魂魄の宰相 第七巻
※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。
前書き
古代の社会に於いての貧富の差は、生産物の分配の不公平から起きたもので、端的に言えば階層社会の上層の輩が低い階層の庶民から搾取した結果のものと言える。当時はどんな物も人的労力を掛け無ければ何一つ生産出来無いような社会であったので、力のある者が搾取出来るような仕組みの社会であれば、労力を掛けて生産物を提供していた庶民層が貧しい生活を強いられるのは必然のことであったのだ。大量生産大量消費が可能な今日の資本主義国家では、如何に人手を掛けずに物を生産するかと言うことが、実業で利益を生む基本原理と成っているので、古代の貧富の差と今日の社会的格差とは、其の根本では全く異なるものとは言えようが、何れも、基本的社会構造の歪みに拠る現象であることは間違い無い。
今日は誰もが行き詰まり感を持つような社会であり、多くの人が如何足掻いても未来に展望を持て無いと考えていて、実際、問題は山積し、問題を一つ解決しようとすれば、他の問題を大きくして仕舞うと言うのが、行き詰まり感の正体である。故に、個別の問題に手を加えるだけでは何の解決にもなら無いのであり、却って閉塞感を増すばかりであるのだ。
平成十八年八月某日 〇〇的窮浪人 於草庵
第七章 『世俗の慣習』は移り行くものだが殆どの人が拘ろうとも、吾は行く
一、 『世俗の慣習』に戦いを挑む
王安石は変革が巨大な抵抗を受けることを事前に予測していて、特に観念上での戦いが非常に激烈なものとなるだろうと考え、彼は『世俗の慣習』と一戦交えることに備える為に、神宗に弱音を吐か無いようにと励まし乍も、自らも困難に立ち向かわんとしたのだ。煕寧二年(1069)の春の談話の中で、王安石は神宗に対して曰:「陛下は戦えさえすれば、当然『世俗の慣習』に勝ちます。いま少しでも退けば、勝利は『世俗の慣習』のものと為って仕舞うのです」。
王安石は、変法の推進が『国家の利益』と『利益を我がものにして来た階層の利益』との攻防を生じ、『自由で創造的な精神を生む新しい思想』と『時代遅れで、保守的で陳腐化した古い思想』との間の観念の争いも生じ、此の戦いが両者の壮絶な戦いとなり、決して妥協して決着する余地など無いことを理解していた。王安石は敵と味方の双方の実力には相当の差があることが分かっていた。一見すると、皇帝が陣頭指揮を采って支持しており、王安石が中枢を統率して、中央の権力を掌握している革新派の方が有利な立場にあると見えるのだが; 学術の上から言って、其の時点の王安石の学問は立ち向かう者が無い程の勢いがあり、又、革新派の屋台骨となった圧倒的多数が皆既に官吏としての能力を持っており、更には、明経の術の実務に励む学者もいたので、新学は諸家を吸収し名実共に経世の実際に役立つ学として統一され、古い儒家の学説と比べて明らかに優位であったのだ。ところが現実はそう甘くは無く、神宗の革新への情熱がそれ程高い思想に基づくものでも無く、彼が確固とした支持者には間違い無かったとしても、革新派の陣営と固い結束を持っていたとは言えず、本当のところ双方の上に立って超然と調停者或いは統帥者然としての構えも示していたので、既得権者の障壁を打ち破ることには最初から限界があったのだ。保守派の陣営が極めて強大だったのは、神宗以外の皇族や天子の親族の圧倒的多数がこの陣営に属していて、その中は更に大多数の上層の官僚と大地主や大商人が参集していた為、この陣営には権力があって勢いもあったので、力関係は複雑に入り組んでいて、政治、経済、世論の上総てに独占的地位を占めていたからだ; 保守派に際立った古い観念は更に根強く蔓延っており、そのような独占的地位は権力を掌握していると雖も太刀打ち出来無い程強大で、中国の思想界の儒家思想の観念的基盤によって支えられ、既に一千年もの長きに亘って統治されて来て仕舞っていたので、現実として如何ともし難い面があったのだ。
王安石は、力では大きな差のある争いに真正面から立ち向かい、恐れる事無く戦う強靭な精神を剥き出しにしていたのだ。先ず、彼は、これは後に引け無い正義の戦いだと考えて、自由が独占に勝ち、公平が特権に勝つのは当たり前のことであると言う理屈からすれば、現今の風習に勝てる筈だと踏んで、個人の私利を追い求めず真理と正義の一途を通す無私な革新派には何も怖いものは無いと確信していた。当時は歴史の重大な一大転換期に入っていると彼は意識し、中華民族と宋王朝とは変化しない儘既に瀬戸際に追い詰められており、独占して来た階層と古い観念とが次々と重ねる妨害を突き破って改革を順調に進めることが出来たならば、生産力を著しく増加させ、社会を急激に発展させることが出来ると考えたのだ。そうなれば、富国強兵という最も重要な目標を実現させるだけで無く、商品経済は一様に繁栄する新しい時代を迎えることになり、更には、政治、経済、文化など各方面が生まれ変わる大変革となり、大躍進を約束し、人類の歴史を新しい一時代に入らせることが可能となるのだ。これに反して、もし改革を失敗させたなら、発展して強大になるどころか、中華民族と宋朝は衰退し続け、あっという間に凋落し、その存続さえ危うくなって仕舞うのだ。四方の少数民族の勢いが盛んであり、国の勢いが衰退している状況下では、今までの在り様では全く守り切れ無いことは自明で、困難に立ち向かうしか術は無く、困難を恐れず進むしか無いのだ。
敵と味方の双方の実力がかけ離れている情況の下で、弱小の一方が勝利を収めたいならば、一つは策略によって、二つ目には勇気がいるのだ。両軍が相対して勇者が勝つのは、往々にして『勇気』が、弱者が強者に勝つ為の宝法で、弱者が強者を負かすこともあるのだ。王安石はこの面では全く不撓不屈であり、次々と重なる圧力に直面しても困難を恐れず勇猛に進む心意気をみせ、恐ろしい形相で襲い掛かって来る保守派の包囲攻撃にぶち当たっても、岩のように高く聳え立ち、改革の軍事用の車両を巧みに操作して様々な妨害に打ち勝って、前進あるのみであった。
