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意思による楽観のための読書日記

徳川家康の江戸プロジェクト 門井慶喜 ***

2019年正月にNHKでドラマ化され放映された「家康、江戸を建てる」の著者が家康による江戸プロジェクトを掘り下げた一冊。2017年に松江城で江戸城初期の絵図が見つかり、1607年ころの江戸城の詳しい見取り図であることがわかった。まだ豊臣家が滅亡していない頃であり、江戸城の周りの武家屋敷には「羽柴」姓の屋敷が立ち並び、家康監視の目を光らせていたことがわかる。天守は姫路城のような連立天守で、本丸南側には熊本城と同様の曲輪による敵への防御の仕組みがあったことがわかった。発見のきっかけはこれもNHKの大河ドラマ「真田丸」、真田丸復元考証のプロセスであった。

天下人が秀吉だった頃に、家康は三河、駿府、遠江、甲斐、信濃を手放し関八州を領地とするよう秀吉に持ちかけられた。関八州といっても当時は広い平野に寒村が広がる土地であり不利な取引だったが、家康は受諾せざるを得なかった。首都を小田原にせず江戸としたのは、この地に将来の可能性を見たから、というのが筆者の推察。太田道灌による城郭と東と南に遠浅の海、西側は茫々たる萱原、北側には農家が散見される平野だった。

最初に計画したのが水の制御。氾濫を繰り返していた利根川の流路を付け替えた。必要とした期間はなんと半世紀、命じられたのは、一度は一向衆叛徒に味方したため追放されていた伊奈忠次。甲斐国で土木技術を身につけていた。当初、利根川は数多くの支流に分かれて江戸湾に流れ込んでいた。流路が綾のように瀬となっていたため「綾瀬」と呼ばれる地域。現在の隅田川、江戸川あたりに広がる大湿地帯だった。

1594年、利根川の支流の会の川を締め切り、1621年にかけて渡良瀬川との合流域に遊水地を造り、新川通り開鑿を実施した。続いて1624年から30年もかけて現在の利根川の流れとつながる赤堀川開鑿を行う。1629年には元荒川の流れが現在の荒川に流入する入り口を塞ぎ、毛野川と当時呼ばれていた鬼怒川の大木丘陵開鑿と龍ヶ崎の小貝川付け替えにより流路変更をする。渡瀬遊水地から利根川への流路とするため、1641年からは逆川開鑿、江戸川開鑿を実施。1666年から69年にかけて取手付近で利根川の流路を変えながら、佐原へと抜ける新利根川開鑿を実施してこれが開通するのが1666-1669年。将監川開鑿が1676年で、ここまできてようやく現在の利根川流路がほぼ完成するのである。現存する川を徐々に東方面に向けて流れを付け替えながら流路を開削するという途方も無い巨大事業で、伊奈忠次から三世代に渡る大プロジェクトだった。

もう一つの水のプロジェクトが上水開発。神田上水と玉川上水である。譜代の家臣大久保忠行が家康に命じられて開設したのが最初の上水。赤坂の溜池、神田明神山岸の湧水を水源に神田流域に上水を供給したことで、飲料水確保はできたが、江戸の町発展にともない、それではとても水が不足した。井の頭池を水源として江戸城までの30kmを堀でつないだのが神田上水。井の頭池から東に掘り進み、下高井戸近辺で北東に曲がり、落合で再び東進、江戸市中では水路内部を石垣で固めた。文京区関口で一度水をせき止めて水位調節をする「角落(かくおとし)」という仕組みを作った。神田川が人工的に東に流れるように掘られた仙台堀の上を通るのが「水道橋」と呼ばれた掛樋で、広重の絵画にも残される。水の合流地点で「落合」、水をせき止めたので「関口」、掛樋を掛けた場所が「水道橋」、その水でお茶を飲んだ場所が「御茶ノ水」と多くの地名が残る。もう一つが多摩川羽村取水口から43kmの距離を運んだ玉川上水、玉川庄右衛門と清右衛門兄弟が開通させた。こちらは大変な難工事で、神田上水の主要部分が2年ほどで目処をつけたのに対し、玉川上水は半世紀をかけて開通した。

流通経路の開拓も江戸の町発展には必要不可欠だった。行ったのは河村瑞賢、東廻り航路、西廻り航路の開発である。東北米どころの米俵を江戸に運ぶには、酒田を出発するにしても、十三湊、青森、宮古、気仙沼、石巻、銚子を回る東廻りが有利だが、銚子沖の海はいつも荒れていて安定的な航行が難しかった。そのため、経路は遠回りになるが、途中の特産物を混載し、一大商業地だった堺を経由する西廻り航路が安全な航路として発展した。これらの航路開発の前には、琵琶湖航路が日本海側から京都、堺に向けての主な流通経路であり、信長、秀吉が琵琶湖畔に城を建てて重用した理由にもなっている。

金鋳造も江戸の町発展には重要な要素だった。つまり流通する貨幣の統一と信用の付与が幕府にとっては、商業振興のための必須条件だった。そのため、京都にいた金鋳造師、橋本庄三郎に貨幣鋳造を命じ、慶長小判を作った。金含有比率85%という高品質で、関ヶ原の戦い後発行され、これが全国的に通用することで徳川幕府の信用につながる。ついで銀の鋳造所も江戸の町に造り、金座、銀座と呼ばれる。その後、時代が下るに従い金含有比率は下がり、幕末には57%にまで落ちた。人口が増えて商業が活発化することで、小判流通量を増やすための苦肉の策だった。それでもヨーロッパの金貨よりもずっと純度が高く、幕末の金流出につながってしまう。

その後、江戸城天守閣も建てられるが3度の江戸大火により消失、保科正之の判断で天守建築よりも江戸の町開発に資金を防災対策や商業振興策などに傾斜配分することとした。こうした都市インフラ建設により、江戸の町は当時のパリやロンドンにも引けを取らない100万人都市へと発展する。本書内容は以上。

64年の東京五輪をひかえた東京の街づくりに役立ったのが、江戸城外濠と内濠、首都高の建設の文字通りの礎となる。戦争のために作られた遺構を平和なイベントに役立てるとは、これは皮肉なこと。世界に約束したからと開催を強行した今回のオリンピックであるが、そのレガシーをどのように役立てられるか、知恵を絞る必要がある。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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