埼玉県は、江戸時代までは現在の東京都、神奈川県北部とともに武蔵の国を構成。古い遺跡が多いことで有名で、稲荷山古墳から出土した鉄剣は「ワカタケル大王」の銘があるもので、五世紀後半の雄略大王との関係がこの東国でもあったことを示す貴重な歴史史料。吉見百穴も古墳跡で、古代史ファンには見どころが多い。中世には鎌倉を支える武士団が出現、室町時代には関東管領の扇谷上杉氏が河越城を根拠とするが、戦国時代には北条氏に押されて滅亡し、北条氏の支城が武蔵各地に作られ支配地となる。徳川の江戸入府以降は川越、忍、岩槻には城が置かれ老中居城となる。中山道、日光街道の宿場も設置され、埼玉エリアは大いに繁栄。明治維新以降は大宮県、川越県、忍県、岩槻県が成立、明治9年に現在の埼玉県となる。ただし、さいたま市誕生までは中心都市がなく、目立たない県となる。しかし、川越は城下町の小江戸、行田は石田三成の水攻めで有名な忍城、新河岸川の舟運跡、中山道宿場町跡など、歴史の足跡は多い。
賀茂真淵によれば、身狭(むさ)が武蔵と相模の元地名であり、身狭上(むさかみ)と身狭下(むさしも)から「さがみ」、「むさし」となったという説を提唱。5世紀ころの国造も知々夫(ちちぶ)、胸刺(むさし)に国造が置かれたとの記録がある。660年に唐と新羅連合軍に滅ぼされた百済、668年には高句麗も滅ぼされ多くの難民が列島に渡来。666年に天智朝は彼らの多くを武蔵、下毛野、男衾、橘樹(たちばな)、横見、その後8世紀にも駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸の東国に移し、武蔵には高麗郡、新羅郡を新設した。新羅郡はのちに新座(にいくら)となり、高麗郡、幡羅(はら)郡とともに、現在は和光市、日高市、熊谷市・深谷市に。渡来人がもたらした知識や技術は養蚕、製鉄、牧畜、騎馬であり、後の関東武士団の先祖となっていく。
708年に発見された和銅は秩父で見つかり、日本初の本格的流通貨幣「和同開珎」となる。最古の通貨はその後の発見で明日香村で見つかった富本銭にその地位を譲るが、和同開珎が列島の広範囲で流通した貨幣であったことは間違いない。児玉には金鑚神社、皆野町に金沢、金尾、金崎などの地名があり、製鉄や銅の採掘場所であったことが偲ばれる。
本書では、その後の中世、近世、近代、現代に連なる歴史が紹介される。本書内容は以上。