江戸城無血開城の勝海舟を太平洋戦争最後の首相鈴木貫太郎に例える。昭和20年8月になっても鈴木貫太郎は最後まで強気であり、腰抜けのところなんか見せなかった。米内光政らの和平派が首相はどちらに向いているのか疑う時、あっという間にポツダム宣言受諾に国を向けた。「どうせダメならいっその事彰義隊と一緒になってひと泡ふかしてやろうか」などとは考えなかった。大宅壮一はこの「どうせ」と「いっそ」という日本語は外国語に訳せない、こういう考え自体が日本的だといったという。「カチューシャ可愛や別れの辛さ、せめて淡雪とけぬ間に」という「せめて」もそうだとのこと。しかし幕末の勝海舟、太平洋戦争の鈴木貫太郎も「どうせ、いっそ、せめて」などという感情には流されず理性的判断をした。
しかしこの判断には、バックアップがあったのである。海舟は新門辰五郎や日本橋の魚市場の勇み肌の兄ぃ達に話をつけて、西軍が江戸市中に進撃してきたときには江戸八百八町に火をはなって西軍を梵殺してくれるように頼んでいた。イギリス公使ハリー・パークスには徳川慶喜を軍艦に乗せて安全なところに移送してもらう、というところまで話をつけていた。そして、江戸の人々は海岸につけたありったけの船で江戸の川や堀から逃す計画も立てていたというのである。そして勝が西郷につけた条件は、「慶喜の身の安全と幕臣のメンツを保てる石高の保証」。これも太平洋戦争の「無条件降伏」+「国体護持」と似ている。イギリスは薩長を助けながら、幕府の代表であった勝海舟にも手を差し伸べていたことになる。
西軍代表でハリー・パークスと西軍のための病院建設に助力を願った木梨精一郎にパークスはこういった。「前将軍徳川慶喜は降伏の意思を表明しているのに、なんのための進軍を西軍はしようとしているのか。大体において戦争をするならば、政府代表が外国人居留地を統治している領事に政府命令があるはずだが、そんなものは受け取っていない。この国は国際法も知らない無政府状態なのか」勝海舟との会談を前にした西郷隆盛はパークスの言う国際法に付き合ったった気がしたという。西郷隆盛が江戸総攻撃を思いとどまったのは、こうしたイギリスからの圧力があったとする説があるらしいが、当然とも言えるほど現実性を持つ話である。榎本武揚が降伏をする際に、敵方の黒田清隆に「万国海律全書」を送った、というのも、世界列強国を目指すこれからの日本を引っ張る薩長軍に万国法を知っておいて欲しい、という江戸幕府としての誇りと潔さだった。
岩倉使節団が西郷たちを国に残し出発する際に、西郷達に言い残したこと。「国内事務は新規改正をしないこと。諸官省庁官の欠員補充はせず、内閣規模は変更せず、官員増員はしないこと」、西郷はそれをあっさりとホゴにした。元若年寄永井尚志、箱館戦争の副将大鳥圭介、海軍総裁の矢田堀鴻も復職させた。そして勝海舟と大久保一翁、山岡鉄太郎も復活させたのである。山岡は天皇の侍従番長に、大久保一翁、は文部省二等出仕、勝海舟は海軍大輔という高官として復活させたのである。陸軍太輔は山県有朋、海軍のことなら一肌脱ぐか、と勝海舟は思ったのである。その後、勝海舟は1年5ヶ月海軍大輔として勤め、参議・海軍卿1年6ヶ月、元老院議官7ヶ月と合計3年反明治政府にお勤めをして以降は浪人したのである。
そして明治29年になって伊藤博文内閣の政治を次のように批評した。「政治家の秘訣は他に何もない。ただた正心誠意の4文字。伊藤さんはわずか4千万の人心を収攬することもできないのはもちろん、いつも列国のために恥辱を受けて独立国の体面をさえ全うすることが出来ないとはいかにも歯がゆいではないか。つまり伊藤さんはこの秘訣を知らないんだよ。」不平等条約改正のために鹿鳴館を作り、欧風を真似ることばかりに執心する政府を見ての言葉であった。
この言葉を施政方針演説に引用した野田総理、グローバル化というフレーズに欧米風を真似ることに執心ばかりしないように願いたい、と勝海舟なら言ったのではないか。
それからの海舟 (ちくま文庫)
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