お祝いの時にサケ・マスを食べるのが東、ブリが西、家父長制が東で男の戸主の力が強く親方や主を中心とした主従関係が発達したイエ中心、母系的なのが西で母や主婦の地位が高くムラを重んじ婚姻などによる結びつきを重視した。ブナなどの落葉広葉樹林帯の東、シイ・カシを中心とした照葉樹林が拡大した西、縄文時代の北海道以外の人口は東が26万人で西は2万人狩猟時代には西は住みにくかった。東では成熟した採集、漁労民社会が発展した。資源の貧困な西では縄文末期になると雑穀・イモ類を主作物とする焼畑農業に移行、採集・狩猟活動でその経済を補った。それまでは東が先進地域だったのが、弥生文化流入で水稲耕作が始まり、鉄器、青銅器などが使われ始め、北九州から始まった弥生時代には西が先進地域となった。
魏志倭人伝の狗奴(くぬ)国は毛野(けの)国だとしたのが石井良助、毛野氏は崇神天皇を祖先とし垂仁天皇とならんで東国を治めたという。大化の改新はこの東国の独立国の併合だったする。天武天皇の頃から東国は東海道、東山道特に伊賀以東の諸国を指すようになったと。西国も西海道、筑紫ともいわれた九州諸国を指した。壬申の乱の際に大海人皇子が東国に依拠した大友皇子に勝利したことも東国に天皇の直属民、名代などが広く分布していることからきているという。
西の藤原純友、東の平将門、西の海賊、東の弓と馬、平氏の西国国家、源氏の東国国家という区分けもある。東国には堀之内という地名が多く領主の拠点でありイエ支配の根拠地であった。西では垣内という地名が多く、垣で囲まれた聖なる地、百姓はそこに畠地をひらき居住地としていた。
西国と京都、東国と九州、という結びつきも歴史上見られる。北条氏滅亡時、足利尊氏は武蔵国の国司、これに対抗して北畠親房は後醍醐の皇子義良親王を擁して奥州に下った。奥州の顕家、新田義貞は尊氏を挟撃しようとするが、義貞は敗走、東海道に逃げる。それを追うのが尊氏、そしてそれをさらに追いかける顕家。後醍醐軍勢は顕家と組んで尊氏を京から追い出した。九州に逃げた尊氏は体制を立て直し陸海に分かれて再上京、そして楠木軍、新田義貞軍を破ったのである。
明治維新の時の西国と京都、東国と九州の組み合わせにも引き継がれる日本の東西対抗の形である。東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)
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