝理宗は滅亡に直面して望んで太学を訪れ、『王安石は「祖宗の法は、天変地変への対策に考慮が無く欠けているものがあり、満足出来るものでは無い」と提唱したが、人は「代替案が不十分」であったので「永遠の罪人」だったと言いうことで、祭ることも止めて仕舞った』と詔を下して言ったのだが、此のことは南宋朝廷が滅亡する前に王安石を評価する最終的な結論を給わり、国が滅びる責任は王安石の為したことを全力で顧みることも無く捨てて避けて通った此の百年余りを推し量ったものだったのだ。理宗皇帝が王安石を「永遠の罪人」と自ら裁定した後には、此の論調が俗世間と儒家の間とが互いに追随する定説となったのだが、未だ、王安石に対する怒りを表現出来るものでは無いく、満足出来無いと極端に出る者も居て来て、更に益々激しく糾弾するようになり、王安石は永遠に歴史的恥辱の柱の上に立たされ非難を浴びることになったのだ。楊は謹で明代の文人の第一人者だと言えるが、著述は広く閲覧出来、才気に富み、その右に出る者はいないと言うことが出来ようが、然し、王安石の評価に対する姿勢は、彼の無能を暴露するのみだった。楊慎著の《丹鉛録》では、王安石に対してあらん限りの最大の力を尽くして誣告を非難して、其の極まりとして引き合いに出したのは周徳が弘治年間の言葉で、「王安石は古今きっての小人だ」と言って、更に、「神宗もあやふやで、亥、桓、魂の者達と同じ一人として恥じ入るべき者だ;安石は邪悪な者で、莽、操、懿、温に応じる一人として看るべきだ」と言ったのだが,此れらは是非も知らずに悪辣だと攻撃したもので、正当な論理で恥ずべき風説では無いとしたのも楊が慎重を期して言った「極めて公明で極めて明らかだ」という言葉を信じたまででで、公が如何であったかも知らずに、何処にも明白なことなど無いのだ。
「永遠の罪人」から「古今切っての小人」迄、王安石に対して口汚く罵るのが頂点に着いたと言えた。周徳恭と楊慎の説は全く笑え無いもので、然も、彼らが挙げた事実は一々出鱈目で、「安石みたいに悪辣な者」と遭っても「神宗もあやふやで」とか、「亥、桓、魂の者達と同じ一人として恥じ入るべき者だ」は丁度「莽、操、懿、温に応じる一人として看るべきだ」に応じて言われたものだが、当時の宋室は亡くなった訳でも無く、王氏は趙氏にも代わっていず、何処に疑いを持ったのか?王莽、曹操、司馬懿、桓暖全て一世代の奸雄で、周赧王、秦二世、漢の桓帝、漢の賢帝全て愚鈍な君主であったのだが、間違っても四者に応じる者などとは言え無いのは、前者達は一人の力で、後者達の国を滅ぼし一族の絶滅させたもの達だったが、宋室の国家は、当時は亦未だ安泰で、王安石が君位を奪い取るなどは存外で、自分で早く定年退職し、山林に長じることを申請したのに、あのような出鱈目を一体如何釈明するのか?