王安石は、保守派が極めて頑迷だと充分わかっていたので、彼らに改革への理解を得ようと強引に得させようとしても無理な相談で、間違い無く通用するものでは無かったのだ。万が一、彼らの同意を得ようと保守派に妥協して譲歩したならば、改革は最早改革の態を為すこと無く、改革に対する熱意や情熱も無くなって、それ自体次第に小さく萎んで行って、中身が無く形ばかりのものになって、最後には失敗して流産の憂き目にあったことだろう。保守派も改革派に譲歩する為に相手の身になってわが心を自省するなんぞとの気遣いを全く起こす気が無く、半歩譲っても、彼らは望みの半分でも得ようと画策し、平気で相手を騙して油断させ、前にも増して改革運動を攻撃し、終には壊滅的な打撃を目論むのが落ちであったのだ(全く何処かの宰相其の儘の図になって仕舞う)。
双方の実力が伯仲しているならば、一時期の妥協が力の均衡を破ることは先ず無いので、致命的な損害を齎すことはそうは無いが、然し、余りに力の差があるときは、弱い一方は、死を宣告されたのと等しくなる。弱い方が勢いに任せて勝とうとすれば、一度は気勢によって負かすこともあるが、総ての機会で勝つことは無く、負けるときは簡単に惨敗し、それが嫌なら寝返りを打つしか無いのだ。そのため、王安石は絶対に揺らぐこと無く確固として改革を推進し、決して妥協や譲歩などせず、改革に反対する人が、如何に地位が高かろうと、権勢にどれだけ大きく関わっていようと、どれだけの仲間がいようと、全く左右されることが無いように自身をも戒めたのだ。
王安石は改革を推進する最中に「強烈な自信を持ち強大な力が出るように勇気を出して下さい」と常日頃神宗を励ましていたのだ。それにも拘らず,神宗は改革がぶち当たるであろうあらゆる抵抗についての怠り無い備えをして無かったのだ。神宗は意見の一致が無くとも、どんな意見でも広く聞き入れる態度を採った。そのことは、彼の美点だったのかもしれなかったのだが、彼は自分の意見に自信が無かった為に、自分の意見と異なる意見が出ると、何時も動揺して自分の意見を修正して仕舞い、屡異なる意見についても耳を貸したことで、改革そのものにも懐疑を生じて、仕舞には改革を後戻りさせることもよくあったのだ。このことで保守派につけ入れられ、彼らは度々各種の捏ねを使って神宗に改革そのものと改革者を謗って、改革の足並みを妨害することを試みることが出来たのだ。
神宗は総じて双方を満足させることを望んで、一方では改革が順調に推進し続けさせることが出来て、一方では亦余りにも大きい反対を受け無い様にと、彼は為るべく抵抗を少なくした上で改革の歩を進めようとしたのだが、こんなことは当時事実上出来る筈は無かったのだ。神宗は改革を志したが、然し、どのように改革するかということに明確な答えを出すことが出来無かったので、決して「術策の根本を修めて揺ぎ無い志が立つ」と言うことには為らず、心が揺れ動くことに為ったのだ。青田法が韓琦など何人かの大きい権力を持つ重臣の反対を受けると、神宗は青田法を廃止する極端に走る意思を示したのだが、神宗が再び心変わりして正式な裁可として公布施行されることは無くなって仕舞えば、新法は言うに及ばず全体の改革運動すら母体の腹中で胎児の儘亡為っていたことだろう。実は韓琦は何が何でも新法に反対していたのでは無く、「ことは急がなければ為らぬ」と考え、それには先ず「或る地区で試行するように計画するべきで、成果を上げられた時点で更に全国で推進する」ことにしなければ、「一面では金を貸して利息をとるようにすれば、借りる時は容易いが、返すときは困難に為るということが問題になりかねず、更に官が元本で欠損を生じるかも知れず、他の一面では同時に無理やり関係者の言う通りに従うことを強いるような『刑を執行するのに縄を促す』ことになるかもしれず、民を混乱させ民を害することになって仕舞かねない」と心配していたのだ。韓琦の見識には起きる可能性がある問題の防止或いは軽減する為に取り入れるに足る理に適ったものもあったが、併し韓琦の見識全体を診ると目先の利かなさが祟って「お金の貸し出しに利息を取るのを止めるべきだ」と言う言動には矛盾するところもあって、民から利息を取った方が益しであり、更には「庶民は愚かで無知で過去のことは忘れて仕舞うことを恐れるのだ」と言って、返却され難いことの口実にしたのだが、若し完全な無利子貸付を発給するならば、庶民は自分の返済能力を考慮しない儘競って貸借をして仕舞う事は有得無いことであろうか? 神宗は、韓琦の言葉の中には理屈に合は無いことがあり、説明不足の所を見出せず、更に道理に適った一面をも正しく取り入れることが出来ずに、逆に韓琦こそ本当の忠臣だと思って、新法は人民を害する本質を持つと捉えて、意外にも青田法を廃止しようとして仕舞ったのだ。こうしたことは神宗の性格や経験或いは知識に幾つかの問題が存在した表明し、それに起因して改革が予定通り推進されて仕舞うことの心配が次第に募って行き、決断が鈍って行ったのだ。
神宗が『世俗の慣習』に断固として取り組む決心と勇気に欠けていた為、極言すれば立場すらぐらつかせ、時によっては未だ『世俗の慣習』に加担することもあったので、改革派は大変な窮地に立たされ、その結果、王安石は『世俗の慣習』に対して如何してもより一層大きい決心と勇気をもって闘いに望まなければならなかったのだ。神宗が若かった為、学と策について未熟であり、自信も無かったので、実際は少数派の手の中で為されているのに、『世俗の慣習』を守る人が多いので勢いも大きく、変法に対し多くの人が問題を感じて反対していると思い込で仕舞ったのは、『世俗の慣習』を考える力量が不足しているからだと王安石には分っていたのだ。「反対する輩の殆どが目先の利か無い世代に属し、単に直近の利益だけを貪る事を願うだけで、決して遠大な計画など持っている筈も無いのは困ったもので、此の儘『世俗の慣習』を温存させたならば、何事も成功し無いのだ」。
