最初の章で、アメリカの歴史が日本の歴史にも現れている例としてリンカーンの有名な演説が日本国憲法の前文にあることを示している。”人民の人民による人民のための政治”というあのフレーズは「国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」。その2つの違いは、アメリカが人民の手によりこうした権利や民主主義の仕組みを打ち立てたのに比べ、日本では敗戦により占領軍であったアメリカにより指導されながら民主主義の仕組みを導入されたこと。戦争に対する痛烈な反省は東京裁判という相手からの裁きに任せ、その時に制定した憲法は「押し付けられた」と後から評価するような姿勢では、問題の本質をついていない、という指摘である。
ルソーは戦争を次のように定義したという。「戦争とは相手国の憲法を書き換えること」、その意味ではアメリカは戦争の定義に忠実に従った。日本が敗戦時に一番こだわったことは「国体の護持」、新憲法では国体は護持されたのであろうか。明治憲法での天皇制が国体そのものであったと考えれば、現憲法の天皇制は象徴天皇となり同じものではない。しかし、実質的には明治憲法での天皇にも実質的な権力はなかったこと考えれば、形式としての国体は残った、とも言える。東京裁判に先立ってマッカーサー元帥は戦争犯罪人として昭和天皇を裁くよりも象徴天皇として残したほうが日本統治がうまくいくと考えたことが、天皇制維持に寄与したのである。そのことは昭和天皇自身が一番理解していたし、現在の天皇も同様であろうと思う。
「歴史は繰り返す」という事を言う学者がいるが加藤陽子は、起きたことはすべて特殊な状況下で起きているが、歴史家は特殊の中に普遍を見る、と解説する。歴史は現実の人間たちに教訓と判断材料を提供するが、同じことは起こらないのだから、昔こうだったから、今回も同じようにしよう、という判断は正しくないだろう、というのである。歴史の誤用があるのだと。また、中国の喪失が米によるベトナムの悲劇を生んだ、という解説もされる。
そしてここから日清戦争、日露戦争の解説へと入っていく。これらの戦争の背景には中国を巨大な市場に見立てた英米とドイツ、フランスの綱引きがあり、日本が地の利を活かして中国市場に過大な影響力を持たないようにしようとする努力がこれらの国の動きの中に垣間見える。そして日本は大きな代償を払って両戦争にかろうじて勝利し、台湾、澎湖島、そして朝鮮半島、満州鉄道の権利などを手に入れていく。その後は第一次大戦で、日英同盟を理由として対独宣戦布告をした日本は当時ドイツがアジアに持っていた中国での権益や太平洋の島々を手に入れる。ここまでは、ぎりぎり国際的な約束事のなかでの振る舞いとして日本の行為は国際社会からも認められていた。大問題はこの後に起きている。
日本人の精神状態としては、①明治維新から数多くの犠牲を払って手に入れた権益は必死の思いで守りたい。 ②英米に追いつき世界の一流国として認められたい。 ③アジアの中での市場開拓は少しくらい無理をしても欧米諸国よりは地の利があるので欧米との競争に勝てる。 一方、国内的には軍部の力を抑制して政党政治を進めたいという国民の願いがあった。しかしこの頃明治憲法の不具合として統帥権の国会からの独立が表面化、満州における軍部の動きを国会の政党政治が止められなかった。しかし、この頃のインテリであるはずの東大生へのアンケート調査でも、謀略で始まった満州事変に対し、日本の試みは妥当である、という意見が9割を占めていたという。満蒙問題は武力を持ってでも解決されるべきであり、なぜならば満蒙は日本の生命線であるから、という理由である。陸軍による宣伝が行き届いていたということであろうか。これはパリ講和会議以降の国際社会から日本に対するプレッシャーが強く感じられており、東大生のようなインテリでも、そのようなプレッシャーへの反発があったということであろう。このままではいつまでたっても欧米の後塵を拝するばかりである、国際社会で日本は馬鹿にされているのではないか、日本の力で満州を始めとするアジアの各地域を開拓することが日本の使命である、などというメンタリティである。
このあとは、満州事変から熱河事変へとつながり、国際連盟脱退以降はもう後戻りができない道へと進んでいく。現代との共通点はないだろうか。「世界にはまことに多様な価値観と意見があること」を忘れてはいないだろうか、という疑問である。韓国はなぜ執拗に歴史認識問題や慰安婦問題を言い続けるのか。中国はなぜ、尖閣国有化をきっかけに先鋭的な対日姿勢を取るようになったのか。日本の政治家やリーダー達が、日中戦争や太平洋戦争が起きた原因に目をつぶるような発言を繰り返したからではないか。そうした発言をする日本の政治家やリーダーたちは、世界には多様な意見があり、日本国内の世論や大勢とは異なる見方があることを認識しているのだろうか。こうした認識があれば、公然と靖国参拝を繰り返すなどということは、少なくとも海外からも注目されるリーダーであればしない、というのが良識ある振る舞いなのではないかと思う。
歴史の再認識をする際に、日本以外の国の立場に立って振り返ってみることができれば、ずいぶんと見方が変わると思うのだがどうだろうか。本書はその意味では最上級の教科書になると思う。
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