周、楊の言いたかったのは、王安石が「古今切っての奸臣」であることだけを公言したかったのであり、後世に宋を滅亡させだけで無く、極端に言えば当時の君位を剥奪して権力を奪い取る目論見があったとしたのだが、只彼らは証拠が一体何処にあったのかは一切言って無いのだ。楊慎は、王安石は卯などとはとんでも無く、商鞅とも見比べることも無く、更に「宋人は不幸不明に議論をして、世を挙げて全て分からず出鱈目にした」と言い放ち,大勢居る全ての者達を惑わして自分一人が覚醒し、世の中は全て悪く正しいのは自分だけだったと言いたかったのだろうが、実際、何を根拠に出た言葉か訳が分から無い。
清代になると、李結、蔡上翔等は郷里の賢人の王安石に対する中傷に反駁して、蔡上翔は彼の立場で見るところの史料には制限があるが、極力調べて謂われない王安石の身の上に撒かれた汚水を雪ぐ為に《王荊公年譜考略》を書いたことで、爾後、王安石を再び如実に確立させたことは大変意義があることであったのだ。
四、 西洋学問の常新
二十世紀は変乱の世紀で、二十世紀は発展の世紀だった。二十世紀の中国は全世界と違えず、戦乱が続いた苦痛経験して、一歩々鳳凰涅槃を範とする新しい生き方を獲得して来たのだ。此のことが苦痛を生み更なる希望を世紀に期待する中で、新ためて変革を求め、革新に依って安定を求め、発展を図りつつ逝き続けることが此処百年の中国の最高の目標とし、同じく正に此の条件の下で、変法を主張した王安石が人々の最も関心寄せる歴史上の人物になったと言うことが出来、新学も亦脚光を浴びることになったのだ。
近代にあって再び王安石の活動を研究し評価した中で、梁启超が決定的意味を持つ役割を果たしたのだ。清朝晩期の戊戌の変法の失敗を経験した梁启超は古人の経験の中から中国を新たに再生する為の法術の宝を獲得することを求めることが出来ることを望んでいたので、此の為に彼は《中国六大政治家》を書いて、其の中の一篇が《王荊公》なのだ。此の著作の中で、梁启超は資料として蔡上翔の《王荊公譜考略》から知識を吸収しようとしたのだが、目新しい考察は未だ多くが為されて無かったが、彼には新しい観点から見る力があったので、変法を改革する観点と立場から「荊公の新学」を重ねて新しい解釈を為し、王安石に為された従来の決定や評価を総体として徹底的に覆したのだ。其処で梁启超は王安石に対して極めて高い評価をして、其の学の内外を纏め上げ役立たせると称して、然も「其の学術を集めることは九つの学派(儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家の総称)の精華(真髄)である」とし、中国文化の集大成をした人で、政治は財政を管理するものだと付け加えて言ったことが偶然にも西洋と一致することになったのは、頗る長い目があってのことで、甚だしきに至っては「未だ王安石が元気な中に、三世代の下で完全無欠な人を求めることが出来たなら」とも言い,此のことは亦、王安石を地獄から天国に送り込んだのに等しいのだ。
「永遠の罪人」、 「古今きっての小人」から三世代まで下って初めて「完全無欠な人」 だったと言う人が出て来たのだか、此の間は本当に長過ぎた。梁が公に任じてから此の途方も無い時の経過を飛び越えて此れを為したので、王安石の為に其の言わんとするところに評価を下したからこそ、近代になって王安石の研究が高まり始めて勢いもつくことになったのであり、更に、梁が王安石のなした全体を見て、其の学や、其の政策に対して略全てのことで真っ向から賛辞を顕したのだ。
民国の時代に王安石を研究する中で、胡適、銭穆等の歴史学者は其の思想を重視して其の源泉を探求し、賀麟等の哲学家はと言えば其の思想を重視して其の哲学的考察し、呂振羽、譚丕模等は其の政治と変法に対しての分析を行った。千九百三十三年第一版を出した柯昌頣の《王安石評伝》の一部では、王安石が専ら顕した書を系統的に全ての角度から研究してのだが、鄧広銘先生は其れに対して高い評価をして無いが、其の価値其のものに対しては当時も見失うことは無かったのだ。
