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意思による楽観のための読書日記

日露戦争史 横手慎二 ***

日露戦争は日本にとっては日清戦争に続く大国との対外戦争であり、辛くも勝利したとされているが、戦闘に参加した軍人軍属は108万人、戦死者84000人、戦傷者143000人という膨大な人的損害を被った。ロシアにとっても、シベリア鉄道で戦場に送られた人数が129万人、戦死者5万人以上を含む27万人の喪失というデータが残っている。戦争の目的は朝鮮半島と満州における双方の利権確保であり、旅順や日本海海戦での日本側の勝利から、日本サイドとしては賠償金と樺太割譲の要求をしたがロシアは断固としてこれに応じなかった。もともとの戦争目的であった韓国の保護国化ならびに遼東半島租借地、東清鉄道支線譲渡はすんなり決着がついたため、樺太の北緯50度線以南割譲のみで、賠償金なしという決着で全権大使小村寿太郎は交渉を終えた。

軍部としては樺太の半分をもぎ取ったぞ、という思いで帰国したが、日本での反応は厳しかった。日本国民は、勝ち戦だと聞いていたのになぜ賠償金が取れなかったのだと日比谷焼き討ち事件がおきるなど、一部で騒乱状態に陥った。戦争に勝利して軍部の地位向上を狙っていた陸軍海軍首脳部は、こうした大衆運動に強く抵抗したが、政党政治への動きは止められなかった。こうしたデモクラシー化への動きは1920年代まで続くことになる。

ロシアサイドでは戦争末期から厭戦ムードが高まり、帝政ロシア政府を倒す革命への動きと議会制度を目指す勢力が大衆を取り込む運動を盛り上げていた。講和条件が定まった以降は、ロシア各地でストライキが起こり、モスクワから出るすべての鉄道が止まり、ストライキの波はハリコフ、ペテルブルグ、ワルシャワへと広がった。ニコライ2世はこうした大衆からの要求に答えるかたちで、人身の不可侵、、言論の自由を認め、多数の国民が参加できる選挙と国会開設を宣言、1906年には、土地所有者1票が労働者45票と同じ重みという不平等選挙ながらも、初めての議会選挙が実施された。

大国ロシアがアジアの小国日本に何故負けたのかと、旅順要塞での降伏を決めたステッセルは軍事裁判で死刑宣告を受け、その後ニコライ2世による恩赦で禁錮10年に減刑された。その他、4307人の将官が予備役に回された。日露戦争での敗戦の記憶はロシア国民に長く残り、1914年の第一次大戦の初年度には50万人の兵士が戦線から逃亡したという。さらに、戦争が長引くと革命勢力が力を増し、1917年にはロシア革命を引き起こす結果となり、ニコライ2世が制定した議会政治は共産主義に取って代わられて、ゴルバチョフが人民代議員を設置するまでの70年間は議会が開かれることはなかった。1945年のロシアからの戦争参戦は、こうした敗戦の記憶からの雪辱を果たす意味が強かったとスターリンは述べている。

江戸幕府崩壊から明治維新を経て近代化を果たしたアジアの島国が、ヨーロッパの大国を戦争で打ち破る、という結果はヨーロッパ諸国だけではなく、非欧州の諸国を驚かせた。日英同盟を結んでいたイギリスでも日本が勝利することは予想外であり、その後の日本による韓国併合や中国大陸での日本による権益の宣言に、国際的な威力を与えた。日本の経済力、軍事力は欧米諸国に比べればまだまだ小さいものだったが、東アジア地域における日本のプレゼンスは高まり、欧米諸国がこうした地域に軍事力を集中させることは事実上難しかった。このため、朝鮮半島や中国国民の日本への反発が強まっても、こうした日本の勢いを欧米諸国が力を持って制することになるのは、太平洋戦争がはじまる1941年まで待つことになる。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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