信長が双極性障害に苦しんでいた、引きこもりの期間があり、その後の歴史に影響を与えた、という仮説の検証を「信長公記」という書物から行ってみたという本書。イライラして無理な命令や詰め腹を切らせる信長に、部下の武士たちがピリピリしつつ、ご機嫌を損ねないように苦労する姿が描かれる。
「信長公記」を著したのは信長の重臣、太田牛一で全16巻の大書。第一巻は信長の父、織田一族の履歴と信長の若き日の逸話で1534年(天文3年)から1568年(永禄十一年)まで。その後は一年を一巻とし、本能寺の変の1582年(天正10年)までの34年間の記録である。その中に4ヶ月半空白の期間があり、筆者は安土城に信長が引きこもっていたのではないかと推察する。信長は驚くほど行動的であり、移動距離も驚くほどである。合戦でも活動的に動くことが多いが、合戦らしい動きを止めてしまう期間もある。軍団長とも言える佐久間信盛を解任したときにも人事の空白期間が見られる。それがきっかけとなり、激昂して解任したことへの反省、もしくは相手の思った以上の反応に落ち込んだことが推察されるという、うつ状態、もしくは引きこもりがあったと筆者は考えている。
その原因の一つが強すぎる完璧主義と自分の決断への一貫性へのこだわりにあったとする。アンガーマネジメントの欠如と激しい気分の浮き沈みを抑えきれなかったと。いくつかのケースが例示される。一つは浄土宗と日蓮宗が宗論を戦わした結果、日蓮宗の僧が負けたので責任者や宗論を行った僧侶を斬首した。このことはルイス・フロイスも記述している。足利義昭のために御殿を建設する場面で気を抜いて女性に気を取られた大工を処刑したこともある。
大坂本願寺を責める役割を負っていた佐久間信盛が、戦いの後に本願寺を誤って炎上させてしまったことに19条の譴責状を書いている。譴責状の最後に、敵を倒し汚名返上するか、高野山での蟄居を選ばせているが、信盛は蟄居を選んでしまい、信長がかえって戸惑っている。叱責をモチベーションとして発奮した利家や秀吉を想定していた信長に、信盛はどうしてもついていけないことを明らかにしたかったのではないか。
天正9年には北陸に領地を持つ三人の部下の大名武士を粛清している。寺崎盛水、遊佐続光、石黒成綱であり、理由がわからない事例もあるが、反逆の証拠、などもあるが北陸地域の統治強化が目的だった。そして最後の一年である天正10年に向かう。蟄居を命じた信盛が病死、大勢の目前で恥をかかされた光秀は密かに信長討伐の意思を固める。
本能寺の変での光秀の極秘行動も記述されている。光秀は信長を討つことを最後の最後まで部下たちに隠し通した。主な武将以外には本能寺に向かうことも知らせず、本能寺に目的地を変えるときにさえ、殿に中国攻めの戦列を見せるためと部下には説明した。本能寺を囲んだあとでも、まさかこれが信長の宿泊地だとは思わない部下たちが多かった。
当時は惟任日向守であり、明智光秀とは呼ばれていない。しかしなぜか本能寺の変時点から、信長公記でも明智光秀と記述する。筆者は信長を裏切った斎藤利三が首謀者だったのではないかという仮説を建てているが確証はない。明智姓は多くの武将が賜っているが、後に光秀の部下となった利三も明智姓をもらっていた可能性があるという。中国明朝の「倭国伝」には「信長の参謀にアケチというものがいたが、信長の機嫌を損ねた。信長は秀吉に命じて兵を率いて彼を討伐させた。ところが信長は家臣の明智の不意打ちにあって殺された」という記述がある。二人のアケチについては誤記だというのが通説だが、秀吉のことは木下姓であることも認識しており、二人のアケチについて認識した上での記述だった可能性があるという。
本能寺の変では森蘭丸が「明智の手のものが攻めてきた」と言ったという。つまり、光秀の部下となっていた利三を粛清せよという信長による命令を光秀が知っていたため、利三を守るのも光秀反逆の大きな原因となっていたというのである。それで倭国伝との辻褄もあう。光秀を討ったというのは落ち武者狩りの一揆衆だったが、本能寺の変の戦功第一だったのが利三、捉えたのは猪飼秀貞、彼は元光秀の部下であり、明智姓を賜っていたと言うから皮肉である。