王安石は《尚書嗎周書嗎詔勅》の注釈の中で指摘している:「武庚は、商臣であったが周に任用された; 二叔(管叔と蔡叔)も、商に仕えていたのだが、周公旦が彼らの非凡な才を認めて周に仕えることに為ったのだが、主が未だ幼かったので連れ立って乱を起こされると国が危うくなると考えられたからだ。周公旦は、過ぎたる過去に成敗を怠ったことが、国家存亡の行方に関ることになるとは、殆ど知る由も無かったのだ。然し、文、武の後継として、上帝を司り先導する者として賢人を集めた筈が、如何して後世の子孫の十人の夫を協議で決めることとしたのだ? 大いに有望な者を切望したのに、世俗の慣習によって選んだ彼らに期待出来たものなのか?」 武庚は、周王室が商を滅ぼした後に選ばれ、周王室はその武庚を監視・管理する為に管叔、蔡叔を任命したのだが、彼らは頗る非凡な才があった為、若し彼らが申し合わせて反乱したならば、成王は未だ若年であることからして主人が幼い国が危うくなって仕舞いかねず、周室存亡の安否はどうなるか分からず、ここで壊滅して仕舞う可能性は大きいので、彼らを取り込まざるを得無かったのだ。文王、武王の二世代の聖王を通じて教化され育成された周室の賢才は多かった筈が、天命を充分知ることも出来て、人心にも準じて、派兵や出征の大事にも同意出来る者は足った十人であり、当時経験と知識があった人はこんなにも少なく、益して後世の子孫となるとなれば尚更ではないのか? 大いに遣り甲斐があっても経験と知識が少ないにも拘らず広く支持を得ようと企て、人品卑しく『世俗の慣習』に拘る人達の賛同と支持を得ようとすれば、殆ど全く何事も成し遂げることは出来ず、甚だしきに至っては国家が滅亡に瀕することを招くこともあり得るのだ。
王安石は事によせて自分の真意を述べていたのだが、正しく確実な見通しをもつ人ともなれば何時の世も少数であることは明らかであり、若し、如何しても万事を大勢で決めなければならないならば、何事も成功しないだけで無く、「国も滅びて東亜に生きる同胞諸共絶滅させることに成るだろう」。王安石は再度《尚書嗎周書嗎詔勅》の注釈の中で此のことを説明していた:「庶民の欲望の儘にすべきで無く、先王の道に従うべきである。古代にはこのことに直面した者がいた。庶民は『先王の道』の徳に黙って従う筈なのに、凡そ庶民の意思を無視して名声を高めようと、所謂『凡人が名声を求め道に背く』(何処かの宰相其の儘)の見本のように行ったので、やがて庶民から謗りが湧き上がったのだ」。『先王の道』の理をもって導くべきであるのに、庶民の欲求を枉げて王者の私利を追って仕舞ったのだ。彼は遷都について正しい決断をしなければなら無いときに、盘庚は古代の『先王の道』の手本に沿って庶民が従うように強制したので、凡そ殆どの者が反対の意を持っていたにも拘らず、めげずに遷都の計画に確信を持て実行したので、結果として商朝を一層繁栄し発展させることが出来たのだ。凡人の気持ちとして、順調に行けば称賛することになり、若し失敗すれば逆に誹謗することになるのだが、皆の一時の称賛を獲得することを狙って、取る価値も無い売名行為をすれば、只管皆から『先王の道』は無視されて仕舞うのだが、真理に素直に従って『先王の道』を推進すれば、国家と人民の全体の地に足が着いた長期の利益を収められるものなのだ。王安石は『世俗の慣習』の悪弊を憂えて繰り返し説明した主なる目的は、神宗の心配事を取り除く為で、そうする事によって、より確実に新法を推進しようとしたのだ。彼は神宗に『世俗の慣習』に対しては、総じて大変不躾に限度も弁えず、何度も厳しい批判を聞かせていた。《煕寧奏日録》の中で、王安石は自分と神宗とのある談話を記載していた: 「……例えば瓮を運ぼうとするとき、瓮の外側に居て初めて運ぶことが出来るのに、瓮の中に入っていたならば、どのように瓮を運べるのだろうか? 今天下の大改造をしたいと思っても、『世俗の慣習』を運ぼうとする人は、『世俗の慣習』から身を脱して外に抜け出して初めて運ぶことが出来るのだ; 今陛下は『世俗の慣習』の中に居て、其処に座していることから脱して無いのに、如何して『世俗の慣習』を運ぶことが出来るということを、人に納得させて陛下に耳を貸させることが出来るのでしょうか?」
王安石は弁才として名に恥じず傷つく事無く、彼の比喩は尤もらしく力学の原理に応じる非常に目新しくて面白いものであった。人を判断するには先ず自ら経験してなければならないから、溺れる深水から人を岸まで助け出そうとしても、まだそんな経験をしていなければ出来るわけが無い。神宗は往々にして『世俗の慣習』の中に陥っていて自力で抜け出すことが出来無いのであったが、それでは『世俗の慣習』を変えることなぞ出来るわけが無く、そんなことで新法を進め、『先王の道』を奨めることは無理であったのだ。
神宗の決心が余りにも固まっていなかったので、朝廷の中の大多数の官吏が『世俗の慣習』を守る側に立ったのだが、一方で、王安石を初めとする改革派は事実上可也孤立した立場にあったが、然し、王安石は決して怯むこと無く、彼は真理が手中にあることを堅く信じていた為、勇気を出して恐れ無かったのだ。司馬光は《王介甫第一書》の中で、茶化した口ぶりで王安石には次のような思いがあったと言った; 「世の中の人と奮戦し、これ一つに勝負を賭ける」; 実は王安石の奮戦した相手は世の中の人全てでは無くて、世の中で『世俗の慣習』に拘る人であり、『世俗の慣習』にぶち当たると、彼は例外無く世の中の『世俗の慣習』に勝とうと勇気を出して奮戦したのだ。
