意思による楽観のための読書日記

仏教宗派がよくわかる本 永田美穂 ****

現代の日本で「日本的なもの」と言われている能や狂言、夏のお盆あたりに行われる送り火や花火大会、盆踊り、彼岸の墓参りや初詣などの年中行事、華道、茶道、水墨画、食事の作法、書院造りの建物やフスマ、障子、畳などの様式、挨拶や一期一会、言語道断などの言葉などなど、ほとんどが鎌倉時代から室町時代にその始まりがあり、禅の教えが源にありそうである。それはつまり仏教の教え、仏教の歴史こそが日本文化の基礎だと思える。

仏教が日本に入り始めたのは日本書紀によれば6世紀中頃とされてはいるが、飛鳥時代、崇仏派と言われた蘇我氏が日本に律令制度の基礎となる計算や文字、文字を読み書きする能力(技術)とともにもたらした。蘇我氏は乙巳の変で勢力をそがれたが、律令制度は大化の改新以降日本の国の根幹をなしていく。仏教の黎明期は奈良時代、学問の一つとして当時の唐からもたらされた。その頃の宗派は三論宗、律宗、法相宗、華厳宗などの南都六宗で、疫病や治安悪化をおさめるため、8世紀の聖武天皇は東大寺に華厳経の象徴である盧遮那仏を建造し、各地に国分寺を設置、国家を鎮護する役割を仏教に期待した。南都は京都の前の都である奈良のことである。法相宗は三蔵法師こと玄奘三蔵から学んだ「世界のすべては心があらわしたもの」という唯識思想を道昭が成唯識論を伝えたのが始まり、華厳宗は唐の法蔵に師事した新羅の審祥が「すべては無限に関係しあって成立している」という無尽縁起思想の華厳経を伝え、律宗は唐の鑑真が「釈尊の教えは厳密に守るべし」という戒律を伝えた。この時代の仏教は国のためであり民への布教は禁止されていた。

平安時代になると、密教として代表的な、最澄が伝えた天台宗と空海が伝えた真言宗がもたらされる。密教とは秘密の教えなので言語化できず直接個人に伝えられる。天台宗では、法華経にこそ究極の教えが説かれており、天台の教えや理論である教相門と修行や決まりの観心門という教観二門のバランスを重要とされ、「悟りはあらゆる場面で体得できる」とする円頓止観(えんどんしかん)が重要となる。そして最澄は密教、円頓止観、戒律、円満な教えである円教の4つの教えが合体した四宗相承をめざした。空海が伝えた真言宗は死後ではなく生きたままでも成仏できる即身成仏が最大の特徴である。修行者が最高位である伝法阿闍梨になるまでに修めるべき修行は、儀式の基本となる十八道、仏の印と真言を使い仏と一体化することを目指す金剛界、曼荼羅に描かれた409の諸尊を大日如来から順に観想する胎蔵界、作法に従い不動明王と一体化する護摩、という4種類の四度加行(しどけぎょう)である。密教では大日如来と一体化し現世で悟りの境地達するに(即身成仏)ことを目的とする。教えは秘密なので、仏の姿を現す印の結び方や呪文、真言を部外者に教えたり不純な目的の修行は厳しく禁じられた。

密教にに対するするのが主に鎌倉時対代以降の浄土教、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの顕教で、教えの内容は経典などの文字や言葉で伝えられる。平安時代末期には藤原政権が凋落して乱世となり、末法思想が蔓延した。比叡山で天台宗を学んだ法然は、末法の危機を救うため阿弥陀如来を信じ「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生して救われるという浄土教を広めた。浄土教は6-7世紀には唐より伝来しており、平安中期には空也や源信により念仏として広められていた。念仏信仰を宗派として最初に広めたのは良忍、浄土教の法然、そして法然を教えを推し進めたのが浄土真宗の親鸞、諸国をめぐりながら時宗念仏を広めた一遍である。

「一人の念仏が大勢の念仏と溶け合う」と教えたのが融通念仏宗の良忍、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることで庶民を救いたいと考えたのが法然、念仏よりも信心こそが重要であり、出家せずに妻帯し子供をもうけても構わないというのが親鸞だった。つまり自分自身が修行して本願を得る自力本願よりも、阿弥陀如来の本願を信じて極楽浄土で往生して救われるという他力本願こそが庶民には必要と説いた。「悪人正機」とは悪人を優遇することではなく、修行に励む人を善人、煩悩や怒り、妬みに囚われてしまう庶民を悪人としたとしても、どんな小さな悪事も見逃さない仏から見れば全てお見通し、ほとんどの庶民は悪人となってしまうが、こうしたすべての人間を救うのが阿弥陀如来の本願であり、庶民でも極楽往生できるよというのが悪人正機である。

日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を唱え、法華経を最重要視して法華経を信仰しなければ国家は危機に瀕すると「立正安国論」で述べ、個人の救済とともに国家の救済を目指す。他教を邪宗と否定したため、他宗から弾圧を受けた。日蓮宗は小さな団体である「講」が多く、分派も多い。現在では霊友会、立正佼成会、妙智会、創価学会、仏所護念会などがある。

