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意思による楽観のための読書日記

昭和の東京 12の貌 ***

東京の町は1964年の五輪を契機に大きく変貌した。55年前と現在の都心、下町、繁華街、商店街、住宅街を比べてみて、一体なにが変わったのかを検証する。

都心の隙間を走り抜けるように作られた首都高速、1959年に開催が決定された東京五輪開催に用地買収が間に合わないため江戸城の内堀・外堀と道路上空を有効活用して作られた。お堀に沿って作られたため、迷路のような経路となり、日本橋の上にも躊躇いなく作られ、銀座の京橋から浜離宮にかけて流れていた築地川は埋め立てられた。片側2車線の高速は、環状部分だけでも3車線にしておけばその後の渋滞も随分緩和されたであろうに、そうは行かなかった。羽田空港からのモノレール、本当はJR東京駅まで繋ぎたかっただろうに、工期、予算の壁があった。車両の幅も狭まり、車輪をギリギリのラインで車体に収めたため、車両の中を移動するにも階段を上り下りするような凸凹構造にならざるを得なかった。それでも、この人口ボーナス時期に名神、東名、東海道新幹線を整備しておいて経済的には良かった面もある。その意味で言えば人口減少時期の2020東京五輪は成功する可能性が低い。55年前の東京五輪成功体験をもう一度と夢見る政治家の妄想だと、評価はもうすぐに下せる時が来る。

佃、55年前そこは漁師の町から町工場へと戦後の変貌を遂げていた。工場労働者が暮らす長屋がひしめき水上生活者もいた。銀座の住民は子どもたちに、隅田川から向こうに遊びに行くな、と教えていた。1972年に中央区は湾岸エリア再開発計画を立案、石川島播磨重工業が工場と造船所を移転するタイミングで日本住宅公団と三井不動産が跡地を取得、大川端リバーシティ21が建設され、現在では佃、月島の向こう豊洲はキャナリーゼが暮らすおしゃれな街へと変貌した。

ひばりが丘団地は1959年に完成した敷地34ヘクタールの巨大マンモス団地である。すべてが賃貸物件で、入居戸数は2714戸、最盛期には9000人が暮らした。2DKの間取りで、コンクリート造り、洋式トイレ、瞬間湯沸かし器つきのお風呂と台所は最先端であった。当時の皇太子ご夫婦がアメリカ訪問時に西洋風ライフスタイルを経験するためにひばりが丘団地を見学に来たほどであった。現在ではURが古くなった建物の再生事業を始め、高層化とともに戸数を半分強に減らし、敷地の半分を民間に売却、10-12階建て分譲マンションが建設されている。URは民業圧迫の批判を受けてマンション分譲から撤退。現在はこのようにして全国のUR賃貸物件のリニューアルを行い、有利子負債11兆円の利息を稼ぐことで糊口をしのいでいる。

秋葉原は1960年代にはラジオ部品の街から家庭電気製品の町へと変貌する途中だった。当時の三種の神器は白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫、飛ぶように売れたという。それが1970年代には3C時代となり、カラーテレビ、クーラー、そして自動車に取って代わられる。その時代から今でも生き残るのはオノデン。創業は1951年、拡大戦略を取らなかったことが生き残りの秘訣だという。秋葉原は現在UDXなどのオフィスゾーン、中央通り沿いの専門店ゾーン、昌平橋通り手前の細い通りの新文化創造ゾーンの3層構造。時代的には、50年代がラジオの時代、60年代が無線と家電の時代、70-80年代がオーディオの時代、90年代はPC時代、2000年代がポップカルチャー時代、2010年代が海外向け免税店時代である。

本書で紹介されるのは、これ以外に銀座、谷根千、山谷、夢の島、永田町、吉原、福生、足立区と特徴ある濃い街ばかり。その地で幼年時代、青春時代、サラリーマン現役時代を過ごした読者にとっては忘れられない思い出とともに、その姿が思い起こされる街である。五輪中継を見るときに本書を読んでから見れば、千駄ヶ谷、湾岸エリア、代々木などの中継にも少しは観戦に厚みが加わるかもしれない。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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