敵は多くこちらは少ないので、侮らせないようにと、王安石は新法を推進する立場をはっきりと主張して、新たな法令を守る気が無い輩には、妨害することが出来無いように工夫を凝らして朝廷が政令を造って厳重に懲罰するようにしたのだ。司馬光《速水紀聞》巻十六に曰く: 煕寧六年十一月、官吏で新法に従は無い者がいたので、介甫が重い罪に処そうとしたのだが、お上は駄目だと言った。介甫は頑強に立ち向かい、曰く: 「そうしなければ、法は成り立た無い」。 お上曰く: 「民間にも新法は頗る厳しいと訊いておる」。 介甫曰く: 「祁(安徽省にある地名)の寒暖や雨が続くのを、人民が恨みごとを人に訴えるようなものなのに、どうして心配なさるのか!」……
朝廷の法令がまともに官吏に徹底出来無いことに対して、王安石は断固とした処罰を用意したのだが、神宗が総て甘やかして仕舞うので、これが新法を進める努力を萎えさせる最も大きな原因となって益々新法を蔑にさせて行ったのだ。職責を履行しなくても、法令を守らないでも処罰されることが無いのでは、朝廷の賞罰は無きに等しく、何れも地方の勢力者の富豪の圧力にも負けて仕舞い、こんなことで本当に新法を推進出来ようか? 神宗は一歩でも前進しようと、如何なる者にも受け入れられ、抵抗が無い方法が無いかと、何処まで模索し続けるのか? 民間が新法は苦いと感じたのは、主に新法が富豪の横暴な既得権益の琴線に触れて彼らの心を不快にさせる為であったからで、彼らは不平を神宗に伝えることが可能であったので、神宗には新法は確かに民間に辛いものであると感じさせることに成功したのだ。王安石の《尚書君牙》には「冬祁は寒いと、庶民がただ恨み言を訴えた」という言葉があるが、冬が寒く、夏の日には雨が降り頻るということが人々の単なる愚痴の言葉を引き起こしただけのもので、何か役に立ちたいと考えても原因が飽く迄自然現象であると言う喩え話を載せることで、人はどうにもなら無いと分かれば反対する気にはなら無いし、人は反対してもどうにもなら無いことであれば直ぐに治まるものであって、若し万事が『世俗の慣習』に束縛されるならば、「世の中の長期間に亘る計画を立てても、それを守ることは出来無くなって仕舞うのだ」。
この記録は司馬光の妄言から出たもので、全く信じられるもので無い。王安石が新法を駄目だと思う者を処罰したかったのは事実あったが、この逸話の後半は司馬光の意図的な誹謗を含んでいて、神宗に「新法は民間に頗る厳しいものである」と言わせる為に、趙子も皇帝であり自分の権力と地位などを強化しようとする者を喜ばないことを見越して、王安石が皇帝を除け者にしようと目論む気があったと言い、精一杯の文章によって君を唆そうとしたのだ。司馬光の本意は、只王安石を屈服させようと、如何しても王安石が従わざるを得無いようにと、神宗がはっきりと「新法は単に人民を苦しめるだけでしか無い」と認めるように箴言し、「王安石は独断専行して、人民の怨嗟の声を全く無視して、敵対者を力ずくで押さえ込み、新法を強行したのだ」とも言ったのだ。
王安石は「政令は必ず執行されるべし」との商鞅の言葉に触発され、新法に反対する者達に法令を徹底させる為に、《長編》二百十巻を提示した:
お上が曰く、安石に言ったこと: 「人情はこのように入り乱れたのは、何故か?」 安石曰く:「尭の御大は度量があったので、共工と攣るむで悪事を為した驩兜を放免したのだ。 驩兜は小物しかなく、共工は『静かに話すが尋常では無く、共は極悪非道の曲者であった』ので罪は甚だ大きかったのだ。呂公が著したように、『静かに話すが尋常では無く、共は極悪非道の曲者であった』ので共工の罪は甚だ大きかったのだとされていたが、陛下が現状を色々な角度から或いは何日も掛けて細かに調べてみると、皆職位も無く派遣されていたので、公が著したものは熟達していると正直に思い知らされ、軽率に司ることを自ら自重し、其の罪は量刑を問われる筈であったのに、排除してきた三学士を呼び寄せて祝宴を開催させ、初めに其の才能と行いを言葉で褒め称えて、其の儘知潁州に留まらせることを認めず、最後に学士に詩を暗誦させて宴を終えたのだ。
このことが白日の下に曝され、天下に知れ渡って仕舞えば、何かの罪を犯しても朝廷が全く取り締まることが無いと踏まれて、子悪党が多寡を括ることにはならないのか? 陳襄、程顥らは徒党を組んでいたことについても呂公は書いたのに、誰も陛下の権勢に手を貸すものは一人もいなかったのだ。今日の世は矛盾だらけで、臣である人も狡賢く大衆には隠し事をして、嘗て程顥が「手助けをしたい」なぞと一言でも言ったことがあったのか? 専ら呂公の書によって助けられた驩兜のような輩が葬られたことで、漸く『常平法』を発布出来たのだ。「真っ当で無い意見も陛下が納得させられて仕舞う混沌とした状況の中でも、張縉のような輩が未だ皆出獄出来無かったので、顥提が、刑獄に知制誥に手助けさせるように知恵を付けたことで、何の疑いも無く獄から出せたのだ。そのようなとんでもない輩なのに、志があって行動していたのだなどと呂公が著したのだが、若しそれが正しいならば世の中の人総てに利益を齎しただろうに、その志も無く、訊く耳も無い輩を、何故に奸臣であると気づかずに、陛下は褒美までも与えて仕舞ったのか? 薄汚い盗人どもの陳襄などの輩の在りの儘の姿を、陛下が知っているのかどうかを多くの輩が心配し、追放されるのを恐れていたのだが、相手が許してくれとも言は無いうちに陛下が大目に見て見逃し、然も驚くべきは職に就けて任用までしたことは、全く尋常を逸することであったのだが、陛下を騙し続けることは容易いことで、その後も騙し続けて行けたのだ」。
王安石は『先王の道』が最善としていたので、尭が共工を流刑にし、驩兜を放免したことを例にして、譬え政治に裁量を認めるとしても限度があるべきであると説き、陳襄、程顥、張縉などが新法を承認して無いことについても、呂公が過ぎたる寛容をもって書いていたことに対し異を唱えたのだ。神宗は新法に反対する者に対しても寛大さを示したので、王安石には子悪党に悔い改めて訊く耳を持たせた上で放逐するというような適正な賞罰を与えて行くことが出来無くなって成って仕舞うと考え、そうなれば朝廷の綱紀は大いに乱れるのだが、このような子悪党が朝廷の寛容な恩に報いようなどという気も起こら無いのは当然だが、更には何の後ろめたさも感じずに皇帝を騙して仕舞い、はたまた、朝廷の法令に反対する激しさに輪をかけるようにもなり、次々と反対されて行くことだろう。そこで賞罰を適正に執行することが、狡賢い輩を一掃して有能な人材のみを活用出来るように為り、そうすることで『世俗の慣習』も次から次へと消えさせる唯一の戦略を実らすことが出来るのだ。
