「差別」とは、「偏見や先入観等を基に、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをするこや、其の扱い」だけが差別の定義で無く、「或基準に基づいて、差を付けて区別することや其の扱いに違いを付けることや、其の違い」のことも言うのだ。
「平等」とは、「総ての人が等しいことや其の状態」と言い、「人間に依って社会に適用する為に決められた規則の意で、主として人間の活動に当て嵌まる『原則』」を意味するのであって、「 物事を見分け、本質を理解し、正しく判断する心の働き」を意味する「原理」とは多少意味の違いがあるものである。
詰まり、「非差別や平等」意識は、「権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態」☞「近代民主主義」の基本的政治理念の一として捉えられるべきであり、今日の異状な「非差別や平等」運動は限定され「非差別や平等」の意味を或る意味狭義に限定して為されて居るものと確認すべき。
先日、確かNHKであろうが、バイセクシアル=両性愛者(両性愛 - Wikipedia)を取り上げた番組を遣って居た。
此の中で或る両性愛者の苦悩を取り上げ、両性愛者は「所謂普通?の性同一障碍者からも理解され無い」との彼等の悩みを此の番組で披露して居たが、此の中で或る両性愛者が吐いた言葉に我は瞭然とした。
彼が言うには、例えばトイレを両性愛者の為に改善すべきと言うのだ。
此の世で惨めな思いや疎外感を感じ無いで生涯を終えられる人が幾許かあろうか?大小別ありとはいえ皆苦悩を乗り越ええて暮らし生きて居るのが現実である。「日本中のトイレをバイセクシャルの為に変えるべき」。こういう輩の両性愛の原因は、欲望を抑えられん身勝手極まり無い異常性が原因なのだろう。
日本国憲法第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
👆で観る通り、近代民主主義国家としての我が日本国と雖も、総ての国民に国見民総ての平均的文化的生活を国家は保障して無い。広義の意味での「差別や平等」は守られるべきであり、人類存続の「基本的原理」として捉えられるべきものなのである。
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