解放後、王安石の研究への高まりは依然として止むこと無く、千九百五十九年、漆侠客先生は《王安石変法》第一版の一冊を出して、煕寧の新法に対して真摯に探求し、王安石の為に変法の名誉挽回を行って、先人を超える学術の成果を得た。鄧広銘先生は更に四版で王安石を書いて史壇に一段の佳話を残したのだ。併し、一元化の思想の指導の下では、王安石の研究にも幾つか不調和が現れて音調が乱れ、特に文革時期には、王安石は尊法を尊び儒学の手本に従ったことを糾弾され、「法家とした傑出した者」と烙印されるに至り、彼と司馬光の対立も国を愛した者と国を売った者の対立だと見なされて、「法家が国を愛する余り、儒家が国を売った」は「規則性を帯びた歴史の現象なのだ」と決め付けられたのだ。政治の要素を浸透させると正常な学術研究を邪魔され、王安石は恣意的に高められたと同時に時代の歪曲を受けて研究され、王安石が人為的に高める同時に其の面目を目茶目茶にされたのだ。
改革開放も学術の繁栄を齎し、王安石を研究するのにも新しい時期に入った。一方、鄧広銘等の古い世代の学者は再度青春が訪れたように輝いて、此の領域で更に新しい突破口と功績があって、亦一方では、新しい問題を提示する多くの若い学者の新しい視点も存在し始め、同時に、学術上の観点からも百花斉放して、百家争鳴の特徴を現して、王安石を高く持ち上げて肯定する局面を改めて、定性的な言い方を否定する論説が繁く現れるようになった。
王安石が、梁启超が三世代に亘って唯一の「完全な人」だと言う説の通りか如何かは分から無いが、其れでも、彼は確かに政治家、思想家、又は哲学家、文学者としても、全て能力を発揮出来る貴重な人で、人となりも無論のこと、更には学問や、政治の分野でも、彼の総ては永遠に研究して学ばれるに値するのだ。「荊公の新学」の生命力は歴史の変遷に遭っても決して止むことが無いどころか、歴史は其れを飛び越えて発展し、其の生命力と指導力は更に認められ体現されるようされるようになったのであり、此のことは王安石が永久不変の価値と魅力を持つことを表わすもので、王安石を研究することは永遠に絶えず開拓しなければならない領域となったのだ。
王安石を研究することが益々広がりを見せるのだが、併し、彼の宗教観についての研究は多くは為されていず、只、一部の学者の一部の論著の中に此のことについての記述があるのみで、此の点は今後の検討課題である。王安石が多くの領域ですべて輝かしい功績を立てている為、今日の学術研究は細かく分科されていて、学者も夫々の専門毎に分かれているので、全貌は覗き難く、学術の交流と協力の強化が望まれ、王安石を一つに纏め上げることが提示され、各分野の専門家も調整し始めて、王安石の研究の未来に向かって走り出すことになったのだ。
新学の意義は革新にあって、新学の生命力も時代の進展に結び付く革新にあって、漸く新学を創造することが出来るので、同じく伝統も絶えず新しく生まれさせることが出来るものなのだ。世法は絶えず変わって、天地は日に日に新しくなって、私達が色とりどりで美しい未来を迎える為には、私達が世事の変化が納まることが無いことに感慨を覚える時間は無いのだ。
主な参考図書目録:
一、《全宋文》、巴蜀書社。
二、《全宋の詩》、北京大学出版社。
三、《全宋詞》、中華書局、唐圭璋編、一九六五年五月の第一版。
四、《王荊文公詩箋註》、李壁箋註、中華書局一九五八年十一月の第一版。
五、《王荊公詩文沈氏注》、沈欽韓注、中華書局一九五九年一月の第一版。
六、《王安石詩文選年釈》、劉乃昌、高洪奎書、山東教育出版社、一九九二年一二月の第一版。
七、《王安石詩選》、周錫 選注、広東人民出版社一九八六年九月の第一版。
八、《宋史》、脱脱等編、中華書局一九七七年十一月の第一版。
九、《読資治通鑑長編》(附拾補)、李焘編、上海古籍出版社一九八六年二月の第一版。
十、《渑水燕談録 帰田録》、王辟之、欧陽修著、中華書局一九八一年三月の第一版。
十一、《涑水記聞》、司馬光著、中華書局一九八九年九月の第一版。
十二、《龍川略志 龍川別志》、蘇轍著、中華書局一九八二年四月の第一版。
十三、《湖山野録 継録 玉壺清話》、文瑩著、中華所曲の一九八四年七月の第一番。
