武力が歴史の表舞台でその流れに大きな作用を及ぼすのは鎌倉、室町、戦国時代。国の統治を、軍事と政治・経済がその両輪だと考える。軍事とは戦争の遂行であり、1.戦術 2.戦略 3.兵站 という3つが主要要素となる。これらを支えるのが4.兵力 5.装備 6.大義名分である。
歴史物語の逸話として面白おかしく語られるのは、奇襲戦術で少数の兵力でも勝利した戦い。「桶狭間の戦い」「一ノ谷の合戦における鵯越の逆落とし」「川中島の戦いにおける啄木鳥戦法」「姉川の戦いの浅井朝倉連合軍陣形」などがそれらの代表例であるが、ミクロの戦いでの戦闘勝利が、戦争全体に一体どれほどの影響を及ぼしえたのかを見落としてはいけない。
そもそも戦国時代までの戦争では、一部の戦いは戦闘のプロである武士が行ったが、兵力を数千、数万集めて行われた信長、秀吉、家康などの時代の戦闘では、兵隊の殆どは駆り出された農民であり、基本的には家族を残して戦闘現場に来ているため、命が惜しい。司令官や見張りの武士たちが見ていなければできれば逃げたいところ。そんな農民たちを戦いに向かわせるためには、報奨を明確にして、もしものことがあった場合にも手柄をしっかり見届けることで、残してきた家族に褒美が届けられることを確信できなければ、進んで戦おうとする農民はいなかったということ。そして、農民には刀で切り合うことは不可能であり、長い槍で相手の頭をたたきあうのが関の山であったという。「島津の釣り野伏せ」戦法という逸話があるが、敵方と戦っている農民中心の兵隊が、陣太鼓がドドドンと鳴らされたら一斉に退却したり、法螺貝が鳴ったら一斉に攻撃に出る、などということが可能だとは思えない。
元寇の戦いは一方的に攻め込んできた敵を倒す、という戦いであったため、活躍した武将に与えられる領地がなかった。そのため、結果的に鎌倉幕府の権威が地に落ちて建武の新政、足利幕府成立につながる遠因となった。秀吉による朝鮮半島への出兵も、出兵させられた武将たちの大きな不満として残り、関ケ原の戦いでの西軍敗北につながる結果となった。
槍が装備として取り入れられたのは戦国時代以降で、鉄砲、大砲という武器はそうした流れの中で積極的に取り入れられた。農民中心の兵力でも、鉄砲の出現で、訓練さえ積めば目の前の敵兵を殺害することが始めて可能となった。それまでは弓矢を遠くから射掛けることで相手を殺すことが可能であった。
鉄砲の導入以降は、火薬原料である硝石を外国から輸入する経済力と力量が各勢力による戦争力となっていった。さらに必要だったのは兵站のなかでも食料。兵隊は体力勝負、一日三合の米が必要である。1万人の兵隊がいると、1日3万合、つまり30石である。重さに直せば4500kgで、今の相場なら225万円。30日間の戦闘で必要な米代は6750万円となる。それ以外に馬も武器も必要であり、一月に1億円は下らない費用となる。領地内の石高から換算すれば、40万石の領地を持つ大名で1万人の兵力を維持できることになる。
戦国大名のなかで誰が一番強かったか、という歴史談義がある。結論から言えば信長、秀吉、そして家康であった、といえば身も蓋もない。一番独創性があったのは秀吉だったという。1.経済重視で、兵隊である農民への食料確保を第一に考えた。2.土木工事や水攻めで兵隊の戦死を最小限に抑えた。3.中国大返しでは、兵隊が動きやすいように鎧兜を脱いで移動することを認めた。4.戦闘で負けると政治力で自分を相手より上手に据えた。長久手の戦いで家康に負けた時、超手に働きかけ、自分を関白、家康を大納言とし、相手より上に自分がいることを認めさせた。
兵隊に対するモチベーションは重要であり、戦争の大義名分も重要である。「朝敵」であることを示す錦の御旗が有名だが、錦の御旗よりも領地を「安堵恩賞」される方が重要視されたのが承久の乱。後鳥羽上皇の与えた大義名分よりも鎌倉幕府が保証してくれる土地、領地への安堵のために武士たちは戦った。大義名分とは、自分にとっての大義。そんなに単純な話ではない。本書内容は以上。
非常に分かりやすい説明、語り口で読みやすい一冊。戦争とは命をかける戦いであるからこそ「なんのため?」ということは大切だったと思う。