「宗教」 実は、人間、そして資本主義を理解するためには、大きな要素を占めていると思う。だが、宗教倫理と無縁な天星には、理解が難しいのであった。さて、本題に入る。「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。「死にいたる病とは絶望のことである」 わかんなーい。読解できない。難しい。『死にいたる病』の書きだしだ。
キルケゴールを再び手にしたのには訳があった。これを説明する。「ニーチェが外に向かうヨーロッパ精神の動きをとらえようとしたのに対して、キルケゴールは、内へ内へと沈潜するキリスト教的ヨーロッパ精神と対決し、自己崩壊した。しかし、キリスト教精神が人間存在と世界とのかかわりといかに深く切りむすんだかはパスカルとシェリングを見ればはっきりするだろう。
パスカルが宇宙の沈黙を前にして動きがとれなくなったのはよく知られれいるが、シェリングが、人間存在の本質を自由ととらえて、自由のもつ恐ろしい二面性を描き出したことはあまり知られていない。シェリングの『人間的自由の本質』はドイツ観念論哲学の、ひいてはヨーロッパ全哲学史の最高傑作であることを強調していたのは下村寅太郎であった」
この文章は、『論理哲学論考』(ちくま学芸文庫版)の訳者である中平浩司さんの「訳者あとがき」の解説であった。分かるような気がした。もちろん、パスカルもシェリングの主著は読んだし持っている。キルケゴールが終われば、この2冊を、また、読んでみようと思っている。ニーチェは、春から夏にかけて、読みこんだ。 、『論理哲学論考』も、なかなかの深い本だ。20世紀最大の哲学者(ハイデガーがいるので、自身は賛成しかねる)とも呼ばれるだけあって。こちらも、かなり表紙がくたびれてきた。何度も、読み返している。哲学書とは縁が切れない人生になった。10代の思考体験は、死ぬまで続くのが分かった。