『世俗の慣習』を守る輩は屡よく天変、祖法、人の言などを武器として使って新法を攻撃したのだが、王安石はこれに対して断固として反撃し、天変恐れるに足りず、祖宗の法は足りず、言い分は哀れみが足りずと思っていたので、これら三つの思いを決してはっきりと言い出したことは無かったが、ところがそれは彼に対する全くの精神的支柱となっていたのだ。であるから、『世俗の慣習』は王安石にとっては罪以外の何者でも無く、益々王安石は意気盛となり、双方の立場に、はっきりとした対立軸を置き、真っ向から勝負を掛けられたのだ。
二、 天変恐れずに足らず
天象の変化を口実にして、改革に反対しようとしたのが保守派の一貫した策略であって、『世俗の慣習』を守ろうとする輩の下手な演出の一つに過ぎなかったのだ。法律制度を変えようとした当初は、保守派が次から次へとこの宝物(天象の変化)を担ぎ出して王安石を代表として法律制度の改革しようとする改革派にする猛烈な攻撃を行った。呂誨在《議王安石疏》中に指摘がある:「当時は天災が屡起こり、人心が荒んでいるので、混乱を助長すること無く、惟心を平静に保てるようにすべきであったのだ。安石が朝廷に長く居る様では、平静を保てるわけが無かった」。
呂海が保守派を守ろうとしても全く為す術が無く、王安石は「作り変える其のこと自身に夢中になっている」だけなのだと、反発を感じていた。彼は政務を水に例えて、「静かにしていれば収まるものを、動けば必ず濁る」とし、「天災や地震、人心の乱れ、などには殊更事を大きくせずに静にじっとしていなければなら無いので、王安石のような輩を引き続き朝廷に置くことが無い様に改めるべきで、より一層の非難をしなければならない」としていた。新法に反対する輩は、この問題に対して吐く言葉も殆ど変わらない同様な論調で非難していたのだ。富弼が相を解任された時に皇帝に向って進言したのは、「要は王安石が進んで小人を使うので、天は災害によって警報を発して、諸所で地震、天変地変が起こったのだ」と言い、だから「こういう時は静かにしておくべきだ」と結論した。翰林学士の范鎭「天が土に雨を降らして、土に黴が生えるのも、天鳴、地震が起きるのも、全て人民に労苦を齎す。陛下が天変地異に会ったときには、青田(法)を止めて、州県での耕地の灌漑・排水事業に経ち返って、使う者を変えれば、人心を安んじることが出来、国内外の疑いも解けるのだ」と上奏した。御史程顥も「地震が連年起こり、あらゆる方面の人心も日に日に揺れ動いているような此の時期に、逆行する動きを完全に止めるには、全て陛下が天意を測って、人文に目を背けずに徹底した調査をして本物の人材に目を向けることが肝要である」と言ったのだ。この人達は新法の根拠が全く正当であるにも拘らず反対して、全て天変地異と地震によって、民心の動揺が引き起こされていると言い、そこで出来るだけ「そっとして置く」方が良いので、言わば「静観すること」に限るのであって、早速新法を廃棄すれば、全く弊害は無くなるのだと言ったのだ。
保守派の理論はとても簡単なもので、自然と人間との感応説を極言するものであったのだ。この観念が人類の初期の混沌としている思想から源を発する中国の伝統に完璧に沿うことを重視したもので、中国の創世期の人民は一国の国民としての文化と知識が形付けられていなかった為に、自身と周りの環境とを明確に分別する能力が不足していて、其の為無邪気に人と天上、人と自然とが一体だと思っていたのだ。自然と人との一体感が自然と人との間の感応説を生んで、「自然と人とは一体なので、自然と互いに交流することが出来て、相互に感応するものだ」として仕舞った。「原始の巫術と原始宗教の理論は自然と人との間の相互感応によって裏付けられたもので、星占い、亀卜等は、他のものと人の感応を一方的に解明出来るとして天候や人文に関する全てを占い、先例として積み重なれば普遍的な法則として、実は偶然も全て必然で為される」としたのだ。自然と人との間の官能説は古今東西の全て迷信の源と言えると言い得て、その理論の根拠と思想の価値は全く言うだけの値うちも無いものである。
孔子は前代から席捲している迷信には非常に不満を持っていたのだが、彼も「天命を恐れ、大人を恐れて、聖言い分を恐れよ」と講じて,決して明確には鬼神の迷信と自然と人との間の感応説に反対することは無く、祭祀をも尊重していたが、然し彼の内面では納得することが無かったのだ。彼は「怪、力、乱、神」について語っていず、神秘主義には反対で、彼が言うところの天は「迷信を利用して人民を愚弄する」だけのもので、天命とは祭祀を通じて道徳を広める為に世間の人を戒めるとされるが、本当は決して如何なる天上の神も存在するとは思っていなかったのだ。
孔子の現実主義の思想は孟子、荀子を得て一層光彩を放って、特に荀子の影響は大であった。荀子は《天論》一文の中で公然と『星が降り、木が鳴くのは総て自然現象である』と言い切り、「天変地異を陰陽の気」と怪しんで、その上天変地異が人文と関係があるなど恐れる必要は無く、「風雨が予期出来無いから、或いは日常の暮らしが儘なら無いからと、星占術によって運命を見るのは可笑しなことで、天には法則など無いのだ。上が政治に明るく安定させていれば、世に何が起ころうとも、傷は浅いのだ; 上が政治に暗く危ういならば、喩え一人の者と雖も、救えないのだ」。荀子は日食と月食、度々の風雨に因る災害、怪しい星の出現などは、総て自然現象であり、何時の時代にもあることで、何ら怪しいものでも無く、君主が賢明で、政治を上手く運営出来るならば、譬えこれらの現象が一斉に現れたとしても慌てる事は無いのだ;