十四、《東軒の記録》、魏泰著、中華所曲の一九八三年十月の第一番。
十五、《青箱雑記》、呉処厚著、中華書局一九八五年五月の第一版。
十六、《邵氏聞見録》、邵伯温著、中華書局一九八三年八月の第一版。
十七、《邵氏聞見后録》、邵博著、中華書局一九八三年八月の第一版。
十八、《鉄囲山叢談》、蔡絛著、中華書局一九八三年九月の第一版。
十九、《鶏肋編》、庄綽著、中華書局一九八三年三月の第一版。
二十、《泊宅編》、方勺著、中華書局一九八三年七月の第一版。
二十一、《春渚紀聞》、何薳著中華書局の一九八三年一月の第一版。
二十二、《石林燕語》、叶羅得著、一九八四年五月の第一版。
二十三、《梁谿漫志》、費褒著、山西人民出版社一九八六年十月の第一版。
二十四、《鶴林玉露》、羅大経著、中華書局の1983年8月の第1 版。
二十五、《容斎随筆》、洪邁著、上海古典籍出版社一九九六年三月の第一版。
二十六、《黙記 燕翼治謀録》、王膣、王栐著、中華書局一九八一年九月の第一版。
二十七、《王安石年譜三種》、詹大和等著、中華書局一九九四年一月の第一版。
二十八、《北宋政治改革家王安石》、鄧広銘著、人民出版社一九九七年十月の第一版。
二十九、《政治改革家王安石的哲学思想》、馬振鈴著、湖北人民出版社一九八四年一月の第一版。
三十、《禅宗与中国文学》、謝思煒著、中国社会科学出版社一九九三年の第一版。
三十一、《北宋文化史論述》、陳植鍔著、中国社会科学出版社一九九二年三月の第一版。
三十二、《宋代仏教史稿》、顧吉辰著、中州古典籍出版社一九九三年一二月の第一版。
三十三、《宋代禅宗文化》、魏道儒著、中州古典籍出版社一九九三年九月の第一版。
三十四、《宋神宗》、仲偉民著、吉林文史出版社一九九七年一二月の第一版。
三十五、《王安石学術思想研究》、李祥俊著、北京師範大学出版社二千年十一月の第一版。
付録:王安石の年譜
宋真宗の天禧五年辛酉(1021) 一歳 此の年の十一月十二日に臨江軍で生まれる(今江西清江)。
仁宗天聖八年庚午(1030) 十歳 王益は殿中丞知として韶州(今広東韶関)在任し、王安石は父に従って韶州に到る。
明道二年癸酉(1033) 十三歳 王益は母の訃報の為臨川に帰り、王安石も随行する。
景祐三年丙子(1036)十六歳 王益は喪が明けて上京し、王安石も随行する。
景祐四年丁丑(1037)十七歳 四月、王益の通判として江寧府(今江蘇南京)に赴き
王安石も随行する。
宝元二年巳卯(1039) 十九歳 二月、王益が江寧に在任中に死去する。
慶暦二年壬午(1042) 二十二歳 三月、王安石は科挙の最終合格者の第四位として掲示される。書の男で本に署名する淮南の節度は官庁の公務を判定する。
慶暦六年丙戌(1046) 二十六歳 臨川から上京して、図書館に職を求め無かったので、大理評事を辞し、鄞県知事となる。
皇祐三年辛卯(1051) 三十一歳 殿中丞通判として舒州(今安徽潜山)に任ずる。
至和元年甲午(1054) 三十四歳 舒州から上京して、特に集賢人校理を授けられたが、受けずに辞したので、九月に群牧司判官を授けられた。
嘉祐二年丁酉(1057) 三十七歳 五月に太常博士に改任され、常州を主管する。
嘉祐三年戊戌(1058) 三十八歳 二月に長江下流地域の刑獄となる。十月京に帰し、三司度支判官に任じられる。
嘉祐六年辛丑(1061) 四十一歳 工部郎中、知制誥、糾察在京刑獄と為る。
嘉祐八年癸卯(1063) 四十三歳 三月仁宗、英宗(趙曙)が立つ。八月、都に於いて母の呉氏が逝去し、十月に江寧に葬る。
治平四年丁未(1067) 四十七歳 正月、英宗が逝って、神宗(趙曙)が立つ。依って、詔で官として江寧府を主管させる。九月、翰林学士となる。
神宗煕寧元年戊申(1068) 四十八歳 四月、江寧から都に入る。神宗は詔で抜擢したのだ。
煕寧二年巳酉(1069) 四十九歳 二月、諫議大夫と参知政事を兼務する。皆に青田法を公布施行して、耕地の灌漑・排水事業法等を請け負った。
煕寧三年の庚戌(1070) 五十歳 十二月、中書門下平章事と同時に、史館大学士を拝し、韓絳と相を分ける。保甲法を制定する。
煕寧五年壬子(1072) 五十二歳 市易法、保馬法を行う。
