東京の街は江戸時代になり家康が江戸城を作り、その後、玉川上水、神田上水などを開拓、甲州、中山道、東海道などの街道筋を設定、武家地、寺社、町人地などを設けた。江戸城の地形をひと目見た家康は守りやすい地形だと直感したという。東側は海、南北も海と川、西は甲州街道で甲府にまで続く一本道があったので、そこに守りを集中すればいい。関東平野は広く、西側の起伏に飛んだ武蔵野台地を挟んで、多摩川と荒川という水源が流れている豊かな平野だった。西側の守りを堅固にするために道灌時代の城地を活用、半蔵濠、桜田濠を1610年代に造り、四谷周辺の外堀を1640年代に完成させた。外濠、内濠には大きな高低差があるが、棚田の仕組みと同様、神田川水系から引き入れた水を外濠では真田堀、市ヶ谷濠、弁慶堀、新見附濠から牛込濠へと流し込み、内濠では半蔵濠、千鳥ヶ淵から桜田濠、牛ヶ淵そして南北東の濠へと導入するためである。江戸城築城時には日比谷一帯は海、銀座は江戸前島という島だった。
東京には現在ではよく認識していないが多くの丘、谷がある。丘の先端部分、山の海側などの好立地には神社や寺が位置している。広い霊園は丘の上の好立地にあるが、お寺の墓地は谷に多くある。江戸の街拡大のための移転命令、戊辰戦争、関東大震災などによる移転の結果である。目白台、早稲田、神田川北側の丘の上は政治家たちの邸宅が多く建ち並ぶ。明治維新後にも皇族方は好立地を好んだため、城南五山と呼ばれる池田山、島津山、八ツ山、花房山、御殿山には旧皇族邸宅があり、今では公園や博物館となっている。
玉川上水は標高約130mの多摩川羽村取水場から43kmを標高34mの四谷大木戸まで高低差約95mで開削した。この大変な開発工事を取り仕切ったのが玉川兄弟、完成は1653年のことである。水を勾配を使って流すためには一定の勾配を維持する経路選択が必要となる。羽村堰から拝島、小平監視所を経て三鷹駅近辺、久我山二丁目、笹塚駅近辺から新宿駅あたりを通り四ツ谷に達する。武蔵野台地の尾根筋を通り、分水嶺の場所を選んで経路設計がなされている。このおかげで江戸の街の四ツ谷というロケーションにありながら表高34mという高さを獲得、江戸の街に勢いよく水が供給できるようになる。
東京の街は北側には荒川による河川崖がある。上野駅あたりから南に向かっては皇居東側から品川の高輪台あたりまでを直線に海岸崖線が走る。そこに、北から不忍池に注ぎ込むように藍染川、谷田川、そこに石神井川が流れ込む。御茶ノ水のある仙台堀は人工の谷であるが、その南側は神田川、日本橋川の谷筋がある。さらに南には渋谷川、目黒川が流れ込む谷筋があり、武蔵野台地をいくつもの谷筋が東西に走っている。南側は多摩川で、大きな川なので河川崖が形成され、国分寺あたりから深大寺、成城学園前、二子玉川駅、等々力渓谷、電影調布駅あたりの深く長い崖地形が形成されている。このため、山手線でも、標高2.9mの品川から右回りに目黒駅で標高20m、代々木駅では38.7mとなる。高田馬場駅を出たあたりで神田川をまたぐ形で標高21mの目白に到達、その後標高3mほどの田端あたりまで降りてくる。明治18年、最初に作られた貨物線では蒸気機関車での設計のため10パーミルとされたが、電車の導入で25パーミルまで許容された。
その他にもいくつものエピソードが紹介される。池上線は五反田駅で高架上にあるが、そこからの延伸計画があり、皇族のお屋敷を避けて白金猿町を経由して品川まで通す予定であったが、東京都市部拡大に伴い、計画は廃棄された。江東区南砂2丁目あたりでは1972年にメタンガス取得のための地下水汲み上げにより、100年間で4.5mの地盤沈下があった。工業用水取得、メタンガス取得が目的だった。普段、東京を歩いていても気が付かない地形には多くの歴史的理由が隠されている、という一冊。