終戦とともに日本軍はいつの間にかいなくなり、製薬という技術を持つ大久保家のメンバーは国民党が支配する中国に残され製薬開発のために残されることになる。長春の町に残った日本人は少なかったが日本人学校に子どもたちが通う程度の日本人が残った。そして国民党と人民解放軍が戦う日が訪れる。国民党の本拠地であった長春は解放軍に取り囲まれる。国民党の兵隊には飛行機による食料配送が続けられたが、長春に住む住民は飢餓に陥った。大久保家もその例外ではなかった。当初は在庫品の薬を売り払って糊口をしのいでいたが、そのうちに家具屋衣服も売り払い、食べるものに困るようになってきた。周りでは餓死する人たちもでてきた。特に日本人は周りからの支援も得られずどんどん餓死者が増えていった。
そして、ある日、大久保宅次たちの家族は長春の町から外にでることを決意した。しかし、町の出口には小さな関所のような場所があり、一度外に出たら二度と町には入れないと言われた。地獄のような長春から出たかった大久保一家は迷わず門から外に出たが、そこは外ではなかった。解放軍が包囲する包囲網の内側で、町の外側、という境界地帯であった。そこはチャーズと呼ばれる地域だった。そこには地獄だと思っていた長春にはまだあった屋根付きの家やトイレなどはなく、野宿に近い吹きさらしの場所で、さらなる地獄のような日々を送ることになった。筆者はこの時に目にした光景が目に焼き付けられ後々にも度々夢を見ることになる。そしてこの場所から出られるには解放軍のなにかの役に立てることを証明することが必要だった。宅次は製薬業で獲得していたギフトールの製造特許証明書を持っていた。これが鍵になり、解放軍からチャーズから出ることを許されたが、一緒に行動していたM一家は一緒にいくことができなかった。大久保家には4人の娘に2人の息子がいたが、筆者ともう一人の弟以外は長春からチャーズに移動する間にみんな餓死、もしくは病死してしまった。これらのことが大久保宅次の最大の禍根となった。しかしこうした苦しい中でも大久保一家を救ってくれる中国人がいた。それは長春で大久保宅次が支援したり救ってやった中国人であった。
そして脱出した大久保一家が送られた先は延吉、今の北朝鮮と中国の国境付近で、朝鮮族が多く住む地域だった。時代は1948年、南北朝鮮戦争が起きようとしていた。戦争が始まると延吉の町に住む住民たちは中国軍や朝鮮軍、そして攻めてくるアメリカ軍に蹂躙されるようになってきた。大久保一家は製薬製造に携わっていたが、筆者が感染していた結核を治療するためのストレプトマイシンを買うために月給を何年分も前借りしていたので、町から出ることができなかった。瀕死の筆者を含めて大久保一家に救いの手を差し伸べてくれたのも製薬業を営んでいた時代に北京市店長として片腕にしていた中国人であった。前借りしていた借金を払い終わってもお釣りが来るくらいのお金を送ってくれ、さらに自分が住む天津にくるようにと進めてくれるのであった。
天津に移った大久保一家は家を与えられ十分な食事もとれるように取り計らってもらった。結核で弱っていた筆者も回復することができた。しかし、そこでも筆者は苦しんだ。通学していた学校ではクラスで唯一の日本人だったため、反日教育を受ける教室の中にいる唯一の日本人はクラスのメンバーからの攻撃の格好の対象となった。筆者は完璧な中国語を話せるようになることと勉強で一番になることでなんとかこの難局を乗り切ろうとした。勉強のお陰で中国人と変わらない中国語を話せるようになり、成績もクラスで一番になった。先生からも褒められ、クラス委員になるように推薦されるまでになったが、クラス委員には中国人の成績が二位の少年を推薦した。
日本が中国抜きのサンフランシスコ講和条約を連合国と締結し、日本がアメリカにせかされるように自衛隊で再軍備するようになると、中国では日本人の技術者を自国内に置いておきたくないことから、帰国することを指示され大久保一家は1953年になってやっと日本に帰国することができた。
帰国後筑波大学の物理学教授にまでなった筆者であるが、大変な体験をした中国が共産党政権になり、天安門事件を経て、良い方向には向かっていないのではないかと考えるようになった。そして自分の体験を本にして出版して、中国の人たちにも自分たちの体験を伝える必要があると考えるようになった。この本が書かれたのは2012年であるが、筆者のチャーズでの体験は以前にも発刊されている。強烈な体験であり、中国が経てきた1945年から1953年までの歴史を中国民衆の目線で見る、ということができるドキュメンタリでもある。中国の革命の庶民目線からの裏面史に興味がある方には、第一級のドキュメンタリーだと思う。
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