若し君が愚かで無知ならば、政治は機能せず、どんな災害や事変が起きても、疑いも無く危機的状態に陥るのだと言いたかったのだ。
漢代の董仲舒は漢武帝に「百家を罷免して、儒家を全面的に振興させて下さい」と煽って,儒家を盛り返すことに功労があったのだが、にも拘らず彼は孔子、荀子が見放していた迷信を再び取り入れただけに留まらず、「一層光彩を放つ」のは、「自然と人の間の感応」であると吹聴したのだ。董仲舒の本意は単に迷信を吹聴するだけのものでは決して無く、君主の意向を制限するものを取り外すように統治者に警告することに因って,あらゆる面に弊害を齎したことは紛れも無い事実だった。
保守派は、逆にその弊害を齎した『感応交流説』を新法の「対抗馬」として大いに広めようと、完全に「自然と人文との間の感応交流説」を継承したのだ。王安石は自然と人文に関係に対して中途半端な態度を採っており、自然と人文とを相分けることには反対したにも関わらず、自然と人文とは全く関係が無いと言明したのだが、一方、自然と人文との間の感応交流を絶対視することは自然と人文とが常に関連を持つことを意味すし、万事に対して偏った見方を作り兼ねないので反対し、彼は《洪範伝》中で指摘している:
一角の人とは自然と互いに助け合い理を以って万物を治める者ではあるが、自然の森羅万象は常態を定めることが無いので、不安に慄き思い直して意を決し、更に其の意志を固めるのだ。天災が起こるのは我の一罪の故と考えるのと、天災と我とは関係無いと考えるのとは、両方共誤りで、前者は何とも消極的で、敢えて事実に直面して無く、後者は自分善がりで等閑な考えだ。そこで覆されることを怖がらず、強いて等閑にするでも無く、世の出来事を冷静に観れば、天象と人文とは一つのものではあるが一々対応するものでも無いのだ。
自然と人文との関係を完全には解明出来無かった為、王安石としても自然と人文とが全く関係無いと言い切れ無かったにも拘らず、彼は二者が完全に関連したものだとの見方は採ら無かったのだ。《詩経?鄭風?子衿》の注釈の中で、彼は「人がこの上ない孝を尽くす。これは人の道に従うもので、天道に及ぶものでは無い」。意味は天道と人道とは互いに異なったもので、天道は人道より高くあるのだと言うことである。こうした考えには彼が未だ道家の思想を受け入れていたことを表し、《詩経?小雅?谷風》の注釈の中で、彼は「長い間掛かって育んで来られた人格は、多くの人々を引き付け、正しく徳の大きい人物を造るのだ。然し何時かは衰え死ぬと言うことを免れることは無く、如何に人品怪しからぬと雖も、免れ得無いものが有るのだ。何れが此の人に為すか?自然。仮初めにも自然としても、況や人としても」と著しているが、意味は自然というものは、決して道徳について関与することは無く、「自然が慈しみを持つことは無く、優れた者が関与して善を為す」のであり、春は生かすも秋には殺し、長く育み、平穏であれば毒し、人が成功しようが、失敗しようが、すべてのことに関与せず、人と人との関係には人道が絡み、天道の入る隙間は無い筈で、天道は何もせず、関与するでも無く疎んじるでも無いものなのだ。
王安石は自然と人の関係に或る種中庸の概念を創り出していた。一つは自然と人とは、人間も自然の一つであると言う事実から間違い無く関連があり、永遠にこの関係を断ち切ることが出来無いということであった。二つ目は、自然と人との間の神秘的な相関を君主の権威を制限することに用いることが出来ると認めた為で、君が人民に無闇矢鱈にことを為すことを抑えるようと目論んだのだ。等級の世では、下層の者は上に従うしか無く、上も更に其の上に従い、皇帝たる君主のみが絶対的権威を持っていたので、何かで君主を制限しなければならず、自然現象や天命に頼らざるを得ず、完全に神仙の関与を否定するならば、君主にはどんな制約も無く、大変危険なことであった。富弼は「天変地異は運命であり、人文に関係無く利害損得を致すのだ」との王安石の発言を聞くに及んで惟驚いたのだが、道理として「君主は天を恐れるべきで、恐れ無いならば何事も人民に為すべきで無い」と言った発言時には更なる非常な驚愕を覚えたのだった。
王安石は、自然と人との関係の面での考えを、或る時点を境に全く変えたのだが、以前、彼は自然と人との間の神秘的な相互依存を認めていて、或る種妥協した意見を表明していたのだが、その後、保守派が自然と人との間の神秘的な交流は常にあるものだとの考えに拠って新法に反対する戦術を採り始めたので、彼はどうしても態度を変えざるを得無いと考え、転じて天変は恐れずに足らずと強調したのだ。こうした最中にあっても、その他に大きな障害があったのだ。新宗は天命を決して恐れ無いなどと言うような世を憚ら無い狂暴な君で無いどころか、余りにも自然と人との間の神秘的な交流を信じ過ぎていたので、事を進める中にあっても決断力が無く、天命を恐れて、人の言を恐れて、祖先を恐れて、恐れたものが多過ぎて余りに心配性であったのだ。そこで王安石は、彼が天命を恐れて仕舞う観念を捨てられるようにと、「多くは一切恐れるに足ら無いことである」と談じ、神宗が本来持っていた自信と勇気を引き出そうとしたのだ。《草稿》二百五十二巻煕寧七年四月の一段の対話を記載する:
長く干魃が続いていたので、顔色にも憂いを見て、臣が補佐しようと御目見えすると、溜息混じりに懇ろに悲しんで、「どうしても保甲、方田などの事を免じたいと思う」とのたまった。
王安石は言う:「水害・干害の何時の時代にも常に起きているので、尭、湯はどう対拠したものか。陛下の即位から、豊穣の年を重ねている; 今日旱魃に会うが、然し天災に対応する人文を尽くそうとしても、それに役立つ人材や学識が不足しているのです」。
上が言う:「如何に為すかを詳しく説明してくれないか? 朕は分ってはいたが今のところこのような者達を育て上げる人文を尽くして無い」。 神宗は長く続く干魃は雨が降らない為であり、自らも戒め、朝殿に上がることも避け、常膳を減らして、また何度も日を選んで祭祈に臨んでいたのだ。