禅宗は菩提達磨が始祖、菩提達磨は釈尊の28代目の弟子である。釈尊の悟りを自ら座禅を組むことにより直接体験することで悟りの境地を学ぶのが禅であり、念仏を唱える他の宗派特別するために「禅宗」と呼ばれるようになった。それぞれの始まりは栄西が始祖の臨済宗が12世紀の鎌倉時代、道元が始祖の曹洞宗は13世紀、隠元が始祖の黄檗宗が17世紀の江戸時代で、これら三つが大きな禅宗の宗派である。臨済宗では師との問答を通して真の自己を発見することを重視、1700もある公案のなかから一つの問題を弟子は与えられ座禅をしながら答えを考える。曹洞宗ではひたすら座ることで悟りに至る「只管打座(しかんたざ)」を重視、修行と悟りは全く同じであると説いた。黄檗宗では念仏と座禅を組み合わせ禅の境地に至る念仏禅で仏と一体になる念禅一致を主張、禅、浄土教、密教の三つの教えを習合させた。

各宗派の本山寺院は法相宗が奈良の薬師寺、興福寺、華厳宗が東大寺、律宗が唐招提寺、天台宗が比叡山延暦寺、真言宗が高野山金剛峯寺、浄土教が華頂山知恩院、長岡京の報恩山光明寺、浄土真宗本願寺派が龍谷山本願寺(西本願寺)、大谷派が真宗本廟(東本願寺)、融通念仏宗が大阪平野にある大念仏寺、時宗は神奈川県藤沢にある藤沢山清浄光寺、14の宗派に分かれる臨済宗は妙心寺派が京都花園の正法山妙心寺、天龍寺派が霊亀山天龍寺、建仁寺派が東山四条にある東山建仁寺、南禅寺派が瑞龍山南禅寺、曹洞宗は福井の吉祥山永平寺と横浜鶴見の諸嶽山總持寺、黄檗宗は宇治の黄檗山萬福寺、日蓮宗は身延山久遠寺。
 
踊り念仏は平安時代に空也が広めたのが原型ではあるが、融通念仏宗の良忍や時宗の一遍が受け継ぎ集団で踊るスタイルに発展させた。それが民間に広がるときに死者を供養する盂蘭盆会の行事と結びつきやがて踊りのほうがメインとなっていった。阿波踊りに代表される縦列型の連行式と円陣で踊る輪踊り式に分けられるがいずれも先祖供養という目的は同じである。
 
来迎思想を仮装によってあらわす祭りが練り供養、極楽浄土を具現化する行事である。奈良の當麻寺では中将姫が往生した日から5月14日に現世と浄土を結ぶ2つのお堂の間に来迎橋を架け僧侶が娑婆堂に渡って中将姫に勤行、その後25の菩薩が娑婆堂に行く。他にも世田谷の浄真寺、東山の泉涌寺、小諸の十念寺、岡山の誕生寺、弘法寺でも練供養が行われる。
 
護摩を焚くのは智慧の炎で煩悩や邪気を焼く尽くすが、夏の風物詩である五山送り火はこれがルーツとも言われ、大の字は大日如来をあらわす。疫病に見舞われた都を浄める修法だったといい、今は先祖の霊を見送る行事となっている。
 
能の歴史は平安時代の猿楽や田楽がみなもと、鎌倉、室町時代を経て観阿弥、世阿弥親子は禅の教えを取り入れて夢幻能として能楽を完成させた。 「秘すれば花」という風姿花伝には禅の言葉が使われている。世阿弥の能は娘婿の金春禅竹により高められたが、彼は一休宗純について修行もしている。
 
お茶が日本にもたらされたのは最澄の頃、比叡山に茶の葉を持ち帰ったのが始まりとされている。本格的に広めたのは鎌倉時代の栄西、中国の禅院で行われていた行茶の儀式が日本の禅寺で催され、茶の作法が何人かで茶の品種や産地を当てる寄り合いに発展した。茶の湯を開いたのは村田珠光、一休宗純に師事して禅を学び茶の作法にも禅の思想を取り込んだ。武野紹鴎、千利休も侘び茶を発展させ茶道を確立、臨済宗の大徳寺で茶道を芸術にまで高めた。利休の弟子山上宗二は茶会を「一期一会」としその場の出会いをかけがえのないものとした。
 
弓道、合気道、柔道、剣道などは武士が守るべき道として発達してきたが、禅の瞑想修行を取り入れ、技と同時に心の鍛錬の重要性を指摘、剣の達人は刀で人を切らず、気迫で飲まれた相手を思うがままに操れると説いた。これらは武術ではなく武道である。
 
書画はその人の心そのものを表す。書道や山水画では禅僧が臨終の時に残した句や悟りの境地に達した漢詩、師の姿を書いた肖像画、禅の精神が投影されるような風景がが好まれる。庭園も草木や水がない、砂と石でできた枯山水が宇宙を表すという仏教観を具現化している。
 
仏教を知らずしては日本の文化は語れそうにない。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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