煕寧六年癸丑(1073) 五十三歳 経義局を提挙する。9月、煕河で大勝し、神宗は彼の実力を認めて玉帯を賜る。
煕寧七年甲寅(1074) 五十四歳 三月、方田均税法を行う。四月には吏部尚書として、文殿大学士は江寧府の主管から外され、新法が初めて挫折に遭遇する。十月、手実法を行う。
煕寧八年乙卯(1075) 五十五歳 二月、更にもう一度、平章事、昭章館大学士に拝される。六月、左仆射発射に進んで加えて、門下侍郎を兼ねる。
煕寧九年丙辰(1076) 五十六才 六月、子の王雱が死去する。十月、南軍の節度使、同じく平章事を罷免し、江寧府を優劣・是非を判定・判断する。
元豊元年戊午(1078) 五十八歳 正月、尚書左仆射に位を上げ、皇帝の岳父として封舒される。
元豊三年庚申(1080) 六十歳 九月、尚書左仆射に加えて特進し、門下侍郎と為り、改めて封荊公と封じられる。
元豊七年甲子(1084) 六十四歳 家を寺にすることを願い、「報寧」と命名される。
元豊八年乙丑(1085) 六十五歳 三月、神宗が逝去し、哲宗(趙煦)が即位する。
司空の位を返上する。新法は相前後して廃棄される。
哲宗元祐元年丙寅(1086) 六十六歳 四月当初六日に病死して、太傅を贈られた。
後記
去年の年の瀬、夏年先生は有名人の叢書を関連付けて一括りにしようと画策していることを彼らに告げて、私にも《梁武帝》を引き受けるように依頼して来たのだが、当時、私は《輪廻中国人的精神世界》を丁度書き終わった処で、くたくたで、本を書くことには内心びくびくしていたのだが、夏貴兄は律義で人情に厚く正直で温厚な年長者であって、私も何度も助けられたことがあるので、私は断ることが出来無く、其の上、彼は経験にも富み目も肥えた編集家の一人であって、彼の話を聞くと間違いがあることは先ず無く、其処で承諾するしか無かったのだ。其の後、夏貴兄は《梁武帝》を引き受けた人が既にあったと言って、改めて、私に《王安石》を書かそうとしたのだが、其れがどんなに難しいことか私が一番知っていても、一旦前に承諾しているので、断る訳にはいか無かったのだ。其の後の数ヶ月もの間、出版社が私に連絡が無かったので、私は此のことが未解決の儘片付いて無いと勝手に思っていたのだが、心中こっそり喜んでいた。思いがけずに今年の五月に河南人民出版社の郁誠の光先生が突然北京にやって来て会うことを約束し、双方が出会うととんとん拍子に話が進み、思いも掛けずに原稿契約に署名する同意も出来て、私は急いで只一頭の大きな老虎に跨って騎乗しただけだったので、遠大な抱負がふと生まれ、一切の代価を惜しむこと無く此の書を書く決心をしたのだ。
諺による騎虎の勢いのようなもので、仏教は本職だが、私は宋史に対して元々詳しく無いので、宋代に対しては仏教と較べて分かっていることが少なく無く、文献を探り始めると、漠然として、何処から手を就けて良いか分から無かったのだ。私は正直に言って出来無いと思ったが、先ず、王安石の著作を読んでから、次には特に、宋人が書いたものを中心に、宋人に関連する著作も読んで、其の上、王安石の年譜と著作との関係を研究する為の読書を進め、宋に関連ある文化史、取分け、仏教史の著作の研究には力を入れたのだ。読むべきものは全く多過ぎて、読めば読むほど眠りたくなり頭も混乱したのだが、此の本を完成させる為には、如何しても読むべき本は全て読まなければならなかったのだ。契約に署名した以上、信用を失うことは出来無いのだ。私は先に王安石の本人の著作を粗一度読み終わって、更に、此の本があらゆることとの関連付けを要求されるものなので、こうした要求に絶対に欠かせ無い資料を選んだ心算だったのだが、動機はこうであっても、読まなければなら無なかった本は矢張り非常に見るに値するものだった。
