魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【陰謀と偽造の共産中国の1927年南京事件】①

2015-10-10 22:43:28 | 国際・政治
 支那事変時の国民軍には更衣兵という呼び名の兵士達がいた。所謂、中華民国軍の兵士達が民間人に化けてゲリラ活動をする為に民間人の格好をしたものであった。日本軍が南京城の内部に入った後、多くの日本兵は、更衣兵のスナイパー等によって殺されました。夜中に南京城の壁の上に立っていた歩哨の兵士達は、屡狙撃された。多くの仲間を殺された多くの日本兵は、更衣兵を探して殺害しました。南京城の内部に向かって砲撃によって負傷した中華民国陸軍の兵士のほとんどは、日本軍前ラウンド介護施設で処理されていたし、次にそれらは彼の故郷に戻されれました。
 では、何故、中共は「日本軍南京大虐殺」をでっち上げ、捏造する必要があったか?
 実は、当時、南京事件は1927年と1937年との二度あった。日本軍による南京城入城は1937年でした。

 1927年に北部遠征軍(国民革命軍)が強大な軍隊を率い、上海に近い南京に入りました。北部遠征軍に入った共産党員は、領事館、学校、企業や外国の住宅で、日本、英国やアメリカ諸国の人々を襲いました。恣に彼らは、大虐殺、暴行、および略奪を行ってきました。暫くすると、女性や子供を含む数百人の一般市民も略奪に参加しました。女性に対する暴力、略奪のための人体破壊は途方もなく悲惨な光景でした。毛沢東が指導者だった共産主義者だけのスローガンは、帝国主義の打倒でした。彼らは外国人に対して酷い残虐行為を行う場合でも、彼らは赦されると考えていました。

 無論、英国、米国は激怒しました。そして、両国は揚子江の軍艦から南京への砲撃しました。英米両国は「日本も一緒に行動しよう」と呼びかけた。しかし、日本の駆逐艦は、揚子江にあったが、日本の軍艦だけ反撃に参加しませんでした。それは日本政府は「中国を刺激すべきではない」という指示を出していたからです。日本の軍艦は、避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下流に向けて逃げ帰った。イギリスは日本に住人を守るための共同部隊をしようとする提案していたが、日本でもこのことについても応答しませんでした。当時の日本政府は、しのはら外交の不干渉主義だったことと、尼港事件のように日本人全員の虐殺を恐れたためであった。

 支那兵は日本が攻撃しないと知ると、日本領事館に押しかけ、暴行と掠奪を行なった。このとき、領事夫人は27人に輪姦され、30数名の日本人婦人は少女に至るまで陵辱せられた。その時、日本領事館員も日本軍人も、避難してきた日本人居留民も、まったく抵抗しなかった。海軍の旅団も武器を持たずに、領事館に存在していました。誰もが長江中に存在していた軍艦に収容されていますが使命を果たすなかったとして、日本領事館のセキュリティを担当した荒木海軍大尉はそれの後に自決した。

 南京事件の結果、避難者たちは退去令が出され、其れ等の日本人総ては財産も放棄して殆ど何も持たずに揚子江流域から内地に引き揚げざるをえなかった。日本の外務省が被害は軽微だったような発表したので、居住地の住民だった被害者は激怒しました。しかし、彼らは外務省によって沈黙を余儀なくされました。

 南京事件を起こした軍隊の政治主任は共産党員だった。南京事件は蒋介石に退位させるためのソ連のコミンテルンとシナ共産党の陰謀でした。英国は、それに気づいた直後にソ連との国交断絶しました。
蒋介石は共産党の陰謀に気づいたとき、彼は共産党勢力の大粛清(上海クーデター)を実行していました。

次回に続く

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