場内の喧騒から遠く離れた廟の社稷に官を差し向け、寺院で祈祷をさせたりしたが、何も得る所が無く、溜息を就くだけでは無くて、驚いたことには新法の推進が厄害を齎すのだと言う保守派の諂言を信用して、意外にも保甲、方田などの法を廃棄したいと思ったのだ。このように天を恐れて慎重に為り過ぎ迷信に惑わされがちな皇帝に対して、王安石は、当然天命を恐れる必要なぞ更々無いとし、水害や干害などは何時の時代にもあるもので、恐れずに足らず、譬え帝の尭や湯或いは武のような聖王であっても皆水害や干害の災害を避けられるものでは無かったとして、水害や干害が政務や人道と直接関係してい無いことを力説して、神宗の即位の時からこの方毎年豊作が続いているので、一時点の干害が上天の罰の現れだとは何の根拠も無い戯言で、天災には人文を以って早々の対拠に尚一層励めば、余りにも深刻な憂慮をする必要は無いと説得したのだ。神宗は此の説得を非常に重く捉えて、彼は自分の迷信を捨て、自分の憂慮の原因が天災に拠る警告にあったのでは無く、実は人文への配慮が無かったからだと悟ったように装ってはいたが、実は彼の内心は矢張り干害と新法の推進とは関係があると思っていたのだ。
王 安石は天災と人文との関係がそれ程大きいものでは無いと思っていたのだが、その理由は、「尭、湯等のような聖王のいずれも水害や干害の災害に出会って来たが、彼らに道徳感の不足があり、それらの災害も、雅か彼らの政治的原因で引き起こされたとでも言うのか?」との疑問があったからだ。「謹んで人文を補強して天災に対処する」ことで損失を減らすことに専念すれば、少々の干害などは心配する必要は無く、この観点は王安石が以前批判した「天災地変は天が為すものと聞いても、どれだけ私が喜べると言うのか? 人文に手を入れる私の責任」を「疎かにして来た」と言うことと丁度一致したのだ。
王安石の忠告は神宗に対して余り大きい影響を与え無かったようで、彼は「死んでも自然と人の間との神秘的な交流が古臭い説だと思うことは無い」と言ったのだ。煕寧八年(1075)の十月七日に始まって十九日迄、彗星が降ったのだが、これも自然現象に過ぎなかったが、神宗皇帝は天上が啓示を発したのだと思って、何度も皇帝の詔書を王安石などの政権を握っている大臣に直筆し、皇帝に得失を率直に述べるようにさせ、民と力合わせ易いように政務に手を入れ、これより御前の宮殿にも行かずに、食事の量も減らしと自らを検め、詔に拠って内外の文武の諸官吏に朝政の至ら無い処を直言させたのだ。この詔書は、表面上皇帝自身を責める詔であったが、実は政権を握る大臣の不満に思うところを探る意を含んでいて、その不満の中の「民と力合わせ易いように政務に手を入れ」と言うものは、新法には不利な意味合いがあるものだった。保守派の首脳陣の富弼、張方平、呂公などの人物は直訴の絶好の機会が来たと思って、次から次へと上奏して新法を攻撃したのだ。富弼は海千山千だったので、言葉を吐くときは慎重であったが、張方平は頻りに「新法は天下を害する」と責立て、其の上「天変地異が陽を侵し陰で覆う」と語り、「王安石が権力を持ち過ぎて」と、「臣としての自覚が無い」とも言ったのだが、呂公は晏子の言葉を引き合いに出して筆を走らせ、「天には彗星が振り、不浄なものを取り除く」と言う意味は、「古いものを取り除き新しいものを打ち立てる現象である」 と言うことで、皇帝が天に従うように変わることを求めて、「薄汚れた布陣を改め本物に印新する」とあって、実は神宗を要して新法を廃止するように目論んだのだ。
保守派にことよせて自分の真意を述べることに直面されて、王安石は旗幟鮮明に反撃して、彼は指摘したのだ:
晋武帝五年に、臣等は彗星が空一面を蓋うのを見た; 十年、また彗星が出現したが、其の在位二十八年にも出現したと言うが、《乙巳占》に書かれている所と在位の期限がとは合無かったのだ。天道を凡そ遥か遠く、人道は身近にあり、先王が官の上に立つと雖も、者の人文(力)を信じた。天文の変化は尽きること無く、人文の変化も已むこと無く、上下の別無く或いは疎遠に或いは身近に襲い掛かり、如何しても一致することが無いものなのか? それだからこそ信じるに足ら無いのだ。
周公や召公は如何して成王を欺いたのか? 其れは「祖先を同じくする一族が国を治めるのが長かったからだ」と言うのだが、厳恭寅が「天命を恐れて、敢えて安寧を乱すこと無く民を治める」と言ったのは;「多くの年数をかけて徳によって夏から商に変えるべきだった」と言いたかったのだ。裨竈は「火急にその効果を図るには、厄除けのお払いをしなければ為らない」と言ったのだが、国僑は訊く耳を持たず、曰く:「鄭が火急だったのは言うに及ばず」と言って、僑が終始取り合わなかったので、鄭は難を免れたのだ。
裨竈のあり様は、出鱈目だとの謗りを免れ無い; 況は、当時は些細な実績しか無いのに、如何して道理に適うと言えるのか! 占いの書を世間に公表もせずに誤った儘写し替えたものを独り占めして伝えていたので、何も得るものは無かったのだ。陛下に服して善く徳は積んでいたのだが、中宗は余り優れているとは言い難がったので、周公と召公は「どれだけ贔屓目に見ても、如何しても馬鹿馬鹿しい程出鱈目だと言うしか無い?」と言ったのだ。
王安石は彗星の如く現れた晋の武帝を引き合いに出し、武帝の在位は二十八年に達したとするのを例として、星占は頼みとするに足らずと説明した。天道は遥かに遠く知り難く、人文は身近で分かり易いので、それ故先王が官吏を掌握して、決して過度に重用することは無かったと雖も、信じていたのは惟人文(の力)のみであったのだ。天が為すことと人文との変化は関係無く続くもので、若し只管こじつけようとするならば、偶には一致することも無いとは言え無い程度で、このような偶然の一致を何故に普遍的な必然の真理として信じるのか?
