8月15日現地の第一軍司令官澄田中将、参謀山岡少将は閻錫山と対共産党軍に共同で防御の態勢で臨むことを協定している。中国の共産化を望まなかった岡村寧次大将支那派遣軍総司令官の意思を澄田、山岡も汲み取っていたという。日本に戻れば戦犯として裁判にかけられることが確実だった澄田司令官の身柄を閻錫山が自分の利益のために預かった、とも考えられる。
しかし、中国における上部司令部である支那総司令部の参謀宮崎舜一中佐は、こうした第一軍の動きを知って、それを阻止するために山西省に飛んで、閻錫山に日本人の残留をさせないように要請、澄田、山岡の第一軍司令部には全員帰国を確約させた。1万5千人規模の残留を目論んでいた閻錫山は規模を縮小させても日本人部隊を残留させることを画策、澄田、山岡もその要請に応えるように動く。同時に、澄田、山岡は将兵達は書類上現地除隊の手続きを取ったことにする。これが戦後日本政府が、残留兵は自分の意思であったとする主張に与することになる手がかりである。
一方、第一軍司令部麾下の114師団、混成第三旅団、歩兵第10旅団、歩兵第14旅団、第四・五独立警護隊の将兵には詳しい経緯や説明されず、敗戦後の日本軍戦力の温存と共産軍征伐のために残留すべし、と説明される。中でも今村均大将の甥として人望の高かった混成第三旅団高級参謀の今村方策大佐は、澄田から多くを知らされない中で、日本軍残留部隊の指揮を任される。
宮崎中佐からの報告は日本政府や占領軍にも知らされていたはずであり、ポツダム宣言に反するそうした行動をどのように見ていたのであろうか。「反共」は日本政府、そしてアメリカ軍の意思でもあったのではないか、というのが筆者の疑問である。あえて見逃されていたというのである。実は宮崎中佐は今村大佐と面談していなかった。その事実を後から知った宮崎は、「今村大佐に会っていれば2600名の残留はなかったかもしれない」と述懐している。今村大佐は日本国内の妻への手紙で、澄田を信じた結果として多くの日本兵士を無駄に死なせてしまったことを悔やんでいる。今村大佐でさえ情報統制を受け、全貌を知らされないまま3年以上も中国で戦っていたのである。
澄田はその後帰国、昭和28年には軍人恩給を支給され、後に日銀総裁になる長男智の紹介で会社の会長になり、郷里の軍人会の理事長などを努めて昭和54年まで生きた。勲一等旭日大綬章も受賞している。宮崎参謀は敗戦処理のために2年現地残留後、帰国して警察予備隊へ入隊、自衛隊では北部方面司令官になり平成8年に脳梗塞で倒れた。蟻の兵隊の映画化では筆者に協力した。
本当にこんなことがあったのであろうか。蟻の兵隊として戦後も上官に命じられて戦った兵隊たちは何と戦ったのであろうか。そしてそこで生き残り日本に帰国した兵隊たちは日本政府からは現地除隊扱い、つまり軍人恩給の支給を受けられず、逃亡兵扱いを受けたという。母国に2度も裏切られる気持ちであった人も多かった。もっと多くの人にこのことを知ってほしい。
蟻の兵隊―日本兵2600人山西省残留の真相 (新潮文庫)
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