(友を語ったら、異性のことに触れないわけには行かない)。君子の交わりが淡々としているのはいいとして、男女の交わりが淡々としているわけにはいかないかもしれない。男はなぜ女に惚れ(まれに男に惚れる人もいる)、女はなぜ男に惚れるのだろう(まれに女に惚れる人もいる)。恋愛はお互いが特別な関係であるという幻想ゲームで成り立っている。相手が諾と言ってくれなければ、このゲームは始まらない。少なくとも特別な人間関係であるというゲームを共有するふりをしてくれなければ、始まらない。
ほとんどの動物では、セックスは単なる自然現象であって、恋愛といった複雑な心的な機構とは無縁であろう。人間でもそういう人がいるが、互いに合意の上であれば、愛があろうがなかろうが別に何の問題もない、と私は思う。他人のセックスのやり方に干渉するのはよけいなお世話である。これは絶対に本当のことだけれども、惚れられる楽しみよりも惚れる楽しみの方が奥が深い。惚れるのは能動的だからだ。難攻不落の女に惚れて口説いたときの喜びは、生きていて良かったと思えるぐらいのものだ。
恋愛とは幻想と幻想を交換するゲームである。恋愛の幻想は必ず醒める。両者の脳は違うので同時に醒めることはない。しかし、どちらかの幻想が醒めてしまえば単なる他人に戻ってしまうのだ。その後は淡々とつき合うしかない。結婚は契約だし、セックスは運動だから、恋愛から独立していても不思議ではないのだ。結婚は契約だから、最低限の契約を守りさえすれば、お互いに相手に干渉しないのがベストである。結婚相手は自分と最も親しい友人であり、時に幻想を共有する同志なのだ。
最後に、性的な関係について簡単に触れておこう。お仕事でセックスをする場合は別として、セックスは楽しみのためにするものである。楽しくないセックスはしない方が良い。セックスでも重要なのは、相手をコントロールしようとしないことである。互いに自由であり、いつ別れても文句は言わないという黙契の上で、今日も会えた、というのが、どんな場合でも他人とつき合う醍醐味なのだ。
正直、天星の理解を超えた領域かもしれない。あるいは、これまで言葉・文字で表現してこなかった(表現できなかった)だけのことかもしれない。確かに、惚れた自己(精神)に関心を持つ。しかし惚れなくても人体(肉体)に関心を持つことがある。惚れた相手の自己への関心と人体への性欲は別物なのか。多くの場合は同時にどちらにも関心を持つのだけれど。もうここは恋愛小説の格好のテーマだね。(実は、村上春樹さんの「スプートニクの恋人」を同時に読んだのだ)。まったく柄にもない話だけれども。