周公は、雅か成王を騙そうとしたものなのか? 彼らが殷の中宗の在位の期間が長かったことが原因だと談じた当時は、天命を恐れ敬い、厳粛に恭敬し称えていて、全て皆が敢えて安寧を貪ろうとすることも無く、自ら修練を重ねて民を治めていたにも関らず、政務は荒廃していたのだ; 夏商二代が何故に国を久しく伝えることが出来たかは、惟徳のみに拠ったと言えよう。鄭国の裨竈が火急に異変ありと予言したことが、案の定適中して仕舞ったので、彼は機会を捉えて国僑に神に縋って災害を払うように懇願したのだが、国僑が話を聞いてくれ無いので、彼は我が言うことを聴かないならば再び災いが起きると脅して言うことをきかそうとしたにも拘らず、国僑は訊こうとしなかったのだが、結果としては二度と災いは発生し無かった。このように裨竈のような人は出鱈目だとの謗りを免れなかったとしても、今となってはどうでも良いことではないのか? 代々星占いの或る種の書籍を広めることを禁止していた為、書を書き写した書を更に書き写して、亦、書き写した時には誤りもあり、更に誤りを加えて行く事に為ったので、今日迄も広く伝わっている書も全く信頼に足るものとは言い難い。王安石が婉曲に「召公の言葉を訊くと直ぐに自然と分かるのだが、皇帝がこの様に賢明な周公に良く似ている」と言ったことには、この道理を惟二人の宮と皇太后だけに伝えるべきとしたことに更に説明を加える必要は無いと言う意味も含まれてはいたが、こうしてあげることで彼女達の心配を取り除いてあげられたのだ。
当時王安石は自然と人との間の如何なる神秘的な交流も全く認めていなかった。彼は彗星の出現が全くの災害で事変では無いと思っていたので、そうで無ければ晋武帝の在位が二十八年の長期に亘って持った訳が無いのだ。天象と人文とは全く無限に多い態様を起こすので、二者に無数に起こる中から「一つや二つ」が偶然に一致することが在ったとしても、こんなことは偶々起きることで、然も全てが偶然のことで、その一致は根本的に信頼出来無いことなので、天道と人文の間には本当は全く関係が無いのだ。先王には占事があったが、実は本当に信じたのは人文であり、占は唯の気休めであったのだ。周公や召公の立場は、政務を荒廃させ無いように公達のような聖人を呼んで皆全てが徳を強調して政治を為し、人文を重んじて、決して如何なる天変のことを気に懸けることは無かったのだ。鄭子産は裨竈の脅しに動ぜず、災害の厄払いをせずに、結局裨竈の二回目の予言が外れて仕舞ったので、彼が一回目に為した予言が偶然に中ったもので騙しただけのものであった事が証明され、本当は決して予見する能力など無いことが分かったのである。裨竈が星占術で自ら誤りを起こした話が次々と伝わり広がっているにも関らず、又もや懲りずに間違いを続出して仕舞った星占術で人文を予測しようとしていたことは、恥の上塗りで悲しむべきことである。このように王安石は自然と人との間の神秘的な交流に因って天災の兆しがあることを全く否定していたので、彼の初期の時点に結構大きい天災が発生した時も、「天変恐れずに足らず」と彼は神秘性を総括した思想を一体化したことは全く正しいことだったのだ。
王安石がこうして天変を意識的に恐れ無かったことは、まだまだ道家には天道の観点を継承して用いることがあったとは言え、一方で伝統の儒家思想の中での現実主義、唯物論と無神論などの合理的な要因を吸収して一層光彩を放つことで、仏教での道理(『義理』)の継承をも発現するきっかけを為したのだ。
仏教が始められた初期には、有神論の婆羅門教が真っ向から対決して構えたが、所謂天上の神が人と彼の周りにあるものの運命に対して何かが関与する能力を認めずに、断固として神の権威を否定したのだが、甚だしきに至っては仏陀さえも人の運命を左右することは出来無いという考えの基に、人の運命は決して天或いはその他外部からの力で左右されるもので無く、全く本人次第であるとの考えを固めたのだ。仏教の根本原理としての輪廻と因果応報はこの原則を凝縮して体現ものだと言えよう。仏教は、人の運命は総てその人自身の行為から齎されるもので、必ず後の結果には始めに原因があって、善行をして福、凶悪であることをして災難に遭って、そこで選択権は完全に総て人の行いにあるので、自分の手でその人の運命を決定することが出来るので、人に影響する如何なる力もが外部の要因に因って影響されるものでは無いとの考えなのだ。この原則によって、神霊の存在は重要では無く、彼らが人として同等な生命を授けられているとし、因果律に拠ってのみ支配されるもので、そのことから解放されることは無く、それ「後悔は先に立たず」と言う思考を生み、考えに拠ってはどのようにしたら災い転じて福とも成すことが出来ようか? あらゆる天物には皆全て生命は無く非情なもので、人に比べて位が低いものが多いので、その運行の変化と人類社会は少しも関係が無いので、全く俗世間の政治の損得の徴候とする所以は無いのだ。王安石は、当初は公然とは受け入れられなかったのだが、併し仏教のこの思想が彼に与えた影響には大きなものがあったことは間違い無いのだ。
「三、 祖宗の法は不十分である」に続く
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