見出し画像

意思による楽観のための読書日記

生きて帰ってきた男ーある日本兵の戦争と戦後 小熊英二 *****

帰ってきた男とは「小熊謙二」、1944年11月に徴兵され、終戦とともにシベリヤ抑留、1948年8月に帰国を果たした筆者の父である。抑留経験者の手記はいくつか読んだことがあるが、手記を書き残し、その後出版にまでこぎつけるのは、インテリで少し学歴もあって記憶力もよく、抑留を客観的に描写できるようなものが多い。学徒兵、予備士官、将校などだが、本ドキュメントは、中学出の一兵卒だった抑留者の息子によるヒアリングの成果を一冊にまとめたもの。愛国者でも反戦主義者でもなく、無念の涙にくれているわけでもない。貧乏な家に生まれ、祖父母に育てられて、多くの兄弟姉妹を亡くし、帰国後も戦後の厳しい状況の中を逞しく、淡々として人生を過ごしてきたかのように語られる抑留とその後の生活も含めて書かれた波乱の一生である。

1925年、北海道常呂郡佐呂間村に謙二が生まれた小熊家は3男2女の子だくさんだった。母は謙二が幼い頃に結核で死に、父は仕事に忙しかった。謙二は東京で暮らす祖父母のところに連れられ育てられることになった。家は菓子屋で決して裕福ではなかったが可愛がられて育った。近所では珍しく中学校の早稲田実業にまで進学した謙二は富士通信機に就職、そこで招集を受けた。武器も満足に持たされないまま満州に送られ、終戦を迎えて、ソ連軍の捕虜になり、チタ収容所に収容された。

合計64万人の軍人、軍属、警察官などの日本人が収容所送りとなったといわれる。収容所の場所はシベリアに47万人のほか、外モンゴルに13000人、中央アジアに65000人、欧州・ロシアに25000人など1200箇所に分散していた。シベリアでは零下45度の極寒、中央アジアでは40度の灼熱、湿地帯ではブヨの大群、乾燥地帯では渇水などが捕虜たちを苦しめた。労働は飢餓の中、鉱山採掘、鉄道建設、土木工事、森林伐採などの重労働が主で、シベリアのチタ収容所には1万人以上が収容され、3200人が死亡した。ソ連領内に連行され抑留された64万人のうち6万人以上が死亡したとされる。当時のソ連ではドイツや日本の抑留者に加え、国内政治犯なども含め1000万人の強制労働者たいたという。小熊謙二はその一人となったのである。

1945年はソ連経済も厳しい年だった。ソ連の独ソ戦戦死者は1500-2000万人、全人口の11%が第二次大戦により減少したとされる。比較のために、日本の全戦没者は軍人と民間人合わせて310万人、人口の4%。ソ連の民衆たちも、当時のシベリアでは暖炉であるペーチカも満足に焚けないほどの極貧生活であった。

謙二が持っていたものはわずかだったが、飯盒と祖母からもらった裁縫セットの針は、収容所では食料確保と保温のために繕い物をすることが生命維持に必須であり、命綱となった。謙二がこうした中でも生き残れた理由があとから考えると分かった。部隊が混成だったため、軍隊特有の階級社会ではなく、新参者がいびられたりこき使われることがなかったこと、そして収容所での体制改善が新任所長のもと行われたことだった。ソ連は国際社会から捕虜の待遇で非難されていた。ちなみに、ドイツ軍捕虜になったソ連兵は570万人で300-330万人が悪待遇で死亡、死亡率は6割に達した。一方、ソ連軍捕虜になったドイツ兵は300万人、死亡者は100万人で死亡率3割。日本人の抑留者64万人のうち、死亡者は6万人とすると、約1割。日本軍捕虜となった英米兵士の死亡率は27%だった。