此の本の創作の過程の中で、先輩の研究成果が私にとても大きい助けとなった。私は特に私の同僚の李祥俊博士に感謝するのは、彼が何とも言いようが無い先輩であったが、王安石を研究する面に於いては間違い無く私の先を行く人であって、彼が将に博士と言える論文《王安石学術思想研究》(原稿)を私に贈ってくれ、私に資料の選択と思想を開かす面で全く多くの利益を得させてくれたのだ。此の本は決して学術の専門書とはなるものでは無く、一般の読者を対象にするものであったので、本の中には基本的に注釈をつけることが無く、此のことは何も無ければ問題の無い試合が其の審判の歩哨の音の都度断ち切られ、観衆をいらいらさせることが無いようにさせる為だった。勿論、此のことは全書に亘って全てが決して作者の独創であることを意味することでは無く、此の本の誤りに対して敢えて人に擦り付けことが無いように、資料の採用と思想に対しては図書目録を参考となるような略備を備えたことで、作者が全ての責任を負うのだと言うことを汲み取って欲しいのだ。
要求によって10月末に基本的な脱稿、私の感じは積み重ねる1つの字−がだけある。4ヶ月足らずの(専門の読書を含まない)の時間で20万字の著作を完成して、またあまりにもいい加減に勇気がなくて、人にそしられないようにして、あまりにあまりに自分を困らせるのだ。書き終わった後に、私は誓いを出して、後で数年二度と本を書かないで、出版社は2年時間私にあげたくない限り。
王安石はある意味で特殊な人物と言え、最も論争があった人物で、王安石を書くことは意味が無いことでは無かったが、革新の弁護に於ける私の立場は旗幟鮮明に改革派に立つ一方で、改革と改革派の弱点と問題点をも回避すること無く、改革を成すのに矯めになる話もしなければならかっただ。全書の重点は王安石と仏教の関係とし、紙面の相当の部分は変法に関連するものとならざるを得無かったが、其の中には非常に優れていた見方をしたと言える勇気は無いけれど、私の立場と態度は明白にした心算である。
王安石と仏教の関係は密接であったことに間違いは無いが、惜しむらくは彼の仏教の著述が一部の詩文だけを残して、何処かに散逸して仕舞ったと言うことで、私は其の微妙な言葉に含まれた重要な意義を、遠回りだが禅を説明したりして、出来る範囲で発掘することしか出来無かったが、こうした工夫で可能な限り此の一冊に膨らみをもたせたのだ。此の本の出来栄えは、多くの処で憶測が入っていて、深く掘り下げて行くことが出来無かったのは、作者は致し方無いことと思っているが、読者には物足り無さを感じさせるものになっているとは感じられ、此れらのことは学術論文の形式で発表される将来に先送りされることは致し方無いことなのかもしれない。
本人は仏教学者であるに過ぎなく、文学、歴史学などについて多くを知っている訳では無いので、「文才に欠ける」だけで無く、更に、言葉遣いも謗られることがあるかもしれない。分かり易くものを書く上でも技量に劣り、書いているうちに、つい、学者特有の紋切り型に為って仕舞い、文は益々難解になって、理由の説明もぎこちなく、読者の困惑を大きくし、此のことを思うと、冷や汗ものなのだ。
私の検討は此の辺で終わりにし、当本の特色となると、読んだ人から意見を聞く以外無いが、其れは本が売られてからの話であった。歳末は寒いので、饒舌は適は無いが、御自愛下さい!
徐文明 二千年十二月十五日
訳及び作者後記
無論此の本は私が書いたものでは無く、此の本の意義は作者の力量によるものである。然し、訳文自体の責任は、全て訳者に掛かっている。此の書の書き物としての分野は、訳者の私にも不明であるが、啓蒙書であることには間違い無い。現代中国人から一人の古代中国人への視点を上手く訳し切れたかについては、読者に任せる以外無いだろうが、事実の記述に関しては私なりに最善を尽した心算だが自信は無い。誤りがあれば存分に詰られたい。
何れにしても、此の書に一貫して流れるのは、経世済民の思想だ。此の書は作者が王安石を此の思想の中心軸に置いて、話を展開したものと訳者は考えた。訳者は共産主義者では無いが、国家や社会には、此の思想を核として形成されるものであるとの信念は持っている。家族が一人でも重病であれば明るく無いように、同じ人間として貧困や飢餓等に喘ぐ人が居れば、国家も社会も穏やかな居場所では無くなるからだ。
長らく御愛読有難う御座いました。
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