ヤマト王権は4世紀前半に成立したと想定され、律令制国家が形成される7世紀後半まで存続した王制の政治的権力機構である。この時代の文字資料は極めて少ないため、本書では中国の歴史史料、後代の史料、考古学資料を手掛かりに実像に迫る。
邪馬台国と書かれた魏志倭人伝の時代の「台」の読み方について、現代の母音とは異なる5音甲類とは別に3音乙類があり、台の読み方は当時としては乙類、今の「づ」と「と」の中間音であり、現代音で書くとしたら「やまどぅ」国となる。当時の地名で奈良地方の大和は乙類、九州筑後や肥後の山門は甲類であり、音節でいえば近畿説が有利。また魏志倭人伝の使者は女王に会見したと書かれているが、実際に女王国に赴いたのかどうかは道程記述の伝聞調からは疑問がある。記述を信じるとしても様々な解釈が可能。しかし当時の魏呉蜀の三国時代の地理認識は中国元時代の地図をもとにすると、日本列島が九州から本州が北西から南東に連なっているとなっていた可能性もある。また前方後円墳と銅鏡の時代分布から分析すると、列島の政治的センターが北九州から近畿へと重心を移していった可能性を示唆する。
ヤマト王権の成立時期について、天皇の和名で「はつくにしらす」とされているのは神武と崇神であり、初期の9人については、記紀の創作と考えられる。崇神の実在についても証拠はないが、前方後円墳を構成する諸要素が近畿地方で発展したものではなく列島各地における弥生式墳丘墓の総合化を伴い、最終的に奈良盆地を中心とする近畿地方に誕生してきたというのが分析結果であり、前方後円墳の発展の歴史は倭国統合の象徴だと考えられる。
考古学的分析からは、1-2世紀初頭に倭国としての統合の列島における展開があり、3世紀中葉から後半に近畿地方を中心とする秩序が形成され、4世紀前半にヤマト王権が成立したと結論できる。つまり崇神が初代の大王、というよりは統合されたヤマト王権が奈良に統合されていった奈良盆地における最初の大王が崇神であった。しかし3世紀に想定される魏志倭人伝の卑弥呼による女王国と4世紀に成立したヤマト王権に継続性は見られない。魏志倭人伝の記述を知っていた記紀編集者は、神功皇后に卑弥呼を比定せざるを得なかったと考えられる。3世紀に最盛期を迎えた纏向遺跡はヤマト王権の発祥地としてはふさわしくなく、初代崇神の王宮は考古学調査では見つかっていない磯城瑞牆(師木水垣)宮の特定を待つ必要がある。
倭の五王の時代は鉄鉱山のある朝鮮半島への進出意欲がより高まった時代。倭の五王として知られる倭国の王たちは、当時の中国宋に、朝鮮半島での支配を認めさせようとしていた。当初はそれを認めようとしなかった宋だったが、大陸における権威を誇示するため、朝貢していた百済を除く朝鮮半島での倭国の支配を認めるようになる。その後、朝鮮半島からは漢字、漢語、漢文の文化とともに、仏教、儒教、古代国家の律令制を受け入れる素地を獲得するのがこの時代。日本書紀には製陶、船人など多数の工人の移住が記されており、馬文化もこの時代には列島にもたらされた。
大王系列には崇神の後にも、倭の五王とされる応神ー仁徳時代と、そのあとの武烈ー継体時代に断絶が見られる。継体朝をもたらしたのは大伴金村とされるが、鉄資源を産する朝鮮半島南部の権益を放棄せざるを得ないと判断したのも大伴金村。ヤマト王権が任那と呼んでいた地域は伽耶諸国とされ、百済はその権益と交換に、易、暦、医、五経の博士を倭国に派遣、高句麗や新羅としのぎを削っていた百済と倭の利害は外交交渉により一致していった。継体没後、安閑、宣化、欽明と続いたとされるが、安閑、宣化についてはその即位はなかった、とする説もあり、ここにも王統の断裂があった可能性もある。仏教伝来はこの欽明朝であるとされるが、538年、552年両説がある。仏教は蘇我氏が受容、その後の蘇我氏繁栄の基礎となる。本書内容は以上。
陶芸や石積み、造船などの技術導入、日本語順による言語表記、仏教伝来など、日本文化の基礎ともいえる古墳時代から文明化時代への転換時期がこの時代であり、キーストーンである邪馬台国、崇神、継体、欽明、推古、厩戸皇子、蘇我氏などに関する新事実の発見、発掘などが今後期待される。