謙二が苦しんだのは、ソ連兵による暴力ではなく、収容者本人たちによる「民主化運動」だった。ソ連赤軍政治部指導のもと、「日本新聞」がハバロフスクにいた日本人収容者の手により80万部も発刊されるようになり、抑留者たちはその日本新聞のみから日本や世界の情報を知ることとなる。米軍占領下の日本民衆は反動的な吉田内閣に抑圧されている、反米デモが頻発している、という報道が目立ったが、真剣に読む者は多くはなかった。

しかし、1947年になると、民主化活動の名のもとで、陰惨な反動分子狩りと吊し上げが行われるようになる。夕食後の就寝前まで続く吊し上げは、収容所での最も辛い時間帯だったという。戦争中は唯物史観や民主主義の概念も知らなかった農民青年たちは、教えられた共産主義思想に染められ、知らないままに「徳川まくふ(幕府)」「タダモノ(唯物)史観」などと前に出て講演して、失笑をかっていた。しかしそれを指摘しようとすると「反動分子だ」と吊るし上げられるかもしれないので、だれも口を出さなかった。民主化運動に苦しんだ謙二が帰国者名簿に自分の名前を見つけたのは1948年になってからだった。

帰国してからも苦労は続く。父が暮らす新潟と祖父母が疎開していた岡山の家を行ったり来たりするが、どちらも親戚の家の倉庫や蔵を間借りした場所。兄弟姉妹でたった一人生き残った妹の秀子が東京で働いていたので一緒に暮らすようになった。しかしそこで、謙二は結核で体を病み、5年間の療養所生活を送ることになる。生活保護を受けての療養だった。ようやく退院したあとも、仕事は少なく、その後も職場を何度もかわり、住む場所も点々としたが、1958年になり立川でようやく安定した職を得て、都営住宅への転居も決められた。病弱になっていた新潟の父親を引き取ることもできたので、その引越は何度もの不幸の後に訪れたラッキーな機会だった。

秀子の小学生時代の同級生の寛子が連れ合いを亡くし5歳になる剛一を抱えて困っていた。1961年、37歳になっていた謙二は32歳の寛子と結婚、寛子との間に英二という子を設けることができた。この子が本書の筆者である。その後も紆余曲折はあったが、時代は高度成長に向かう時、謙二が勤める立川の会社はスポーツ分野にも手を広げ、謙二の活躍する機会が増えていった。経済的にも余裕ができた謙二は、43歳で一戸建ての家を建てた。寛子が希望する近代的な鉄筋建築で、終の住処となるはずだったが、中学生になっていた長男剛一が自宅の屋上から転落死。ショックを受けた寛子はこの家には住みたくないというため、わずか3年で引っ越すことになる。

60歳を過ぎて、年金生活に入ると、謙二は環境保護などの社会活動を始める。そうしたときに、国から抑留者への一時金を受け取り、その対象者からは戦時中は日本人だったはずの朝鮮人が外れていることを知る。日本政府の対応に憤りを感じた謙二は、抑留中知っていた人物の、補償請求の共同原告人になることになる。ドイツの戦争への補償の事例を研究した謙二は、自分の抑留経験も含めて、日本政府の無作為を裁判官に訴えた。

「イタリヤは植民地だったエチオピア、ソマリランド、エリトリア、リビアなどの植民地軍に戦後補償を実施。ドイツもウクライナやラトビアを占領後、ウクライナ、ラトビア人民軍を編成、戦後は補償した。国際的戦後補償に時効はないのであり、請求権は放棄されている、などと無責任な態度を取るべきではない。このマイナス遺産を子孫に先送りするべきではない」と主張。裁判には敗訴するが、謙二はいまでも戦争中の補償には自国民に対してさえ消極的な政府に不信感を抱いている。

英二は謙二に聞いた。「人生の苦しい局面で最も大事だったことはなにか」。謙二の答え、「希望だ、それがあれば人間は生きていける」。貧乏な生い立ち、豊かではない子供時代、徴兵、抑留、帰還後の結核療養所生活など、苦難の人生を起こってきた人の言葉は重い。本書内容は以上。小林秀雄賞受賞の一冊である。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事