細かいことは、此のブログの外の投稿で書いて居るので省くが、選挙などの時に自民候補の世話を焼く輩が地区々に居るが、国地方に関係無く選挙に当選させて貰った首長や議員は譬え法律を枉げても政治力を使ってまで相手が居れば黙らせ、件の自民党員を援助する。我は若い時から日本民族派の保守であるが、無論売国自民は赦せ無い。然し、自民党員は今や保守の仮面をさっさと脱ぎ棄てゝいる。今回の我が振り被った農道に関する禍も斯うした輩に独り立ち向かうことを強いられたのである。
【農道を前面に接する私の敷地は農地の宅地転用をされた後昭和63年11月に建築確認されてたものである。】
宅地転用許可も建築確認も道路整備の有無を農業委員会や特定行政庁が市町村や県庁や土地改良区や消防署等々に確認して許可?を頂けるのである。農業委員会は市町村から独立した機関であるが宅地転用にあたっては許可が適当であるかどうかは市町村もの確認をとっている。
処が、昭和58年に面的整備が完了したとされる我宅地前の農道は、厭く迄特定行政庁が苦心の上、例外的に与えられているものである。本来、都市区画区域で新たに宅地化された宅地に一つしかない道路は4.0mの公道にするしかないのである。処が、件の農道は盛り土を繰り返し、昭和63年の我が敷地の建築確認申請の添付図面では、道路4.0mと我敷地の間に幅0.90mの水路が在り、農道の水平幅は、現在よりも0.50m大きく、此れは農道の地番高が現在よりも0.50m以上低かったことを示す。此の時点でも、農道の地盤高は農道造成前よりも平均0.50m高かったと我には推定される。今の地盤高は、其れよりも0.50m高いと推定され、其の時の土地改良区の盛り土で既に消滅していた幅0.90mの水路跡の痕跡は盛り土の舌と成ったと思われ、畑土は其の上にかぶせたものであるだろう。
しかし、其の後4年以上経った平成4年に当該農道の換地処分かが行われ(農道前面敷地の地権者の我を立ち会わせることなく)、其の後30余年も農道の阿蘇市への引継ぎは行われず、我の敷地前面(延長36.0mにも亘って)に行く荼毘化の盛り土に依って新たに造られた水路大開口(最大幅1.70m)が醜く横たわり続けている。処で、平成30年に建築基準法の改正があり、4.0mの道路幅の農道は、建築基準法の農道とされたので、〇〇市と土地改良区は直ぐにも大開口水路を埋めて街渠を造ってを使ってまで相手が居れば黙らせ、件の自民党員を援助する。今回の我に振り被った農道に関する禍も斯うした輩に独りり、田側法面の崩落星の為に其の法肩に幅0.40mの路肩を造り、都合道路幅4.4mの公道を造る責務を果たすべき。
処が、如何やら○○市や〇〇県?は、
選挙などの時に自民候補の世話を焼く輩が地区々に居るが、国地方に関係無く選挙に当選させて貰った首長や議員は譬え法律を枉げても政治力を使ってまで相手が居れば黙らせ、件の自民党員を援助する。今回の我に振り被った農道に関する禍も斯うした輩に独り立ち向かうことを強いられたのである。
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